No-22 必然性と偶然性

1、日常語における「必然的」と「偶然的」

必然性と偶然性というカテゴリーは、唯物論的弁証法のカテゴリーのなかでも、特に重要なものであり、また分りにくいものです。その分りにくさを取り除く為に、まず、「必然的」と「偶然的」という言葉が私たちの日常語としてどのように使われているか、と言うことを吟味することから始めようと思います。

ある商店(八百屋、小間物屋、菓子屋など)が倒産して店仕舞いをしたという場合に、この主人が例えばギャンブルに凝っていて、店の仕事に熱心ではなかったとすると、「あんなことをやっていてうまくゆく筈はない。あそこが倒産するのは必然的な成り行きだよ」などと言います。
これに対して、そこの主人や家族たちが真面目によく働いていたのに倒産したとすると、「あんなに一生懸命やっていたのに、あの店がつぶれたとは気の毒だね。あれは偶然だよねえ」などと言います。
―― ―― このような場合には、小さな商店では主人はじめ、家族ぐるみで熱心に商売に励まなければ倒産するのが当然だ、という考えが、また逆に、みんなが真面目に働いていればうまくやってゆけるのが当然だ、という考えが基礎にあって、その「当然だ」と考えている通りのことがおこれば「必然的だ」といわれ、「当然だ」と考えているのと反対のことが起これば「偶然だ」または「偶然的だ」と言われるのです。

もう一つ別の例。
学校を卒業してから既に長くたった人が、久しぶりで昔の同級生に出会ったという場合に、あらかじめ何月何日にどこで同窓会があるということを知っていて、その同窓会に出席して同級生の○○君に出会ったのであれば、「偶然に○○君に会った」とは言いません。
電車の中で出会ったとか、野球を見にいったらスタンドで出会ったというのであれば、「今日、○○君にひょっこりと出会ったよ。偶然にもねえ」というようなことを言います。
前の場合には、同級会という席へ自発的に出席した訳で、古い友だちに会うことを当然のこととして期待していた訳です。
あとの場合には、旧友に出会うというなんの期待もなかったのに出会った訳です。期待していたことが起こったのは「偶然」ではなく、期待していなかったことが起こったときに「偶然に」と言われる訳です。

以上に述べたことに限っていえば、おそらくだれにも異議はないだろうと思います。しかし、日常的なことば使いには曖昧な点が多く含まれていて、以上に述べたことでも、もう一歩つっこんで吟味すると、同じように「必然的」とか「偶然的」とかいうことばを使っていても、使う人によってその解釈は必ずしも同じではない、ということが分ります。

商店の倒産という例で、「店のものがみんな真面目に働いていればうまくやってゆけるのが当然だ」という考えが基礎にある、といいました。だが、どうして当然なのか、どういうことが当然なのか、と尋ねるならば、その答えは人によってかなり違うでしょう。
―― ―― わが国には、稼ぐに追いつく貧乏なし」という諺があるように、勤労を尊重する考えが古くからあります。この考えが「因果応報」の思想と結びついて、真面目に働く人は倒産というような悪い報いを受けない、逆に、勤労を軽視してギャンブルに凝るような人は悪い報いを受ける ―― ―― そういうことが当然だという考えがあります。
この考えによれば、悪い報いを受けるべき人がそれを受けるのは必然的であり、そうでない人がそれを受けた場合には偶然的だ、ということになります。
「必然的」と「偶然的」という)いことばが人間の「運命」とのかかわりのなかで理解されている訳です。

また、どういうことが当然か、という問いに対して、「法則に叶っていることが当然だ」と答える人もあります。「水は高い所から低い所へ流れる」というのは一つの自然法則であり、従って水が山から谷へと流れるのは当然であり、また、堤防が切れた場合に都市の低地帯が水びたしになるのは当然である、つまりそういうことは必然的におこる、という訳です。
この答えは、いま述べられている限りでは正しいでしょう。だが、それでは「偶然的」と言われるのは、法則に反したことがおこる場合でしょうか、と問われると、その人はおそらく困るでしょう。 ―― ―― この問いには昔からら二つの答え方があります。

その一つは、あらゆることが法則に叶って起こるのだから、例えばポンプを使って水を吸い上げる場合には、水が下から上に流れますが、しかしこの場合には大気の圧力についての別の自然法則に従って、ポンプによってシリンダーのなかの空気が抜きとられる為に水が下から上に流れるのであって、やはり法則に叶って当然に起こるべきことが起っているので有るから、この世におけるあらゆることは必然的に起こっているのである、つまり、法則に反したことは起こり得ないから、全てのことは必然的に起るのであり、偶然的なできごとというものは存在しない、という答えです。

答えの第二は、原因があって起るべきことは、すべて、この原因からはあの結果が起る、というかたちのそれぞれの法則に従っているから、必然的である、従って、「偶然的」と言われるのは、原因がなしに起る出来事である、と言う訳です。
―― ―― この答えについて更に、原因がなしに何か起るというようなことが本当にあるでしょうか、と尋ねると、その答えはまた二つに別れます。

その第一は、本当にあるという答えです。
古い時代に、カビがはえたり、卵が見つからない所からウジムシが沸いたりするのを「偶然発生」と呼んだことが有ります。
しかし今日では、それは顕微鏡の無い時代に、カビの胞子や虫の小さな卵を見つけられなかったので、原因なしに生物が生まれる場合があると考えたに過ぎない、ということが分っています。
今日では、なにかが本当に原因なしに起こるということは考えられませんから、こういう意味に「偶然的」ということばを使うと、結局、偶然的なできごとというものは存在しない、という第一の答えへと戻って行くことになります。

そこで、一つの変形として出てくるのが、次の答えです。それは、原因なしに起る出来事はないから、本当には「偶然的なもの」というのは存在しないのだけれども、人間はあらゆるできごとの原因を知っている訳ではないので、実際には、原因の分からないできごと、従ってまた、どういう法則に従っているのか分らない出来事が沢山有る、こういうできごとを「偶然的」と呼ぶのだ、という答えです。
この答えは、整理して述べると、 ―― ―― 客観的には、全てのできごとは必然的である、だがが原因が未知で有る場合に、その出来事は主観的に「偶然的」とよばれる、と言うことになります。

この考え方は、後で述べるように、機械的唯物論(弁証法的でない ―― ―― 管理人註)の考え方なのですが、意外に広くゆき渡っている考え方です。
商店の倒産についても、主人がギャンブルに凝っている場合ばかりでなく、店のものがみな真面目に働いている場合にも、それぞれに倒産の原因があり、従って倒産は必然的に起こったのだけれども、あとの場合にはその原因が分らない為に、人びとは主観的にこれを「偶然的な倒産」と呼ぶのだ、というのです。
また、電車や野球場で昔の友だらにひょっこり出会ったという場合にも、自分にもその友だちにもその時間に電車に乗ったり野球場に行ったりする原因がそれぞれ有ったのであって、出会うことは必然的なのだけれども、お互いに自分の方の原因は知っていても、相手の方の原因を知らない為に、「偶然に」出会ったと考えるのだ、という訳です。

しかしこの場合に、2人の人にそれぞれの原因があるにしても、それがたまたま一致するということは期待できない。その期待できない一致がたまたま起ったということは、やはり偶然的ではないか、という反論があります。この種の反論に対して、ある哲学者はこんなことをいいました。
―― ―― 意地の悪い王さまがいて、かれは家来のAとBが仲が悪くて、顔を見れば喧嘩をすることを知っていた。
王さまはAがある用事で自分に会いにくることを知っており、その同じ日時に、用事があるといってBを呼びつけた。Aは自分の用事で、Bは王さまに呼ばれて、同じ時間に宮殿の控えの間でばったりと出会う。二人は、相手の事情を知らず、偶然に出会ったと思っているが、仲が悪いのですぐに喧嘩を始め、決闘に及ぶ。そして二人とも失脚する。
だが王さまは、二人が宮殿にくる時間を自分で一致させたのだから、かれにとっては、二人が出会うことは偶然ではない。かれは二人が出会えば決闘するだろうということも知っていて、自分で手を下さずに嫌いな家来を二人とも失脚させることを狙って、そういう細工をやったのであり、そしてすべては彼の計画どおりに進んだのである、と。

この奇妙な例え話しでこの哲学者が言おうとしたことは、人間はそれぞれ自分の側の原因を知っていても、なぜそれが一致するかという原因を知らないので、たまたま一致したことは偶然だと考えているが、両方の人の事情を見通せる先の例の王さまのような場合には、人間であってもそれを偶然だとは考えない。そんな場合は例外的な特別の場合だが、あらゆる事情を見通せる優れた知恵を持つ人間以上の存在にとっては、あるゆる場合が、あの特別の場合の王様と同様に、偶然的ではない。つまり、偶然的と考えるのはあらゆる場合に、人間の知識に限界があることから生じているのであって、主観的なものである、ということなのです。

日常語にはこのような曖昧さがあるので、「必然的」とか「偶然的」とかいうことばの使い方についてはおおよその一致があるというものの、そのことばでなにを考えているのかについては前述のような不一致があり、各人が自分が日常的に理解している意味で「必然性」、「偶然性」という哲学用語をも理解しようとするところから、いろいろな誤解が生まれます。

弁証法的唯物論のカテゴリーとして「必然性」と「偶然性」と言う用語が使われる場合には、あとで述べるように、厳密にその意味が決まっています。
マルクス主義の理論で「資本主義は必然的に没落して社会主義社会がこれに取って代わる」と言う場合に、マルクス主義を勉強していないでこの言葉を聞く人は、自分が日常用語としての「必然的」ということばを理解しているその理解に従って、「夜があければ必然的に太陽が東の空にのぼる。社会主義社会がくるのが同じように必然的ならば、汗を流して労働運動や革命政党の発展の為に走りまわらないで、居眠りをしていればいいではないか」などと言います。
そしてマルクス主義理論を半かじりでさきのことばを振り回している人は、こんなことを言われると、その人自身がやはり日常用語としての自分なりの「必然的」の理解を出ていないので、有効な反論をすることができません。
反論できないだけでなく、自分自身で納得していないのですから、その人の実践上に迷いが起ったり、日和見的な態度が生まれたりするのです。
―― ―― 最初に必然性と偶然性というカテゴリーはわかりにくいと申しましたが、そのわかりにくさは、日常用語の曖昧さに捉われることから起こるのです。

2、カテゴリーとしての「必然性」と「偶然性」

カテゴリーといっても、それは日常用語から全く切り離されている訳では有りません。
しかし曖昧さを許す訳にはいかないので、考え方の筋を通して、このスジから外れる意味を切り捨てて、「必然性」と「偶然性」という用語をすっきりさせる必要があります。われわれがすじを通すという場合に、そのすじとは、唯物論と弁証法の原則のことです。

唯物論の原則によれば、概念(カテゴリーも含めて)は、客観的実在の本質的徴表が意識に反映されたものです。「必然性」ばかりでなく、「偶然性」もまた、客観的実在のある側面の本質的徴表を反映したものです。
必然性は客観的だが、偶然性は主観的であり、原因を知らないということの別の表現だ、というような中途半端な解釈を唯物論者はとりません。必然性も偶然性も客観的に存在する、と考えます。
―― ―― 「唯物論者はとりません」と書きました。しかし、歴史上で機械的唯物論者として有名な人達が、実際にこういう中途半端な解釈をとっています。例えば十八世妃のフランスの有名な唯物論者ドルバック(1723-89年)は、「自然におけるなに一つとして偶然的には起こり得ない。一切が一定の法則に従っている。.........原子の偶然的結合について語ったり、ある幾つかの結果を偶然性のせいにすることは、諸法則についての無知を語るものである」といい、また「われわれは、原因の連鎖も行動の仕方も知られていないできごとを偶然的であると見なしている」といっています。

これは機械的唯物論者が、弁証法を知らない為に、中途半端な唯物論者であり、観念論に半ばのめり込んだということのよい例なのです。
というのは、ドルバックのように言うと、一方では必然的に作用している普遍的法則に全てのものが従っており、自然現象も精神現象も、現在および未来の全ての出来事が、鉄の必然性によって決まっているのだと言う宿命論的決定論を宣言することになりますが、他方では諸法則の全てが人間には未だ分っていないということを認めるのですから、人間はその考えや行動の末端まで未知のものによって縛られており、決定されてしまっている、と認めることになります。
そうするとこの未知の物を「自然法則」と呼んでみたところで、これを「運命」だとか「神の意思」だとか「摂理」だとか言う観念論者の主張と、結局同じこと(言葉は違うが中身は一緒)になってしまい、観念論にのめり込むことになるのです。

徹底的に唯物論的である為には、同時にまた弁証法的で有らねばなりません。この問題で弁証法の原則を貫くということは、なによりもまず「必然性」と「偶然性」とを対立物の統一として捉えることです。
ドルバックのように全てのできごとは必然的だと考えるのでなく、また逆に、全てのできごとは偶然的だと(例えば、人格主義という観念論の一派の哲学者はそう主張している)考えるのでもなく、客観的実在の対立する二つの側面として、必然性も偶然性も共に自然及び社会のなかに客観的に存在している、と認めることが大切なのです。

具体的に述べましょう。例えば、資本主義的生産様式のもとでは、利潤率の傾向的低下ということがあります。これはマルクスが『資本論』第三部の第13章で説明していることなのですが、資本主義的生産関係のもとで生産力が発展してゆくと、機械や工場などへの、いわゆる設備投資が増大してゆき、可変資本にたいする不変資本の割合がだんだんと大きくなってゆきます。
そうすると剰余価値率(可変資本に対する剰余価値の割合)が同一であっても、全資本にたいする利潤の割合(利潤率)はだんだんと下がってゆきます。このことを「利潤率の傾向的低下」という言葉でいい表わしているのです。

―― ―― しかし、利潤率がだんだん下がるといっても、一直線を描いて下がり続ける訳では有りません。経済現象には一時的動揺がつきものであって、短い期間だけをとれば、利潤率があまり下がらない時期もあれば、逆に上がる時期もあります。このような一時的動揺にも原因がある訳で、マルクスは第14章で、利潤率の低下に反対に作用する諸原因として、労働の搾取度の増強、労働力の価値より下への労賃の引き下げ、不変資本の諸要素の低廉化、相対的過剰人口、貿易・株式資本の増加の六つをあげて説明しています。
だが、これらの原因が働いても、利潤率に一時的な動揺が起こるだけで、利潤率の低下を究極的に押しとどめることはできません。それは、前述のように、生産力の発展に不変資本の割合が大きくなるということが資本主義の発展(これは結局、諸矛盾を激化させて、最後には資本主義の崩壊へと導く発展なのですが)に伴って必ず起こり、従って利潤率は低下せざるをえないからです。

以上一つの具体的な例について述べたように、資本主義経済の発展という客観的なできごとのなかに、利潤率の傾向的低下という基本的な傾向と、利潤率の一時的動揺という副次的な現象とがある訳です。弁証法は、この二つの側面を区別する為に、前者を「必然性」、後者を「偶然性」というカテゴリーでとらえます。
両者はいずれもその原因を持っており、その原因が分からない場合も有りますが、少なくもいまの例でいえば分かっています。

後者が「偶然性」と呼ばれるのは、その原因が分からないからではなく、生産力の発展という資本主義社会の発展の本質的・根本的な原因に拠っては説明できないものであり、従って資本主義社会の発展の基本的傾向から外れたもの、この基本的傾向に副次的にいるものであり、その原因は資本主義社会の本質には属しておらず、従ってこのような原因は必ず存在する訳ではなく、従って、その結果である利潤率の一時的動揺も、起こることもあれば、起こらないこともあるからです。

具体例を離れて抽象的かつ一般的に規定するならば、必然性とは、ある(自然的または社会的な)ことがらの発展過程で、そのことがらの本質のうちに原因を持っており、従って必ず実現される、そのことがらの発展の基本的な側面のことです。

また、偶然性とは、その事柄の本質以外のもののうちに原因を持っており、従って本質のうちにある原因だけでは説明されることができず、そのことがらの発展の基本的側面からはみ出した副次的な側面であり、起こることもあれば起こらないこともある現象のことです。

唯物論的弁証法は、必然性と偶然性とを、対立物の統一として捉えます。この場合に統一とは

  1. 必然性はそれだけで存在せず、必ず偶然性とともに、偶然性を伴って存在する。
  2. 必然性と偶然性とは、一定の条件の元で相互に転化する、すなわちそれまで必然性であった側面が偶然性に、偶然性であった側面が必然性になる。

―― ―― という二つの意味でいわれます。

2の問題では「一定の条件のもとで」ということが重要で、それがどのような条件であるかを具体的に考える必要があります。この問題は難しいから別の機会にゆずって、今回は1についてだけ述べます。

3、必然性は偶然性を媒介として発現する

必然性と偶然性は客観的実在の対立する二つの側面ですから、一方だけが切り離されて存在することはなく、両者は常に相伴って存在しています。俗な言い方をすれば、必然性だけが裸で現われるということはなくて、必然性は必ず偶然性というキモノを着て現われるのです。その現われ方を規定しているのが、3、の見出しにかかげた法則です。

具体例について考えましょう。大資本が小資本よりも有利だ、ということは資本主義経済における一般的法則です。だから、大資本が流通経済面にまで進出して、チェーン・ストアとかスーパー・マーケットとかいったものをつくると、小資本の小売店が競争に負けて倒産するということは、資本主義経済の一つの必然性です。
しかしだからといって、全ての小売店が一度に倒産する訳では有りません。どの小売店がいつ倒産するか、ということまでさきの必然性によって決まってしまう訳では有りません。
だから、あるいは主人がギャンブル狂である店が最初に倒産するかも知れませんし、あるいはスーパー・マーケットがごく近くにできたという店が、店の人達のまじめな努力にもかかわらず最初に倒産するかもしれません。これらはすべて、大資本が小資本に勝つ、という必然性に対して偶然性なのです。
しかし、この必然性は、先月はどこかの小売店が倒産し、今月はこの小売店が倒産した、というような偶然性を通して実現されてゆくのです。個々の小売店の倒産とか営業不振という偶然性なしに、流通経済での大資本の小資本に対する勝利と言う必然性が実然されると言うことは有り得ない訳です。

又、社会主義が資本主義に取って代わるのが歴史の必然性である、ということが正しいからといって、どの国でいつ社会主義革命がおこるか、ということまで決まってしまう訳では有りません。
ある国の革命運動の盛衰にはそれぞれの原因が有りますが、これらの原因はそれぞれの国の内部での階級関係のうちにあることも、その国をめぐる国際関係のうちにあることもあるのであって、世界歴史の発展の基本的傾向、その必然性だけで説明できるものでは有りません。だからそれは世界歴史への必然性から見れば偶然性に属します。
しかし、社会主義への移行という歴史の必然性は個々の国での革命運動の盛衰という偶然性を伴いながら、社会主義革命があの国で、またこの国で成功することを通じて実現されてゆくのであって、これらの偶然性を媒介とすることなしに、前記の必然性だけがハダカでまかり通るということは有りえない訳です。

必然性の実現を促進する偶然性も、妨害する偶然性も有る訳です。
妨害するといっても、利潤率低下の例で分かるように、究極的に妨害し続けることは出来ないが、しかし必然性の実現を遅らせることはできます。だから、社会主義への移行を望むものは、必然性の実現を促進する偶然性を増やし、妨害する偶然性を減らす為に日夜奮闘している訳であって、傍観者のように必然性があるからといって居眠りをしている訳にはいかないのです。

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