No-10 対立物の統一の法則(1)
※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
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1、発展についての二つの見方
前回の終わりのところで、「進歩」ということばは、「より良くなる変化」という意味で使われているが、そこには「良いか、悪いか」という価値判断が含まれているので、そしてこの価値判断は、判断する人によって、とりわけ社会的な問題についてはどう言う階級の立場からその価値が考えられるかによって、違ったものに、正反対のものにさえなるので、主観的な要素が入っている、ということを述べました。
勿論、「社会の進歩」ということばを使う場合に、何が本当の意味での社会の進歩であるかについて議論し、資本家やその代弁者の言う「社会の進歩」が、結局は一握りの少数者の利益になるような社会の変化に過ぎない、ということを暴露することは大切です。
しかしこのような価値判断についての問題で相手と議論してこれを打ち負かす為にも、先ず、そういう価値判断を入れないで、実際に(つまり客観的に)世界(自然と社会)はどのように変化しているのか、ということをはっきりと掴んでおく必要があります。
先ず簡単な自然現象について考えてみましょう。水は温度が下がると氷になりますが、温度が上がれば、溶けて又水に戻ります。自然現象の中には、このように行きつ戻りつして、同じ往復を何度でも繰り返すことのできる変化が有ります。又、春・夏・秋・冬が一回りして、又元の春に帰ってくる(勿論その間に春には木に芽がでて花が咲き、夏には実が出来、秋には実が成熟すると同時に葉の色が変わり、冬には葉が落ちて枯れ木同様の姿になるが、又春になると芽が出て花が咲く、等々のことが起こる訳です)というように、同じ順序でぐるぐる回って何度でも繰り返す変化もあります。簡単な言葉を使えば「往復運動」と「循環運動」ですが、このような運動・変化が自然界にあることは事実であり、又見やすいことです。
だが、このような春夏秋冬が一巡りする(つまり一年経つ)ということが何十回も繰り返される間に、人間は歳をとり、かっての紅顔の美少年が白髪の老人になってしまいます。このことを嘆いてある東洋の詩人は「自然は変わらず、星霜新たなり」と言ったのでした。「星霜」とは一年を意味する言葉ですが、ここでは人間が歳をとることをさしています。
これは一面では真実を、或いは人間の実感を語っている詩句ですが、しかし全面的に正しいという訳にはゆきません。確かにこの詩人が実感しているように、人生の長さ(50年ないし100年)に比べると、自然は変わらないように見えます。前に述べたように、春には花が咲き、やがて散る、というのも、変化だと言えばその限りでは変化ですが、来年の春には又花が咲くのだから、つまり先に使った言葉で言えば「循環運動」が行われているのだから、大きく言えば自然は不変だ、という訳です。
同じことに少しばかり宗教的な意味を付け加えて、あるイギリスの詩人は、"Good's in the heaven,nothing in the world."と謳いました。上田敏の名訳では「神天にしろしめし、世はすべてこともなし」というのですが、後半の「世はすべてこともなし」というのは、この世の中には新しいものなんて何もない、という意味です。
つまり、戦争が起ろうが、革命が起ころうが、そんなことは全て古い古い昔から行われてきた人間同士のつまらない争いの繰り返しであって、その繰り返しの中で人は死に、又別の人が生まれてくる、という同じことが引き続いて行われているだけだ、これこそ新しいものだと言えるようなものは、この世には一つもないのだ、とこの詩人は謳っているのです。こう言う気持ちを悟りの境地だ、などと言って褒めそやす人もいますが、これも正しくありません。
なぜかと言えば、自然界には、前に述べた「往復運動」や「循環運動」とは違った、別の形態の運動・変化が有るからです。その実例は既に皆さんがご存じのように、太陽系の生成とか、地球上での生物の種の進化などです。詩人が見たように50-100年の規模では「自然は変わらず」と言えるでしょうが、自然科学者はそれよりずっと長い時間の経過の中で自然を捉えて、「自然は不変ではなく、発展しつつあるのだ」ということを発見した訳です。
そこで話を振り出しに戻して、「発展」とはどのような変化を言うのでしょうか。
今までに述べた限りでは、それは「往復運動」や「循環運動」ではない、といういわば消極面からの発展の規定が明らかにされているだけです。次に、発展をその積極的な側面から捉えてこれを規定する必要が有ります。
レーニンは『哲学ノート』のなかの「弁証法の問題について」という比較的短い覚え書きの中で、発展についての二つの見方、二つの発展観が有る、ということを述べています。非常に簡潔に書かれているので、初めて読む人には分かりにくいと思われますが、先ずそれを引用して、それから解説を加えることにします。
「二つの根本的な(或いは二つの可能な? 或いは歴史上にみられる二つの?)発展(進化)観は、次のものである。
減少及び増大としての、反復としての発展、及び対立物の統一(一つのものが互いに排除し合う二つの対立物に分裂すること、及び両者の相互関係)としての発展観である。
第一の運動観にあっては、自己運動が、その推進力が、その源泉が、その原動力が、影に隠れたままである(或いは、この源泉が外部に ―― 神、主観、等々に移される)。
第二の運動観にあっては、主な注意はまさに、『自己』運動の源泉の認識に向けられる。
第一の考えは、死んだ、生気の無い、干からびたものである。第二の考えは、生きている。第二の考えだけが全ての存在するものの『自己運動』を理解する鍵を与える。それだけが、『飛躍』、『漸次性の中断』、『対立物への転化』、古いものの消滅と新しいものの出現、を理解する鍵を当たえる」
先ず一番分かりやすいところから取っ付きましょう。それは最後の近くにある「古いものの消滅と新しいものの出現」という言葉です。これが「発展」を「発展以外の運動・変化」から区別する重要な特徴です。
例えば、太陽系の生成の場合には、星雲だか宇宙塵だかが有ったのだが、それが今日のような太陽系に変化したのです。この場合には最早、水と氷の場合のような後戻りもなければ、春夏秋冬のようなぐるぐる回りも有りません。星雲や宇宙塵はこの場合に古いものであり、それは消滅したのです。そして太陽系という新しいものが出現したのです。
太陽系も永遠不変ではない訳で、非常に長い時間を経て、今日の太陽系とは違ったものに変化するでしょう。しかし、氷が解けて元の水になるように、太陽系が出来る前の状態(星雲とか宇宙塵とか)に戻るのではないのです。その時には今日の太陽系が古いものとして消滅し、なにか新しいものが出現するでしょう。
このように、古いものが消滅して新しいものが出現する変化、これが「発展」なのです。
社会についても同じことが言えます。例えば封建制社会から資本主義社会へと発展したという場合に、封建的な社会関係(これがこの場合古いものである)が消滅して、資本主義的社会関係(という新しいもの)が出現したのです。
尤も、社会の変化は複雑で、封建制的社会関係がきれいさっぱりと一度に消滅しないで、例えば日本の明治維新の場合のように、政治面では幕藩体制が崩壊し、領主大名というようなものはなくなったけれども、地主=小作関係という形で封建的生産関係が残存する場合が有ります。しかしこの場合にも、新しい資本主義的生産関係が急速に出現し、その勢力を増して行った訳で、やはり後戻りはしていない訳です。
世界の歴史をみると、革命後に反革命が行われて、一時的に後戻りする場合が無い訳ではありませんが、複雑なジグザグの道を通りながらではあっても、世界歴史の全体を通して、古い社会体制の消滅と新しい社会体制の出現が行われてきたのであって、その意味で「社会は発展している」のであります。
質問が有ります。始め人類の社会は原始共同体という無階級社会であったが、奴隷制、封建制、資本主義という階級社会の段階を通って、共産主義社会で再び無階級社会になるのだ、と言われていますよね。無階級社会 ―― 階級社会 ―― 無階級社会というこの変化は、一種の「循環運動」では無いのですか。
そうではありません。階級が有るか、無いか、という点だけからみると、あなたの言われる通りになります。しかし原始共同体は、生産力の段階が非常に低くて、人間がやっと生きて行けるという状態、いわば動物の生活に未だ非常に近い状態での無階級社会でした。将来の共産主義社会は、生産力の段階が非常に高くなって、各人がその能力に従って働けば、すべての人間が必要な物資を必要なだけ手に入れることが出来るという、豊かな生活を保障されている社会体制です。
原始共同体は、人間が他の人間を階級的に支配することが未だ出来なかったから無階級だったのであり、共産主義社会は、人間が人間を階級的に支配することが最早不必要になり、階級が消滅した結果生まれる無階級社会です。だからその内容が全く違うのであり、同じ出発点に一回りして戻るという「循環運動」ではないのです。
さて、さきに引用したレーニンの文章にもどりましょう。ここでレーニンが第一の運動観と呼んでいるものは、発展を「減少及び増大として」、「反復」として捉える見方です。
先ず変化には質的変化と量的変化とが有る、ということに注意する必要が有ります。先に第二の発展観(これが正しい、弁証法的な発展観であることは、言うまでも有りません)について述べているレーニンの言葉から、「古いものの消滅と新しいものの出現」という一句を取り上げましたが、ここで「古い」とか「新しい」とか言っているのは、質の違いについて言っているのです。そのことは前に挙げた例からも分かって頂けると思います。
例えば封建制と資本主義とは、社会体制・生産関係の質が違っているのであり、したがって前者から後者への変化は質的な変化なのです。水が氷になっても、それが酸素と水素の化合物であることは変わっていない、すなわちH2Oであることに変わりはないのだから、この変化は質的変化ではない、ということをかって私に行った人が有りました。だがこの人は、物質の化学的組成だけを「質」と考えている訳で、「質」という概念を狭く捉え過ぎているのです。液体であるか固体であるかということも質の違いであり(もしそうでなければ量の違いだということになるが、それはおかしい)、したがって水が氷になることは、やはり質的変化です。
ところでレーニンのことばに戻って、まず発展を「減少及び増大として」捉えるということは、量的変化としてだけ捉えるということです。人口の増加とか国民所得の増加とかは、明らかに量的変化ですが、この見方によれば、このような変化が既に社会の発展だということになります。
次に発展を「反復」として捉えるということは、既に何度も述べたように、「往復運動」や「循環運動」では循環運動」だけしか認めないことです。だからレーニンが第一の運動観と呼んでいるものは、結局、本当の意味での発展を認めない考え方なのです。
レーニンはこのような運動観について、「その推進力が、その源泉が、その原動力が、影に隠れたままである」と批判しています。つまり、何故そのような運動・変化が起こるのか、という原因が問われも、答えられもしていない、という訳です。若しもあえてその原因を問うならば、こういう考え方をしている人は、その原因を外に(すなわち、自然や社会の、物質の外に)求めざるを得なくなります。何故かと言えば、物質の内部にそのような運動・変化を起こす原因、原動力になるものを何も示すことが出来ないでいるからです。そこでレーニンがカッコの中で言っているように「この源泉が外部に ―― 神、主観、等々に移される」ということになります。
物質(自然)以外に原因を求めるのですから、神様でも持ってくるより仕方がない訳です。これは既にこの講座の第五回目に述べたように、「物質と運動は切り離せない」という唯物論の主張に反しており、明らかに観論的な考えに陥っているものであります。
「物質と運動は切り離せない」ということは、物質は自分で運動していると(すなわち、自己運動を)認めることであり、運動の原因、原動力は物質そのものの内部にある、と考えることです。この自己運動を認める見方が、レーニンの言っている第二の運動観であって、この運動観は当然、ではこの自己運動の源泉は何か、と問うことになります。
注意しておきたいことは、ここに唯物論と弁証法が切り離せないということが、はっきり表れてくることです。唯物論的に運動を捉える、すなわち、神などに運動の原因を求めるのではなく、物質の自己運動を認めるならば、当然、この自己運動を理解する鍵として、次のような弁証法的な運動観(発展観)を捉えなければならないのです。
ではそれは何かと言えば、再びレーニンの言葉を引用するならば、発展を「対立物の統一(一つのものが互いに排除し合う二つの対立物に分裂すること、及び両者の相互関係)として捉える」という見かたです。レーニンの文章の中にある「飛躍」、「漸次性の中断」、「対立物への転化」については次回に述べることにして、まず「対立物の統一」について述べることにしましょう。
2、対立物の統一の法則
前回の終わりに、弁証法の「基本法則」は三つあるということを述べて、その名前を列挙しました。その最初に挙げてあるのがこの「対立物の統一の法則」です。ただ最初に挙げているというだけでなく、三つの基本法則の中でも最も基本的な法則であり、まさに弁証法の「核心」をなしているのがこの法則です。ではそれはどんなことを言っているのでしょうか。もう一度、レーニンの言葉を引用することから始めましょう。
先に挙げた「弁証法の問題について」という覚え書きの、さきに引用した文章のすぐ前のところで、レーニンはこう述べています。
対立物の統一とは、「自然(精神も社会も含めて)のすべての現象と過程とのうちに、矛盾した、互いに排除し合う、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である。世界の全ての過程を、その『自己運動』において、その自発的な発展において、その生き生きした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである。発展とは対立物の『闘争』である」。
前の節で述べてきたように、まず問題は、物質の、(精神も含めて)自然の自己運動の源泉は何か、という問題でした。この問題に答えて、弁証法は、それは物質そのものの内部にある(発見される)対立物の統一である、と主張するのです。
対立物というのは、あらゆる現象や過程の中に見出される、互いに矛盾した、互いに排除し合う、対立した傾向、要因、力、性質などのことです。対立「物」というからと言って、必ずしも手で掴めるような「物」のことを言っているのではありません。
具体的な例を挙げれば、労働者階級と資本家階級とは資本主義社会という一つの社会形態の中に存在している対立物です。
陰電気と陽電気とは、原子の中に、したがって又原子が集まって形成されているあらゆる物体の中に存在している対立物です。或いは又、人間が何か複雑な問題を考えて解決しようとする場合に、分析と総合とは対立物です。
動物が生きてゆくには、食物を食べこれを消化・吸収して身体の一部分に転化させ(これが同化作用)、同時に身体の一部分である炭素が酸素と化合して熱エネルギーを供給します(これが異化作用)が、この同化作用と異化作用は対立物です。
以上の例に挙げた二つの要因、傾向が対立物であるのは、それらが互いに排除しあう対立した要因、傾向であるからです。例えば、資本家の利潤が増大することは、労働者がそれだけ多く搾取されることであり、両者の利益は互いに対立していますし、ものを考える場合に分析するとは、結びついているものを要素に分けることであり、総合するとは、別れている要素を一つに結びつけることですから、考える働きとしては反対の方向を持っている訳で、分析が同時に総合でもあるという訳にはゆかないので、互いに排除し合う思考の要因であります。
他の例の場合も同様で、自分で考えてみれば分かると思います。
次に、対立物の「統一」というのは、前述のように、対立物とは互いに排除し合う傾向、要因、力、性質などですが、この対立物が互いに排除し合いながらも、離れ離れになることがなく、一つの事物や現象の中に結びついて存在していることを意味します。例えば資本家だけでは資本主義は成り立つことができません。金持ちだということと資本家だということとは違う訳で、自分の持っている資金で工場や機械を買うだけでなく、賃金を払って労働者を雇い、これを働かせて商品を生産させ、労働者に剰余価値を生み出させることによって初めて、彼は資本家であり得る訳です。
別の例をとれば、生物が生きている限り、同化作用も異化作用もともに行われています。若しもどちらか一方が行われなくなれば、その生物は死んでしまいます。生命がある(生きている)という一つの現象は、まさに同化作用と異化作用という対立する要因が一つに結びついていることによって成り立っています。
だがこのように一つの事物、一つの現象の中に結びついているからと言っても、それは対立物(互いに排除し合うという性質を持っている)なのですから、両者の間には闘争が不可避的に行われます。互いに相反する傾向、要因であっても、それらが別々に別れて存在しているのであれば、両者が無関係に存在することもできます。互いに排除し合う対立物が一つの事物や現象の中に統一されているからこそ、それらは無関係に共存することが出来ず、対立物のあいだに必ず闘争が起こるのです。 ―― このことが「対立物の統一」ということの第一の意味です。
今述べたように「対立物の統一」と言ったからと云って、統一だけが有るのではなく、対立物は統一されながら、しかも同時に闘争しているのであり、闘争が有る以上はその結果、一方が他方に打ち勝つ時が来ます。このことによって、この対立物の統一によって成り立っていた事物、現象に変化が起こります。この対立物が古いものと新しいものである場合には、両者の闘争が続けられていった結果、新しいものが古いものに打ち勝つ時が何時か必ずやってきます。その結果、その事物又は現象は新しい事物、現象に変化します。これが発展するということなのです。
資本主義社会における両階級の例について言えば、資本家階級は資本主義的社会体制を維持しようとする、保守的な、古い社会勢力です。これに対して労働者階級は、資本主義的社会体制を変革しようとする、革新的な、新しい社会勢力です。
両階級は、さきに述べた意味で、資本主義社会という一つの社会形態の中に統一されていますが、両者の根本的利益が相反しているので、両者のあいだには必然的に階級闘争が行われます。この階級闘争は激化して行き、労働者の闘う力が強くなれば、資本家側からの弾圧もそれだけ激しくなります。
この闘争で、資本家側の力の方が未だ強い間は、資本主義的社会体制が、内部に階級闘争を孕みながらも維持されている訳です。だが、階級闘争が続く過程で、労働者階級はその革命的エネルギーを育て蓄えてゆき、いつかは必ず両者の力関係が逆転する時が来ます。このことによって資本主義から社会主義への社会の発展が行われるのです。
他の例について述べる紙面が無くなりましたが、要するに、一つの事物、現象の中に対立物が統一されながらしかも闘争しているからこそ、その事物、現象は「自己運動」をするのであり、この対立物の統一と闘争こそが自己運動の、又発展の源泉、原動力、推進力なのです。
レーニンはそのことを簡潔に「発展は対立物の『闘争』である」と述べたのです。若しもこのことを認めないならば、前の節で引用した文章でレーニンが「第一の運動観」と呼んだあの考え方に陥ることになり、「自己運動」を理解することが出来なくなってしまいます。
なお一言しておくならば、この法則のことを「対立物の統一と闘争の法則」と呼んでいる本も有ります。丁寧に言えばそう表現しても良いのですが、「対立物の統一の法則」と表現したからと云って、対立物の闘争を忘れている訳ではなく、対立物ということばに既に闘争が不可避的に起こる所以が含まれているので、簡単に「対立物の統一の法則」と呼んで少しも差し支えないのです。
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