No- 5 物質とその運動

前回は、まず古典を引用して、それに解説を加えると言う書き方をしたので、ちょつと難しかったと思います。 今回は、始めに講義をして、そのあとで読者と対話するという形式で書きましょう。

    

 

1、哲学でいう物質とはなにか

第二回目に、「なによりもまず、物質が存在している。物質がもとのものであり、観念は後から生まれたものである」というのが、唯物論の恨本的な主張であり、「観念的(精神的)なものがもとのものであり、これから物質的世界が出来てきた」というのが観念論の根本的な主張である、ということを述べました。
そして第四回には、哲学の根本問題についてのエンゲルスのことばを『フォイエルバッハ論』から引用して、この根本問超にどう答えるかによって、唯物論と観念論とが分かれる、ということを明らかにしました。

※ 管理人注

以下の解説は「物質の哲学的カテゴリー」を確立する上で非常に重要です。自然科学、特に物理学における物質理解と、唯物論哲学で言う物質理解の違いを、レーニンの「物質定義」との関連でキチンと峻別することです。
このことは特に、20世紀以降、量子論の登場、及び「宇宙誕生論」など、現代物理学の怒涛のような発展の中で、逆に「物質の客観性」についての迷いが(例えば「観察」に伴う粒子の「不確定性」や「『無』からの、宇宙生成」など)、一部では有りますが台頭してきているような気がする中で、特に重要です。
又それ以上に、「人間の本質」理解の上で非常に重要です。人間理解の為には「生物学的連続」を踏まえつつ「群れから社会への飛躍」を見通すことが決定的に重要だからです。人間を社会における運動体とみる観点です。

このように、「物質」と「観念」ということばは、唯物論と観念論との区別を理解するために重要なことばです。それぞれの科学で、その科学にとっての基本的な概念を「カテゴリー」といいます。
例えば、「速度」、「加速度」、「質量」、「力」などは力学のカテゴリーであり、「使用価値」、「剰余価値」、「貨幣」、「資本」などは経済学のカテゴリーです。カテゴリーを正しく理解しないと、それぞれの科学を正しく理解することができません。哲学でも同じことです。
「物質」とか「観念」とかいうのは、哲学の大切なカテゴリーですから、哲学の学習にとっては、これを正しく理解することが必要です。
まず、唯物論哲学にとって最も基本的なカテゴリーである「物質」についてお話しましょう。

日常生活で「物質」ということばが使われる場合には、石だとか紙だとか空気だとかが考えられていることが多いでしょう。またある人達は、水素、酸素、鉄、ナトリウムなどの化学元素を「物質」だと考えていますし、更にある人達は、これらの化学元素を構成している原子や、原子を構成している電子、陽子、中性子などを「物質」だと考えています。
―― ―― これらの考えが間違っているという訳では有りません。いま例に挙げたようなものは、確かに物質です。

しかし、そのようなものだけが物質であるのではない。哲学のカテゴリーとして「物質」という堤合には、以上に挙げられたものを含めて、もつと広い範囲のものを指し示します。
さきに例として挙げられたものは、みな質量(重さ)のあるものですが、例えば電磁波(光りも電磁波の一種です)のような質量(重さ)のないものも物質なのです。
なぜこんなことをいうかと申しますと、この点をハッキリさせておかないと、議論に混乱がおこり、観念論者に付け込む隙を与えるからなのです。

―― ―― 物質とはなにかということについての考えは、古代から現代へと、歴史的に変わってきました。これは主として自然科学の発展によるものです。
だが、ここで注意しておかなければならないことは、自然科学で「物質とはなにか」と問う場合には、「物質はどんな構造を持っているか」ということが問われているのだ、ということです。
この問いに対する答えは、前に述べたように、歴史的に変わってきましたし、今後も変わって行くに違い有りません。

この自然科学的知識の一定の発展水準に縛られて、例えば、電子、陽子、中性子などの素粒子が物質であると、すなわち質量(重さ)のあるものだけが物質であると考えますと、自然科学上の新しい発見が起った時に、すなわち例えば、電子と陽電子とがぶつかってガンマー線に転化するという事実が発見されたときに、混乱が生じます。
と言うのは、電子も陽電子も質量(重さ)を持ったもので有るのに、ガンマー線は電磁波の一種で質量(重さ)を持たないので、物質(質量=重さをもつもの)が消滅した、ということになるからです。
もしも物質が消滅するとすれば、唯物論はその基礎を失った、と言って観念論者は大喜びをします。

レーニンによる物質の定義

だから、唯物論哲学は、その時どきの自然科学の発展水準に縛られることなく、つまり物質の横造がどのようであるかについての知讃に関係なしに、「物質」という哲学的カテゴリーを確立しておかなければなりません。
哲学が問題にしている物質とは、物質と観念・意識・精神とは、どちらがもとのものかと問われる場合の物質なのですから、物質の横造についての自然科学的知識とは関係がないからです。
そして、これを確立したのが『唯物論と経験批判論』のなかでの有名なレーニンの物質の定義です。すなわち.........、

「物質とは、人間にその感覚において与えられており、われわれの感覚から独立して存在しながら、われわれの感覚によって模写され撮影される客観的実在を言い表す為の哲学的カテゴリーである」

ここの「われわれの感覚から独立して」ということばは、「われわれの意識から独立して」と言い換えても同じことです。
「人間にその感覚において与えられており」とか「われわれの感覚によって模写され」云々とかいう場合、それは直接にという意味では有りません。なんらかの装置を使って感覚に与えられるという場合を含んでいます。

だから、レーニンのこの定義によれば、石や紙が物質であることは勿論、磁磁波も物質です。例えば放送局から送っているラジオ用の磁磁波は、目や耳で直接にとらえられないけれども、小型のトランジスター・ラジオが一個ありさえすれば、感覚に与えられるからです。
従ってまた、電子と陽電子とがぶつかってガンマー線に転化するという現象は、物質が消滅することを意味するものではなく、物質の存在形態が変化したと言うことを意味するに過ぎません。

更にレーニンの物質の定義に関連して重要なことは、社会関係のなかにも「物質的」とよばれるものがあるということです。 例えば生産関係がそうです。
「生産関係〕とは、社会的生産における人間と人間との関係のことであり、マルクスは次のように説明しています。

「生産のさいに、人間は、自然に働きかけるばかりでなく、また互いに働きかけあう。彼らは、ある一定の仕方で共同して活動し、その活動を互いに交換することによってのみ、生産する。
生産する為に、彼らは互いに一定の連絡や関係を結ぶが、これらの社会的連絡や関係の内部でのみ、自然に対する彼らの働きかけが行われ、生産が行われるのである」(「賃労働と資本」)。
「人間はその生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意思から独立した関係、生産関係に入る」(「経済学批判」序言)。

そして、レーニンは、「"人民の友"とはなにか」の中でこのこの生産関係を「物質的社会関係」とよび、「人間の意識を通過しないで形成される関係 ―― ―― 人間は、生産物を交換することによって生産関係に入り込むが、ここに社会的生産関係があることを意識さえしないで、そうするのである」と説明しています。生産関係の問題は、史的唯物論に属する問題ですから、ここではこれ以上詳しくこの問題に触れようとは思いません。
ただここで生産関係について述べたのは、生産関係が人間の意識から独立した客観的実在であること、レーニンの物質の定義に照らしてみれば、このような社会的関係は「物質的」社会関係であること、そして、社会関係にこのような「物質的」社会関係があることを認めることが、社会、歴史を唯物論的に理解するために決定的に重要だということを言っておきたかったからです。

質問があります。レーニンはなぜ物質の定義のなかで、「われわれの感覚によって模写され、撮影され、反映される」ということをわざわざ言っているのですか。
うんと遠くにある星で、一番大きな望遠鏡でも見えないものは、われわれの感覚によって模写・反映されていないでしょう。それでもその星は物質なんだから、「物質とはわれわれの感覚から独立して存在する客観的実在である」と言い切ったほうが良いように思うんですがねえ。

それはね、「模写され」云々と言っているのは、今現に感覚によってとらえられていると言う意味ではなくて、感覚によってとらえられることが出来るという意味なんですよ。
もっと大きな望遠鏡、もっと新しい観測装置が出来れば、感覚によって模写、反映されることのできるものは、みな物質です。いま現に発見されていなくても構わない。

なぜああいう言葉をつけ加えたかというと、例えば神を信じている人は、神さまというものは客観的実在であって、あなたが信じようが信じまいが、そんなことには関係なく、つまり人間の意思から独立に、ちゃんとおいでになるんですよ、ということを言う。
ヘーゲルという哲学者の説によれば、「絶対的理念」というのが、やはり同じように、人間の意識から独立して存在する客観的実在だ、ということになっている。ところがこういった神だの絶対的理念だのは、どんな装置を持って来ようが目に見えたり、耳に聞こえたりするものではない。
現にそうでないばかりでなく、将来もそうでない。だから、そういったものは物質ではない、ということになる。
レーニンの定義のなかのあの「感覚によって模写され」云々ということばは、神やなんかを客観的実在だと主張する人びとに対して、かれらのいう「神」や「絶対的理念」と、われわれのいう「物質」とが混同されないようにするために、やはり必要なことばなのです。

2、物質と運動とは切りはなせない

次に、物質はすべて運動している、運動しない物質というものはない、物質と運動とは切り離せないのだ、ということを認めることが大切です。

「運動」というと、空間のなかで物体がその位置を変えることだけを考える人達がいると思います。だが、このような位置の変化、つまり場所の移動は、「力学的運動」と言って、運動の一つの種類ではあるけれども、これだけが運動では有りません。
哲学で「運動」という場合には、もつと広い意味でいっているのであって、物質のあらゆる変化のことです。
例えば、物体の温度が変化するのも運動ですし、水素と酸素とが化合して水になるというような化学的変化も運動です。物質は常に、このような広い意味での運動をしているのです。

静止ということは、相対的な意味でだけ言うことができます。人びとは、地上にある石を静止している(じっとしている、動いていない)と言います。
だが、これは、その石が地球の表面にたいして(相対的に)静止している、すなわち位置を変えないという意味であって、地球は自転し、また太陽にたいして公転しているのですから、その石も、太陽にたいしては位置を変化させている訳です。
また別の面からいえば、目には見えないけれども、その石を構成している諸分子は常に小さな振動運動をしています。こういう訳で、絶対的に静止している物質というものはないのです。

ニュートンと「神の一撃」

かっては、始めに絶対的に静止した物質があって、それがいつの日か、なにかの原因によって運動を始めた、という考え方がありました。大物理学者のニュートン(1642-1727)もこういう考え方をした一人でした。
そこで彼は、この静止していた物質を動かした最初の原因はなんだろうか、と考えました。
この最初の原因は、物質的な運動であることは出来ません。と言う訳は、もしもそれが物質的な運動であれば、この運動を引き起こした原因が更に別になければならないことになり、したがってそれは最初の原因では有り得ないことになるからです。
そこでニュートンは、この最初の原因になるものは神だと考えました。すなわち、神が物質に「最初の一撃」を加えた、これによって、それまで静止していた物質が運動するようになり、それ以来ずっと物質は運動しつづけている、というのです。
神の「最初の一撃」という奇妙な考えが出てこざるをえなかったのは、そもそも、物質と運動とを切りはなして、始めに静止した物質があった、と考えたからです。こういうまちがった前提をおいたので、奇妙な結論がでてきたのです。

これに対して、ほぼ同じ時代のイギリスの唯物論者トーランド(1670-1722)は、運動は物質に必ず属している性質であって、物質から引き離すことが出来ないと主張しました。
彼は、物質は原子から成りたっており、更にこの原子は能動性を持っていて、物質のあらゆる変化はこの原子が持っている能動性の現われである、と考えたのです。
トーランドの時代以来、唯物論者たちは、物質を運動とは切り離せないと言うこの正しい考えを守り育ててきました。
弁証法的唯物論は、エンゲルスが『反デューリング論』で言っているように「運動は物質の存在の仕方である」と考えます。物質は運動するという仕方以外の仕方では存在しません。
レーニンがいっているように、「世界には運動する物質以外のなにものもない」(『唯物論と経験批判論』)のです。

それは分かるんだけど、ではその運動する物質と言うものがどうして出来たのか、と考えると分からなくなっちゃう。

これは困った質問ですね。物質は不生不滅です。物質はいま現にある。このいま現にある物質は、前に述べたように、決してなくならない、つまり不滅である。それと同じように、いくら過去にさかのぼっても、物質はあったのです。無から生じたわけではない。
静止から運動が生じたと考えると、ニュートンのように、神の「最初の一撃」が必要だと言うことになったでしょう。同じように、無から物質が生じたと考えると、神の「創造行為」が必要になります。
そうではなくて、物質は最初から有ったのです。いや「最初」という言い方も良くない。時間にはじまりがあったようにとられるから。
時間に始まりも終わりもない。そして物質は、永遠の過去から永遠の未来に渡って存在し続けるのです。

※ 管理人注
現在の宇宙論では、およそ146億年前、宇宙、それに伴う物質、力、時間までもが量子論的「無」から誕生成立したことが論証されています(ビッグバン)。又その将来も様々に想定されています。つまり「始まり」と、どうやら「終わり」も有るらしいのです。
...と言うことで、上記本文、「永遠の過去から永遠の未来」と言う表現は、現代物理学によって否定されていると言えます。ここにも経験的実証科学によって、時間をも含めて「発展」が有ることが明らかにされ、「全ては発展する」と言う弁証法の命題が、又一つ確認された例だとと言えるでしょう。

しかしでは、例えば宇宙の誕生以前の姿、或いは宇宙の遠い未来について、現代物理学が答えを持ち合わせているかと言うと、そこにはまだ大きな限界が有ります。つまり未だ分かっていないこと、或いは現代物理学の範囲では、本質的に理解不能なことが有るのかも知れません。
しかしいずれにしても、そこに「神」を持ち込む必要が無いことだけは確かです。弁証法的唯物論の正しさが否定されたものではなく、今後もますます精彩を放って行くことでしょう。

    

 

3、 物質の運動形態と運動法則

さきに、哲学で「運動」という場合には、力学的運動だけでなく、もつと広い意味の運動を意味するのだ、ということを述べました。
物質はさまざまな運動をしています。そしてこれらのさまざまな形態の運動は、勝手気ままにおこなわれているのではなく、それぞれ一定の法則に従っておこなわれています。
ですから、物質にはどのような運動形態があるか、それらの運動形態の相互間には、どのような関係があるかを知ることが大切です。そのことを知らないで、ただ「世界には運動する物質以外のなにものもない」ということだけを主張したのでは、世界の多様性を単純化してしまう誤りに陥ります。

弁証法的、物質の運動観

更に、弁証法的唯物論は発展の見地にたつ唯物論ですから、さまざまな運動形態が有るといって、それらを並べたてるだけでなく、運動形態にも低いものから高いものへの発展があることを認め、それがどのような発展過程であるかを説明します。
次にその概略を述べましょう。

力学的運動すなわち空間の中での物体の位置の変化は、最も低い運動形態です。
位置の変化と言うことは、例えば地球の表面に対して人間が動くと言うように、二つ以上の物体の相互関係としてのみ意味を持ちます。

二つの離れた物体が位置を変えた結果、衝突する場合があります。又二つの物体が部分的に接触しながら位置を変えると、摩擦がおこります。衝突と摩擦は熱を生じ、又ある条件のもとでは、音、光、電気、磁気を生じます。
つまり、力学的運動形態から物理的運動形態への移行が起こります。

力学的運動は力学の法則に従っています。だが電磁気学的現象は、もはや力学の法則では説明できません。運動形態が変わると、物質は新しい法則によって運動するようになるのです。
それ以前の運動形態で作用していた法則(今の場合には、力学の法則)が、相変わらず作用し続けますが、それだけでなく、その運動形態に固有の法則(今の場合、物理学の法則)が付け加わるのです。

さて、炭素と酸素を高温にすると、化合して炭酸ガスになるように、物理的運動(この場合、加熱)形態にある物質は、一定の条件のもとで化学的運動形態に移行します。
複雑な化合・分解の過程で高分子の化合物が作られてゆき、原初的地球の海の中で、淡白体が合成されました。蛋白体は、物質代謝という生物体に特有の機能を持つ高分子化合物であって、こうして極めて初歩的なものではあるが、最初の生物が生まれました。
すなわち、化学的運動形態から生物学的運動形態への移行がなされたのです。

地球上にひとたび生物が生まれると、それから後は進化論でよく知られているように、下等の種から高等の種への進化が次から次へとおこり、ついにはある種の類人猿から人間への進化が行われました。
これは同時に、サルの集団が人間の社会になったことを、すなわち生物学的運動形態から社会的運動形態への移行が行われたことを意味します。

※ 管理人 注 
長い間、人類誕生の地は、アフリカの大地溝帯と言われてきました。
最近の「分子生物学」による知見に拠れば、人類がチンパンジーなどとの共通の祖先と分岐したのは、約500万年前とも言われていました。 しかし最近エチオピアのチャド湖付近で、約700万年前とされるヒト化石が発見されたとのニュースがありました。

このことは、人類の発生時期が遡ったと言うだけにとどまらず、いわゆる「イーストサイド・ストーリー」の破綻を決定づけました(ストーリー提唱者のイヴ・コバン博士も、自説を撤回しています)。
今後、直立二足歩行の起源について、いわゆる「アクア説」も含め検討されるべきでしょう。

ヒト・チンパンジー共通の祖先とされているのは、石田英実(京都大学)氏が発掘した「サンブル・ホミノイド(Samburu hominoid)」と呼ばれる類人猿(900万年前生息)で有るとの説があります。

社会的運動形態で運動している物質とは、人間に他なりません。
人間は生物であり、したがって生物特有の諸法則(物質代謝の法則、細胞分裂、生殖の法則、遺伝の法則など)に従っています。又人間の体内で行われている消化などの過程では、化学の法則にも従っていますし、熱伝導や電気伝導の法則のような、物理学の諸法則も人間の身体内で作用しています。
更には、歩いたり腕でものを持ち上げたりする場合には、力学の法則も作用しています。
つまり、人間は社会的運動形態よりも低次の、あらゆる運動形態で作用している法則に従います。だがそれだけでなく、社会的運動形態に特有な諸法則、すなわち社会法則にしたがっているのです。

このように、高次の運動形態では、それよりも低次の運動形態には現れなかった新しい法則の作用が現れます。
このことを理解しないで、高次の運動形態における物質の運動を、それよりも低次の運動形態における運動法則だけで説明できると考えるのは、間違いです。

機械論の誤り、特に『社会ダーウィン主義』について

例えば、『社会ダーウィン主義』は、「適者生存」「優勝劣敗」と言うような、「生物」に関するダーウィン学説の法則を、そのまま人間「社会」に摘要して説明しようとするもので、このような誤りの一例です。
高次の運動形態における運動を、それよりも低次の運動形態の法則で説明できるとすると、結局、あらゆる形態の運動を、力学の法則で説明できることになります。 このような考え方は「機械論」と呼ばれます。

低次から高次への運動形態への理解

他方、様々な運動形態が、先ほど述べたように、低次のものから高次のものへと次々に発展してきた、物質の運動形態である、と言うことを理解する必要が有ります。
例えば、生物には「生命」と言う物質以外の「もの」がある、或いは物質以外の「原理」が必要である、などと考えると、物質以外のもの、原理と言えば観念的なもので有らざるを得ないことになり、無生物に関してはは唯物論だが、生物に関しては観念論的であるという中途半端な世界観を持つことになります。
とりわけ、社会的運動形態を上述の一連の物質の運動形態の発展の最も高次の段階として捉えることが重要です。
このように捉えて、始めて、マルクスが「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える、私の立場」(『資本論』第一版の序文)と言っている、その立場に立つことが出来るのです。

弁証法的唯物論は、物質の運動形態と運動法則を以上に述べたように理解することで、一方では機械論に反対し、他方で観念論に反対しています。
そして、世界の物質的統一性を、すなわち世界には実に多様な現象があるにも係わらず、その全てが運動している物質であると言う点で統一されている、と言うことを主張しているのです。

※ 管理人註
機械論に陥って、いわゆる「社会ダーウィニズム」の俗論に堕すことなく、同時に人間だけを特別視し、神聖化する誤りに陥らない為、この運動形態の階層的理解は極めて重要です。
特に本文で述べているように「社会的運動形態を上述の一連の物質の運動形態の発展の最も高次の段階として捉えることが重要です」この理解は決定的でしょう。

最近、宇宙全体の歴史の発展の中に、人間の歴史を位置づけて解説している書籍も目に着くようになってきました。まさにマルクスの言う「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える、私の立場」です。

今回学んだいろいろなことは、それが正しいということはそれなりに分かるんだけれど、こういうことが労働者階級の革命的実践になんの関係があるんだろうか、と思っちゃう。 なんの関わりもなさそうだもの。

そうでは有りません。労働者階級の革命的実践は、社会的現実を科学的に認識し、社会の発展法則を正しく踏まえておこなわれなければなりません。そうでなくて、ただああしたい、こうなりたいという願望だけから出発するならば、「主観主義」とよばれる誤りに陥ります。
今回学んだことのなかには、主観主義を克服するための基礎になることがいろいろ含まれています。
しかし今回の話からいきなり、主観主義のことに話題を移すのは早すぎるのです。という訳は、まだ認識の問題に触れていませんから。順序をおって学んでゆくうちに、今回学んだことがなぜ革命的実践にとって重要かが分かってくるでしょう。

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