No- 1 弁証法的唯物論とはどんな哲学か(1)

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

1、何故哲学を学習するか

初めて弁証法的唯物論を学ぶ人達の為に、これから約一年間の予定で、この講座を連載します。できるだけ分かり易くするために、書き方を色々工夫してみたいと思っています。今回は、読者の質問に答えるという形式で、書きましょう。

「弁証法的唯物論」だなんて、ずいぶん難しい字が並んでますね。それいったいなんですか。

弁証法的唯物論はマルクス主義の哲学です。マルクス主義の哲学は、「弁証法的唯物論」と「史的唯物論」という二つの部分から成り立っています。

史的唯物論は、直接に社会と歴史の問題をとり扱うので、階級闘争だとか国家だとか革命だとかいう具体的な問題が出てきます。問題が具体的だという点では、史的唯物論のほうが親しみやすく、分かり易いように思われるかも知れません。しかし、社会や歴史を正しく捉えるには、まず、物の見かたをしっかりつかんでおかないといけません。
史的唯物論の基礎にあって、正しい物の見かた、広くかつ深い考え方を教えているのが、弁証法的物論です。だから、弁証法的唯物論を学習して身につけていな いと、史的唯物論を正しく理解することができません。さらに進んで、マルクス主義の経済学を正しく理解することもできません。

これらの理論は、私たちが革命的実践をするにあたって、その導きになる理論です。これらの理論を学習して身につけていないと、地図も磁石も持たないで野山を歩きまわっているようなもので、革命的実践をするといっても、それをどのような方向に進めたら良いか分からなくなってしまいます。 気ばかりあせっても、進む方向がずれていたのではなんにもなりませんからね。
レーニンは、「革命的理論がなければ革命的運動も有り得ない」(『なにをなすべきか』)と教えています。

そういう訳で、革命的運動に参加しようとする人は、革命的理論を学習して身につけなければなりません。そして、マルクス主義の哲学を学習するには、さきに述べたように、 弁証法的唯物論のほうが基礎にある理論ですから、史的唯物論よりも先に、まず弁証法的唯物論の学習から始めるほうが良いのです。

驚いたなあ。マルクス主義の学習をやらなきゃあいかんということは知っていたけれど、「マルクス主義」ってえのは革命の理論だとばっかり思っていた。
マルクス主義の「哲学」なんてものがあるとはね。 ―― ―― マルクス主義と哲学との関係をもう少し詳しく説明してください。

マルクス主義は、その全体が、革命的精神で貫かれた理論です。その意味では、あなたが「マルクス主義とは革命の理論だ」と思っていたこ とは、正しい訳ですよ。だが、マルクス主義は決して革命のことだけをとり扱っている理論ではない、つまり、革命論だけから成り立っている訳ではなくて、 もっとずっと幅の広い統一的な理論なのです。

2、マルクス主義、三つの構成部分

普通、マルクス主義は三つの構成部分から成り立っている、というように説明されています。

  • 哲学
  • 経済学
  • 科学的社会主義

という三つです。
「構成部分」ということばを使ったからと言って、この三つがバラバラにある訳ではありません。これらの三つの部分が緊密に結びついていて、マルクス主義という一つの、統一された理論を形作っているのです。だから、三つの構成部分のうちのどの一つが欠けても、マルクス主義はなりたちません。
マルクス主義を学習するには、三つの構成部分のすべてを、それらの相互の結びつきを正しくとらえながら、学習することが必要です。

経済学が必要だと言うことは分かるんですよ。経済問題に毎日悩まされている訳だし、経済的特権を持っているやつらと経済闘争をやっているしね。 「科学的社会主義」ってえのも、よくは分からないけど、社会主義社会をつくる理論だ、ぐらいに思ってた。
だがどうも「哲学」ってえのがピンとこないんだなあ。 ―― ―― 私たちがその哲学とやらいうものを学習すると、いったいどういうことになるんでしょうか。

    

 

先輩たちのいうことを聞いてみましょう。労働学校で哲学を学んだある労働者はこう書いています。

「哲学など、およそ実生活と離れた単なる頭の運動にすぎないと考えており、私の人生とどんなつながりを持ち得るのか見当もつきませ んでした。なんとなく高尚なものらしくもあるがそんなものを知ってみても、せいぜいもの知りになったという気分にひたるだけに終わるのでは無いか、という気がしていたのです」

「哲学を学んだ今は、問題にぶつかったとき、これまでのように結果だけを見て、仕方が無いと思うのではなくて、そうなった過程を分析していって、そうなったのはどこに原因があるのか、それを追求しようとする考えがでてきました。
これまでは、人が私に悩みを打ち明けてきても、その人と一緒にしょげてしまうだけだったのですが、今はそんなとき、その人と一緒に、どこに問題があるのか、それを解決するにはどうすれば良いかを話しあって、新しい解決の道を見出していかなければならないということが分かります。」

なるほどね。こういうのを読むと、哲学の学習って、えらく素晴らしいものだなあと想うけど、でもねえ。
哲学って、およそチンプンカンプンで、訳の分からないものだという話も、だれかから聞いたように思うんですがねえ。

そのとおりです。大学を中退させられたある女性の活動家が次のように話しています。

「今はそんなことは有りませんけど、ちょっと前までは、哲学というのはすごく難しくて訳の分からないものというふうに思っていたん です。というのは、私の父が大学の哲学科なんかを出ているものですから、高校時代に、父が一生懸命読んでいるのだからなにか素晴らしいものだろうと思いまして、父の本を引っ張り出して読んでみたのです。」

「ところが、なにがなんだか訳の分からないもので、ちっとも素晴らしくないじゃない、なんでこんなものを読むんだろうと思って放り出してしまった。いま考えると、それがカントとかへーゲルとかいうものだったらしいのですが。
大学に入ったときに、わたしの憧れていた哲学というものを、ほんとにもっと分かるように教えて貰えるんじゃぁ無いだろうかと思って、最初の2、3ヶ月は 講義に出たんだけれど、これがまたとてつもなくつまらなくて、あとはもうサボって、代返ばかりで通しちゃった。」

「学生時代にいろんなことがありまして、三年までで大学をクビになっちゃったんですけど、それから民青にはいり党にはいっても、なにか哲学というものは難しいと思っていて、今でもまだそういう残りかすがあると思うんです」

哲学を学んだことによって、目の前に被さっていた覆いがとれたように、パッと広い視野が開けてきた、というように語っている人がいるかと思うと、哲学なんてとてつもなくつまらなかった、と語っている人もいるのです。
これはどうした訳でしょぅか。どうしてそう言う違いが生まれるかというと、それは哲学が違うからなのです。

一口に「哲学」といっても、いろいろな哲学があります。
さきの感想文を書いた人が労働学校で学んだ哲学は、勿論、マルクス主義の哲学でした。
マルクス主義の哲学を学んだことによって、この人は、困難な問題にぶつかったとき、仕方がないと諦めるのではなく、変革の立場にたって、その困難を打開する道を探し求める努力をするようになりました。

だが、あとの話をした女性が大学で学んだ哲学は、観念論哲学だったのです。
「観念論」とはなにかと言うことは、次回に詳しくお話しますが、要するにマルクス主義の哲学とはまるで違ったもので、現実を変革する立場に立たないばかりでなく、かえって逆に、現実から目を逸らさせる働きをするものなのです。

こういう哲学が、革命運動に参加しようとしている真面目な人たちにとって、およそつまらないもの、まったく訳の分からないたわごと思われるるのは、尤もなことなのです。

...ますますわからなくなった。
いろんな哲学があるのですか。

そうです。自然科学は、違った学説が対立している場合も有るけれど、それはまだ研究が不十分でとことんまで分かりきっていない問題についてのことで、大体において一種類だと思っていて良いのです。
物体が重力の作用を受けて落下する場合の法則だとか、硫酸がどういう元素から成り立つ化合物かという問題だとかについては、一種類の答えしか有りません。 物理学や化学の場合には、ソ連の教科書でもアメリカの教科書でも、説明の仕方に違いがあっても、説明されている事柄には違いがありません。

ところが、社会科学となると、事情がまったく変わります。
経済学では、「マル経」(マルクス主義経済学の略称)とか「近経」(近代経済学の略称)とかいう言葉が使われているように、マルクス主義の一部分である革命的理論としての経済学もあれば、資本主義を擁護し、資本主義経済が生みだす諸矛盾を資本主義の枠の中で解決しようとして、資本主義を永続させるために努力している経済学もあります。
レーニンが言っているように、「階級闘争のうえに築かれている社会に『公平無私の』社会科学は有り得ない」(「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」)のです。

社会科学と同じように、哲学もまた、まったく「階級的な」、「党派的な」学問です。この世のなかをどう考えるかという問題について、労働者として生活している人と、ブルジョア的な生活をしている人とでは、当然違った答えをします。対立した階級的立場にたつ人たちのあいだに、共通の哲学は ありません。

少し分かってきたような気がするけれど、まだどうもはっきりしない。
さっきから「哲学」、「哲学」というけれど、それが分からないんです。簡単に一口でいって、哲学とはなんです。

3、世界観、哲学

一口で言おうとすれば「哲学とは一貫性のある世界観を与える学問である」というのが一番良いでしょう。
だが、そう言っただけでは、おそらく分からないと思います。だから、あせらないで聞いてください。 まず、世界観とはなにか、ということからお話してゆかなければなりません。
あなたは「世界観」ということばを知っていますか。

そのことばは知っています。「世界についての基本的な見方である」となにかの本に書いてあつたのを覚えています。

そうですね。国語の試験の答案を書くのには、そう覚えていればよいでしょうね。だが、それだけで「世界観とはなにか」が良く分ったとは、言えませんね。

ここで「世界」というのは、自然と社会のことです。
私たち人間は、一個の生物として、自然の一部分であり、呼吸をしたり食物を食べたりすることによって、自分のまわりにある自然と相互作用をしながら、生きています。
労働によって自然に働きかけ、自然物を自分たちの生活に都合がよいように作りかえ、何万年にも渡って自然を変化させ、荒野を耕地にかえ、堤を築いて洪水を防ぎ、村や都市を建設してきました。
だがまた、このようにして人間自身が作り出したものによって、逆に自然を破壊し、人間にとって有害な環境を作り出す、という結果も生じています。

また他方、私たち人間は、社会の一員として、さまざまの社会集団を作り、社会の他の成員と、協力したり闘争したりしながら生きています。
何万年ものあいだに、とりわけ最近の数千年のあいだに、次々に幾つかの社会形態を作り出しました。それぞれの社会形態のなかで、その恩恵をうけて社会 的に有利な地位を占めた人びともいましたが、逆に、抑圧されて苦しみ抜き、ついに立ち上がってその社会形態を変革するために闘った人びともいました。

このようにして人間は、自然と社会という環境のなかで、この環境とさまざまな形で交渉しながら、長いあいだ生存してきた訳ですが、その間に人間は、この自然と社会と言う環境すなわち世界について、この世界とは結局どんなものか、この世界の中で自分はどんな位置を占めており、どんな役割を果たしているのか、と言うことについて、ある程度まとまった考えを持つようになりました。
勿論この考えは、時代によっても違いますし、同じ時代でも、社会のなかでその人がどんな地位を占めていたかによって違っています。このような 、時代や階級によって異なっている、世界についてのさまざまな考えが、それらの人びとの世界観なのです。

そんな話を聞くと、世界観というのは自分とは大変に縁の遠いものだという気がします。

そうではありません。小学生ぐらいのこどもは別として、ある程度の年齢に達した人ならば、だれでも、その人なりの世界観を持っていま す。若い人でも十数年問、年とった人ならば数十年間、私たちは親や兄弟や、隣人・友人など、さまざまな人に接し、世のなかでもまれて生きてきたのです。
そのあいだには、この世のなか、つまり自分の環境としての世界について、それはどんなものかというなんらかの考え方をするようになってきているのです。
それが私たちの世界界観です。 あなた自身も自分の世界観を持っている筈です。

驚いたような顔をしていますね。
確かに、あなたはあなたの世界観を持っているのだから、それを言ってごらんなさい、なんて言われても、まごまごするだけでしょう。それは、他人に話して聞 かせることができるように、まとめてある訳ではないものね。だけど、話せないから持っていない、という訳ではない。
ある人がどんな世界観を持っているか、つまり、世の中ををどんなものだと考えているかと言うことは、なにか重大な問題にぶつかったときに、その人がどんな考え方をしてどんな行動をするかということに、ちゃんと現われてくるのですよ。

そういうものですかねえ。ぼくも世界観を持っている、と。はて.........、いや、言葉で言えなくてもいいんだね。それなら楽だ。 ―― ―― しかし、そうやってだれでもが世界観を持っているんだったら、そのうえ更に哲学の学習をする必要なんか、無いじゃないですか。

 

そうではありません。「世界観イコール哲学」ではないのです。
大多数の人びとが生活のなかで自然に持つようになった世界観は、まだ整理されていないので、いろいろな要素がごたまぜになってその中に含まれています。
つきつめて考えれば、どちらかに割り切れることが、割り切られないで曖昧なままに残っていたり、あれとこれとでは矛盾する要素が、矛盾するということにさえ気がつかないままで、両方とも含まれていたりします。

このように世界観が曖昧だということは、その人の行動・実践が一貰性を持たない、という結果となって現われてきます。例えば、学生時代に学生運動の元気のよい活動家だった人が、卒業して就職すると飼い犬のようになってしまったり、激情的に労働運動に参加した人が、なにかの機会に急に日和見になったりすることがおこるのは、その人たちの世界観がしっかりしていないことによります。
だから、生活のなかで自然に掴んだ世界観を、そのままにしておくのではなくて、自分の世界観について反省し、それをすじ道のたったものに仕上げる努力をする必要があります。これが哲学の始まりです。

哲学という学問は、世界観に係る諸問題を研究して、曖昧さを残さないようにつきつめて考え、一貫性のある世界観へと仕上げる、という仕事をやっている学問です。
ただいろいろな世界観を研究して、ああいう世界観がある、こういう世界観もある、と並べ立ててみても、なんにもなりません。
間違っている世界観に対しては、なぜそれが間違っているかという理由をあきらかにしてこれを批判し、それが正しいという理由をあきらかにしながら、一貫性のある正しい世界観を主張するのが哲学の任務です。
だから、そのような哲学を学習することによって、人びとは、自分の持っている曖昧な世界観をすっきりさせ、一貫性のある、すじ道のとおった世界観を身につけることができるようになるのです。

だいぶん分かったような気がします。だが、哲学を学習するというのは、大変に難しいことのように思えてきました。

世界観についてのいろいろなことをただ暗記して覚えるだけでは、哲学を学習したことにはなりません。ある考えがなぜ正しいか、または、 なぜ間違っているかを、自分自身が生活体験を通してつかんでいる考えとつき合わせて、一つひとつ納得してゆかなければなりません。その限りでは、哲学の学習は難しいといえます。

だが、マルクス主義の哲学は労働者階級の哲学です。そこには、労働者階級がその生活体験を通してつかんでいるものが、よく考え抜かれ、整理され、一貫性のある世界観へと仕上げられています。
だから、マルクス主義の哲学が主張していることは、よく考えてみれば、納得できることばかりで、これは意外だ、といったことはなに一つ含まれていません。 この意味では、労働者階級に属する人びと、この階級の立場に立って革命運動に参加している人びとにとって、マルクス主義の哲学を学習することは、決して難しいことではありません。
自分になじみのない考えを無理に覚えこもうとすれば、チンプンカンプンで訳が分からないということになりますが、マルクス主義哲学の学習は決してそんなことではない訳です。

5、哲学の学習は、一つの思想闘争

ここで一つ注意しておきたいことは、普通の人びとの世界観のなかには、その人が生活体験を通して自分で考えて掴んだものと、他人に教えられたり本を読んだりして掴んだものとが混ざり合っており、さらに、この後のものの中には、しばしば、支配階級の側から教えこまれた考えが含まれているということです。
だから、労働者が自然発生的に持っている世界観のなかには、資本家的な世界観の諸要素が混ざりこんでいます。

例えば、「人間は心の持ち方で幸福にも不幸にもなる。不幸だと考えるから不幸になるのだ」という考えは、社会的な原因による不幸と個人的な原因による不幸との区別を覆い隠し、多くの人びとを不幸にしている社会的原因をとり除くたたかいから人びとをそらせようとする、悪質な考えです。

働く人びとは、労働者も農民も、社会的原因による不幸が心の持ち方を変えたからといって無くなるものでないことを、その生活体験をとおして知っている筈です。
ところが他方、「毎日を笑顔で暮らしましょう」式のことをいっている『PHP』という雑誌や松下幸之助の本がよく売れているという事実は、こういう考え方が労働者階級のなかにもある程度浸透していることをしめしています。

労働者が労働者階級の哲学を学習するということは、このような、またその他さまざまの、労働者の頭のなかに外から持ち込まれた有害な考えを、批判し克服することでもあります。外から持ち込まれたものでも、それが自分の頭のなかに入っている場合には、それを批判することは自己批判であり、それを克服することは自己との闘争です。その限りでは、哲学の学習は「思想改造」です。
だが、「思想改造」とは言ってもそれは自分を何か別のものにしてしまうことではなく 、自分の頭のなかにある非労働者的・反労働者的なものを洗い去って、 本来持っている労働者的な考えをはっきりさせ、これを一貫させ、堅持することに他なりませんから、本当の自分に帰ることであり、自分の階級的立場を自覚することなのです。
それが労働者の哲学学習の目的なのです。

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