No- 8 生産力と生産関係との矛盾

今月の学習ポイント〕

生産力と生産関係との矛盾は、社会革命の前夜に突然に生まれるのではなく、社会的生産の発展の全過程を通じて両者の矛盾が存存し、この矛盾が社会的生産の発展の原動力である、と言うことを理解するのが今月の学習の重点です。
大局的にみて「生産関係が生産力の発展段階に照応している」と言う場合にも、具体的にこまかくみれば両者のあいだにさまざまの形態での矛眉があり、この矛盾の存在と、「照応している」という主張とは、互いに排除しあうものではないと言うことの理解への道を、家父長制的農業経営から小農経営への発展と言うわが国の封建制経済史上の一つの実例を述べることによって、開こうと努力しました。

    

 

1、生産力と生産関係との照応と矛盾

この講座の前々回には生産関係について、前回には生産力に述べました。そこで今回取り上げるのは、この生産力と生産関係とはどのように関わり合うのか、両者の関係はどのようなものであるか、と言う問題です。

まず最初に確認しておきたいことは、社会的生産において生産力と生産関係とは切りはなせない統一をなしている、ということです。
人間は、社会的にしか生産活動を行うことができないのであり、生産は常に社会的生産である訳です。そしてこの社会的生産は、一定の生産関係のもとで一定の発展水準にある生産力を持って行われるのであり、それ以外では有り得ません。だから、生産力なしの生産関係も、生産関係なしの生産力も有り得ないのであって、両者はそれぞれ、他方がなければ一方も有り得ないという関係で、切り離し難く統一されています。

しかし同時に指摘しておかなければならないことは、社会的生産において両者が果たす役割は非常に異なっているということです。生産カは、生産において人間が自然に対して発揮する能動的なカですから、まさに生産過程そのもののなかで現れでるカです。これに対して生産関係は、生産における人間と人間との関係であり、生産活動が行われる社会的な場を形成しているものです。

次に注目すべきことは、生産力と生産関係とが統一されているということは、単に生産力一般と生産関係一般とが統一されているということではなくて、一定のの発展水準にある生産力が特定の生産関係と統一されているのだ、ということです。このことは既に第六回の三で、生産力が変化し発展するならばそれにともなって生産関係も変化せざるを得ないということを述べた際に、手回し挽き臼によって代表されるような発展水準にある生産力は封建的生産関係と結びつくし、蒸気挽き臼によって代表されるような発展水準にある生産力は資本主義的生産関係と結びつかざるをえない、ということを述べることによって、説明しておきました。

ところで、ここで更につっこんで検討しなければならない問題があります。
マルクスは『経済学批判』の「序言」で、「この生産関係は、かれらの物質的生産力の一定の発展段階に照応している 」と述べていますが、更にその数行さきでは、「社会の物質的生産力は、その発展のある段階でその生産力が従来その内部ではたらいてきた既存の生産関係と、或いは同じことの法律的表現にすぎないが、所有関係と矛盾するようになる。これらの関係は、生産力の発展のための形態からその桎梏にかわる」と述べています。
この記述をよんで表面的に理解すると、生産力がその発展の一定の段階に達するまでは、生産力とある特定の生産関係とは照応と言う関係にあるが、その段階に達すると、両者の関係は矛盾になる、というように思われるでしょう。だが、果たしてそのように理解してよいか、というのがここで検討しなければならない問題です。

私は既に以前に連載した弁証法的唯物論の入門講座で、あらゆる事物の発展の原動力はその事物に含まれている矛盾である、ということを述べました。先にに引例したあとの文章は、発展した生産力と既存の生産関係との矛盾が社会的生産の発展の原動力である、ということを述べているものと考えられます。というのは、さきの引用文につづいて「そのときに社会革命の時期が始まる」と述べられていて、前述の矛盾によって、生産力の発展にとっていまや桎梏となっている生産関係が社会革命によって変革されることが示されているからです。
だが、あらゆる事物の発展の原動力はその事物に含まれている矛盾であるということは、その事物に含まれている矛盾がその事物の発展の全過程を通じてその事物の発展の原動力であるということです。だから、生産カと生産関係との矛盾が社会的生産の発展の原動力である、というのであれば、それは社会的生産の発展の全過程を通じてそうだというのでなければならず、社会革命が近づいた時期にだけ両者のあいだに矛盾が生まれる、というのでは おかしいでしょう。
だが他方、社会的生産の発展の全過程を通じて生産力と生産関係とのあいだに矛盾が存在すると考えると、それは」両者の照応について述べている「序言」からのまえの方の引用文と食い違うように思われます。
こうしてわれわれは、解釈上の困難に陥ったかのように思われるのです。

だが更によく考えて検討する必姿があります。
マルクス自身が述べているように、「経済学批判』の「序文」でかれは、自分のそれまでの研究の「一般的結論」を簡単に定式化しているのです。だから、ここで述べられていることはきわめて原則的なことだけだということを知っておかなければなりません。
原則的なことにだけ関していうならば、『哲学の貧困』で述べられているように、蒸気挽き臼で代表的に表されるような発展水準にある生産力は、もはや封建的生産関係には照応しないのであり、逆に、手回し挽臼で代表的に表されるような発展水準にある生産力は、封建的生産関係に照応していた、ということには何びとも異議がないでし ょう。 ―― ―― ―― だが、マルクスがまさにこのような大局的な意味で「この生産関係は、かれらの物質的生産力の一定の発展段階に照応している」と述べたからといって、ある生産関係のもとでの生産力の発展水準とその生産関係との関わり合いを具体的に考慮する場合に、両者のあいだになんの矛盾もなく、ただ照応だけがあったと考える必要はないし、またそう考えることはマルクスの真意を解するものではない、と私は考えます。

例えば、一ロに封建的生産関係といっても、ヨーロッパ大陸のそれと、中国の、また日本のそれとにはそれぞれの特殊性があり、またそれらの各々に時代による異なった特徴があります。他面、それらのすべてには「封建的生産関係」といわれる限りでの基本的特徴が共通しており、生産力の発展水準が著しく高くなれば、それはこの共通の基本的特徴と両立することができなくなります。マルクスは、それぞれの生産関係に、地域や時代によって異なる諸特徴があることをもちろん知っていたのですが、「序言」のあのバラグラフを書くにあたっては、前述のように「一般的結論」だけを述べることを目的としていたので、ある生産関係から他の生産関係への転化という大きな転化だけを念頭においており、従ってまた生産力と生産関係との矛盾についてのべるにあたっても、このような大きな転化を引き起こすような矛盾だけを念頭において、既存の生産関係が生産力の発展にとっての桎梏になるような場合だけをあげたのだと思います。

―― ―― ―― だが、こまかく具体的に考察するならば、例えば封建的生産関係のもとでも、生産力の水準の発展によって、やはり生産関係のある性格の変更を必要とするような、いうなれば封建的生産関係の再編成を必婆とするような変化が実際に起こっているのであり、そしてこのような変化の原動力もまた、生産カの発展水準と既存の生産関係との矛盾です。そしてこのような意味で、生産力と生産関係との矛盾は社会革命の前夜になってはじめて発生するものではなく、この矛盾は実にさまざまな姿をとって現れるのであり、このさまざまな形態における矛盾に注目するならば、両者のあいだに前述の大局的な意味での照応がみられる同一の事態のもとにおいて、両者のあいだの矛盾もまた存在していることが見いだされ、生産力と生産関係との矛盾は社会的生産の全過程を通じて存在しているということが分かるでしょう。次に私は、以上に述べたことを、16-17世紀におけるわが国の封建制社会を実例として考えてみようと思います。

    

 

2、生産力の発展と封建的農業の経営形態の変化

封建的生産関係は少数者による大土地所有を基本的前提とするものですが、この同一の前提のもとで大土地所有者が農民を搾放するにあたって、どのような形態の農業経営がおこなわれたかということは、地域によりまた時代によってかなり違っています。
わが国では、1582-98年にいわゆる「太閤検地」が行われました。この検地の資料によれば、その当時の先進的地域であった畿内と、比較的後進地域であった関東・東北や九州とでは、農業経営の形態にかなりの違いが有ったことが分かります。すなわち、先進的地域である畿内では、既に14世紀に(のちに述べる)家父長制的経常の解体と小農経営への移行が始まったといわれており、太閤検地の時期にはこの小農経営が確立していました。
太閤検地は、大土地所有者である封建領主が、かつての家父長的地主という中間搾取者を排除して、直接的生産者である小農民を封建領主自身が直接に把握し、搾取する目的でおこなわれたものです。
この検地は、小農経営が既に確立していた先進的地域では円滑に行われましたが、まだ家父長制的経営が行われていた後進的地域では、大なり小なりの抵抗に出会いました。では、その家父長制的経営とは、どのようなものだったのでしょうか。

この経営の典型的なものでは、当主(家父長制的地主)の直系家族(5人ぐらい)の他に、当主の弟などの傍系家族と、10数人、ときには20人以上に及ぶ譜代下人および年季奉公人からなる、全体で2-30人ぐらいの大家族が農業経営の単位をなしていました。
「譜代下人」というのは、先祖代々主人に所有されているか、または身売りされてきた家内奴隷であり、妻子を持っている場合には、この妻子も又主人の下人でした。
彼らは、主人の屋敷の敷地内に建てられた長屋風の建物に住んでいて、主人から分与された3畝位の土地をその妻子とともに耕作する他に、必要な時には何時でも主人の直営地の耕作に使われ(これを賦役という)、その代償として僅かの米や雑穀を貰って、細々と生計をたてていたのです。
下人は、かれらが分与されていた土地の収穫物だけでは生活できなかったし、また主人はかれらを自分の直営地ですき勝手に労働させていました。このような特徴からいって、下人は、農奴ではなく、家内奴隷であったと考えられます。
―― ―― ―― 他方領主は、このような家父長的経営の主人である家父長制的地主だけに納税の義務を負わせていました。その負担はもちろん直接的生産者である下人や傍系家族に実質的には掛かってくる訳ですが、領主はこれらの直接的生産者を把握しておらず、ただ家父長制的地主だけを把握していたに過ぎなかったのです。

さて、問題は、このような家父長制的経営が先進的地域では何故解体したか、と言うことです。
一言で言えば、地主達が、彼らの直営地よりも、下人達に分与されている土地の方が生産性が高いことに気が付いたからです。 そうだとすれば、直営地を全て傍系家族や下人家族に分与してしまい、かれらを自立的に経営できる小農民にしてやり、その代わりに、かれらから生産物地代を取りあげる方が有利だということになります。
後に太悶秀吉のような新しい支配者が現れることによって、かれらは中間搾淑者として排除される運命を担う訳ですが、そんなことを予見しなかった地主たちは、有利な道を選んで、自らの直営地を解体し、小農民を自立させたのでした。
―― ―― ―― だが、このことには重要な前提がありました。それは下人達が、クワ一丁・カマ一丁程度のの農具を使いながら、山から少しでも多くの草を刈ってきて田に入れるなどの努力によって、ひたすらに自らの営々たる労働によって、自らの生産力を高めたという事実です。
このようにして高められた下人達の生産力こそが、家父長制的地主をしてかれらの大家族的経常をやめ、小農経営を自立させる道へと踏み切らせたのです。

ところが、後進的地域では下人達は未だこのような小農経営を営むことができるまでに自分自身の生産力を高めていませんでした。このような地域では、太閤検地という支配者側の力によって一定の土地所有が認められたとしても、かれら小百姓は自立的な小農経常者として一定水準以上の生産をあげ、封建領主の要求する地租を納め、かつみずからの生活を維持してゆくことができず、結局以前の家父長制的地主に頼って再びこれに従属しでゆくか、または逃散という非常手段に訴えるほかなかったのです。
従って 、農業的生産力の発展水準の地域差を考えず、全国一律の方針で検地を行い、直接的生産者の直接的支配を目指した太閤検地は、そもそも無理だったのであり、実際にこの検地は、小百姓の自立度の低かった後進的地域では、家父長制的経営に基礎を持つ名主層への大なり小なりの妥協なしには、実施することができなかったのです。

だが、この場合の地域的な違いは、また時代的な違いとしても現れる、ということを知る必要があります。と言うのは、すべての地域でことが直線的に運んだ訳では勿論ありませんが、全般的傾向としていえば、太閤検地の時期には家父長制的経営が揺るがなかった後進的地域でも、その後の数10年又は百数10年の間に、これが解体して小農経常が確立されてゆく、という変化が見られるからです。
つまり、これらの期間に、下人達の生産力が後進的地域でも高められてゆき、それが前述の変化を引き起こしたのです。

いま取りあげている16世紀末から17世紀末にいたる時代には、用水工事による新田開発(有名な箱根用水は1670年完成)も行われ、これによる農業生産力の上昇もみられますが、これは主として封建領主の側の主導権のもとに行われたもので、農民の社会的地位の向上にはあまり役立ちませんでした。
これに反して、17世紀のなかば以後には封建領主側の文献に「本百姓」という名称が多くみられるようになりますが、これは、かつて家父長制的経常の従属物としてしか扱われなかった傍系的家族や下人達が今や独立の納税者として封建領主の財政を支える主要な農民となり、「村」を構成する主体になったことに対する、封建領主側の対応を示すものです。
そしてこのような変化をもたらしたのは、前述のように、これといった生産用具の進歩、農業技術の改善の目立ったものがないにもかかわらず、直接生産者たちがひたいに汗して働くことによって僅かずつその生産力を高めていったことによるものなのです。

さてこのような歴史的過程のうちにに、どのような矛盾が見いだされるでしょうか。まず、太閤検地に見られる意図、すなわち封建領主が自己の取り分を増大させる為に中間搾取者としての家父長制的地主を排除しようとする意図は、畿内においてはその生産力の水準に照応した支配・搾取の体制を打ち立てたけれども、小百姓の生産力の水準がまだ低かった後進的地域では挫折しました。
このことは、太閤検地が意図した支配・搾取を可能にする農業経営の形態とまだ低すぎる生産カの水準とのあいだに矛盾が存在したことを示しています。この矛盾は、その後、後進的地域でも小農民の生産力が増大したことによって解決され、封建領主は、以前の家父長制的地主をも下人をも一様に本百姓とよんでこれを直接に支配・搾取する体制を確立します。だが、小百姓たちが営々と努力してみずからの生産力を高めたのは、生産物の一部を余剰生産物として自分たちの手もとに残す為にでしたから、直接生産者である本百姓から一切の余剰生産物を奪いとろうとする封建領主の側の意図とは、当然、正面衝突せざるを得ません。

こうして、封建領主は、以前には比較的少数の家父長制的農業経営者だけを押さえれば良かったのに、いまや多数の小農経営者、そしてかれらからなる「村」を支配しなければならなくなり、その支配・搾取を貰徹する為にはより多数の自立した農民の抵抗とたたかわなければならなく
なりました。 ―― ―― ―― すなわち、おなじ封建制度のもとにおける階級闘争といっても、比較的少数の家父長制的地主だけが農民闘争の主体であった時代とは、農民闘争の主体が変化し、従ってその規模も、要求の内容も変化してくるのです。このことはやはり、前述の小農民たちの生産力の発展によってもたらされたのであり、このことによって、封建領主にとっては、その封建的支配・搾取にたいするより強い抵抗の発生という新しい矛盾を生みだしたのです。

生産力と生産関係との矛盾といっても、それは人間の活動の外にあるものではなく、すべて人間の活動を通して現れてくるものであり、その現れ方は実にさまざまです。私はここで16世結末-17世紀末の日本の封建社会という一例について述べただけですから、そのことを十分に示すことができたとはいえませんが、しかしこの実例の叙述からだけでも、生産力と生産関係との矛盾が実にさまざまな現れ方をするものだということについてある程度の理解ができたのではないかと期待します。そして、この矛盾の現れ方が多様であるということの理解は、生産力と生産関係との矛盾が決して社会革命がおこり生産関係が変革される直前にだけ生まれるものではない、ということの理解への道を開くでしょう。

確かに前記の実例は、生産力が発展したことによって農業経営の形態が変化し、封建領主の側の農民に対する対応の仕方が変化したことを示す例にすぎません。しかしこのような経営形態の変化や支配権力側の対応の変化もまた、その基礎にある生産力と生産関係との矛盾の現れであることを理解することによって、生産力と生産関係との矛盾が社会的生産の全過程を通じて存在し、その発展の原動力になっているということ(たった一つの実例について述べることによって、証明できたなどとはもとより考えないけれども)を理解すること、納得することへの道を開くことができたと考えるものです。
(はぎわら せんや・哲学者)

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