No-20 真理について

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

1、ある認識が真理であるとはどういうことか

この問題は既にこの講座のあちこちで述べてきた問題ですが、次の問題に進む前に、整理する意味で(復習をかねて)もう一度述べておきましょう。
第14回に、認識と同じように意識の働きではあるが認識とは異なった働きである感情や意志との区別について述べて、認識とは客観的事物(事実)をありのままに(客観的に)反映しようとする働きであるが、しかし客観的に反映するということは認識の理想であって、人間の認識が常に客観的事物をありのままに反映しているとは限らない、と言うことを述べておきました。

「客観的事実を有りのままに反映している」とは、客観的事物を反映することによって我々の意識の中に生まれる観念が、反映される事物(すなわち、客観、対象)と一致していることを言います。
この場合に「観念」とは、感覚や知覚によって意識のなかに作りだされる、個別的な事物(現象)についての像も、記憶を媒介として作りだされる表象も、同じ種類の事物(現象)についてそれらの本質的徴表だけをひとまとめにして反映したものである概念をも含んでいます。
このような観念が反映される事物(客観、対象)と一致している場合に、その観念(または認識)は「真理」である、といいます。

観念は人間の意識のなかにだけあり、事物(現象)は意識 の外にあるのだから、こういう種類の違ったものを比較して一致するとか一致しないとかいうことはできない、という理屈をこねまわして、人間は世界を認識することができないと主張する「不可知論」とよばれる観念論的な哲学説があるということ、そして弁証法的唯物論はどのようにして不可知論を論駁するのかということについては、第9回に述べておきました。
この論駁は、認識の真理性の基準は実践である、と主張することによって行われる訳ですが、このことについては第15回にも繰り返して述べておきました。

すなわち、認識活動は単に自分の知識欲を満足させる為だけに行われるのではなくて、なんらかの実践を有効に行う為に行われるのであり、そして実践は、真理である認識、すなわち実践の対象になっている事物(現象)に一致している認識に導かれる場合には成功し(その実践の目的を達成することができ)、事物(現象)に(全体的にか、または部分的にか)一致していない認識に導かれる場合には(全体的にか、または部分的にか)失敗するのですから、ある認識に基づいて実践した場合に成功したとすれば、そのことは、その認識が真理である、ということの証拠になるのです。

2、客観的真理は存在する

レーニンは『唯物論と経験批判論』(第二章の四)で、「客観的真理は存在するか、すなわら人間の観念のなかには、主観に依存しない、人間にも人類にも依存しないような内容が有り得るかどうか」という問題と、「もしあるとすれば、客観的真理を表現している人間の観念は、この真理を一度に、すっかり、無条件に、絶対的に、表現することができるのか、それともただ近似的に、相対的に表現できるだけなのか」という問題とを区別しなければならない。 ―― ―― と書いています。まず第一の問題について考えましょう。

ここで「人間にも人類にも」といっているのは、1人ひとりの人間(すなわら個人)にも、全体としての人間(すなわち人類)にも、という意味です。レーニンがこういうことを言ったのは、ボグダーノフという人が、真理とは「人間の経験を組織する形式」であるということを言ったのに対して、これを反駁する為にでした。
ボグダーノフは次のように考えました。 ―― ―― 人間はいろいろな経験に基づいて生活している。これらの経験のなかには、ある個人や人間の集団だけがそれを生活(行動、実践)の基礎にしている経験もあれば、全ての人がそれを生活の基礎にしているような経験もある。自分がそれを生活の基礎にしてうまくやってゆけるというだけでなく、全ての人が矛盾につき当たらないようにする為には、その経験を生活の基礎にしなければならないというような経験、そのような経験が客観的真理である、と。

ボグダーノフの考えによれば、真理であるかどうかは、多数決では決まらないけれども、全人類の全員一致の承認があれば、真理である、ということになります。あるいはまた、少数のわからずやがいて、他の人びとが真理だと認めている経験を真理とは認めたがらない場合があっても、その少数の人達がその経験を基鍵にして生活しないならば、その人達は生活上で矛盾につき当たるだろう、という場合には、その経験は真理である、ということにもなります。
しかし、はたしてそうでしょうか。例えば、コペルニクスやガリレイよりも以前の人達は、「地球は回らない」と考えていました。それはかれらの全員一致の承認の得られるような考え(経験)でした。
また、コペルニクスやガリレイの時代に、これらの人達が地動説を唱えたときにも、その時代の大多数の人達は、「地球が回るなんて。もしそんなことがあれば、地球上にいる人間たちは目まいがするにちがいない」などといって、地球が回らないという考えを自分だけでなく全ての人間の生活の基礎にしなければ矛盾につき当たるにちがいない、と主張していました。
だがそれにもかかわらず、地動説は真理であったのです。

レーニンは、客観的真理という場合の客観性は、全ての人が認めるとか、全ての人がそれを生活の基礎にしているとかにあるのではなくて、全ての人から「独立して存在する」と言うことに有る、と主張して、ボグダーノフの誤りを批判したのです。それが「人間にも人類にも依存しない」ということばの意味です。
地球は、まだその上に一人の人間も存在しなかった時代にも、既に自転していたし、太陽のまわりを公転していたのであって、そのことは、人間がそれを認識したかどうか、人間が生活の基礎にしている経験であるかどうかには無関係(依存していない)なのです。つまり、全人類から「独立に存在している」のです。
そして人間が(はじめは少数の科学者が、のちには大多数の人間が)そのこと(地球が回っているということ)を認識するようになったときには、人間の意識のなかに、この全人類から独立に存在している事実が反映されて、人間の観念の中にはこのような「人間にも人類にも依存しないような内容」が含まれることになりました。
このような内容こそが「客観的真理」と呼ばれるものなのです。そして弁証法的唯物論は「客観的真理は存在する」と主張しているのです。

更にレーニンは、客観的真理の存在を認めることと唯物論的認識論の観点に立つこととは同じことである、と注意しています。
人類が、いや更にあらゆる生物が存在しなかったずっと古い時代から存在しており、従って人間の意議から独立に存在している客観的実在である物質を認めること、これが唯物論の出発点(原則、基礎)です。
そして、この物質とさまざまの物質の運動形態を通して現われる物質の諸現象とが、なによりもまず感覚を通して人間の意識に反映されるということを認めることが、「唯物論的認識論の観点に立つ」ということなのです。

この場合には、「物質が存在する」という認識は客観的真理である、と認めることになり、従って客観的真理の存在を認めることになります。
客観的真理は存在しないと主張する人達は、前記のことを認めることができず、従ってまた、唯物論的認識論の観点にたつことができません。
レーニンは、「唯物論者にとっては、われわれの感覚は唯一にして最後の客観的実在の像である、 ―― ―― 最後の、というのは、この客観的実在が最後まで認識されている、という意味ではなく、そのほかに(なによりもまず感覚によって反映される客観的実在のほかに)他の実在はないし、また有り得ない、という意味である」と書いています。
実際に先ず感覚によって(と言うことは何らかの装置を使うことを含む)反映される客観的実在以外の実在を認めるならば、それを神とか仏とか呼ぼうと、「世界要素」とかなんとかいった名前で呼ぼうと、そんな名前のつけ方には関係なく、観念論にころがりこむことになります。

(注)
「なんらかの装置を使うことを含む」とことわったのは、例えばX線は直接に感覚によっては捉えられないけれども、一定の装置を使えば、感覚によって捉えられますが、このよう々場合を含めていっているのだ、という意味です。

    

 

さて、客観的実在が最後まで、すなわち、完全に、全面的に、あますところなく認識されているかどうか、を問題にするとなると、それはさきにレーニンが区別した二番目の問題に踏み込むことになります。次にこの問題について考えましょう。

3、相対的真理と絶対的真理

われわれは客観的真理が存在することを認めました。だが、この客観的真理をわれわれは一度に、完全に獲得できるでしょうか。つまり、人類から独立に存在している客観的事実(現象)と完全に一致した観念を一度に意識内に作り出すことができるでしょうか。
これは、われわれがどのような事実(現象)を認識しようとしているか、によって違ってきます。

例えば、「鉄とアルミニュームとはどちらが比重が大きいか」というような比較的簡単な事柄についてならば、客観的事実を一度に、完全に反映できます。「鉄はアルミニュームよりも比重が大きい」 ―― ―― これは簡単なことですが、一つの客観的真理であり、この二種類の金属の比重の大小に関しては、これ以外の、またこれより進んだ認識は有り得ないからです。

だがこれに反して、もっと複雑な事柄にかんしてはそうでは有りません。同じ比重の問題でも、「鉄の比重はいくらか」を問題にするならば、もちろん大体の数値は比較的簡単な測定によって得られますが、精密な数値を得ようとすれば、どんな測定装置を使ってどのような仕方で測定するかを考え、その場合にはどの程度の測定誤差が生じるかを見積もらなければなりません。
このような測定には測定誤差がつきものです(どんなに精密な天秤を使っても、目盛りをよむ場合に小さな読み違いが生じることはさけられない、等の理由による)から、得られた数値は近似的であるということになります。
しかし測定装慣や測定方法は次々に改良されますから、だんだんとより精密な数値が得られます。だがそれでも、ある数値を絶対的に精密だと主張する根拠はなく、将来もっと精密な測定ができるという可能性は常に残っています。

比重の大小の比較的決定のような単純な場合には、われわれは一度に絶対的真理を獲得した、といえます。しかしあとの例のように比重の数値を決定しようとするような場合には、得られた結果は常に近似的であり、従ってこのような場合のわれわれの認識は相対的真理を獲得できるに留まります。

ある元素の比重の測定というような問題は、自然科学でそれほど重大な問題では有りませんが、分かり易い例だと思って述べました。
今日しきりに問題になる光化学スモッグなどを考えてみれば、その原因はなにか、どのような化合物がどのような条件で発生し、取り分けどの化合物が人体にとって有害であるか、などの問題について、いろいろ研究が進んでいるとはいうものの、まだ分からないことが残っており、光化学スモッグについての現段階における人間の認識は、相対的真理に過ぎないことがあきらかです。

もっと基礎的な科学理論についていえば、ニュートン力学はわれわれが日常生活で出あう程度の速度の力学的現家については十分な説明を与えてくれますが、宇宙線のようなきわめて大きな速度で物質粒子が運動する現象については相対論的力学でなければ説明できません。その限りで、ニュートン力学は相対的真理しか含んでいません。
前回に例として述べた光学の場合にも、レンズやプリズムのようなものを組み合わせた光学系のなかで光がどのような経路で進むかについては幾何光学で間に合いますが、回折や干渉のような現象を説明するには波動光学が必要であり、光電効果を説明するには更に量子論的光学が必要です。
この場合に、量子論的光学によってもわれわれは光にかんするあらゆる現象を認識し尽くしたと主張出来る根拠はなく、現在までのあらゆる光学による科学的認識は、いずれも相対的真理に過ぎないのです。

レーニンは今世紀の始めに既にこのようなことを予想して、「物の『本質』または『実体』もまた相対的である。それらはただ人間が客観を認識する程度が深まってゆくことを表現しているだけであり、そして、この深まりが昨日は原子よりも先には進まず、今日は電子やエーテルよりもさきに進んでいないとすれば、弁証法的唯物論は、人間の進歩しつつある科学による自然認識のこれら全ての道標の、一時的・相対的・近似的な性格を主張するものである。電子は原子と同じように汲みつくされ得ない(完全に認識されつくすことの出来ない)モノである」(『唯物論と経験批判論』第五章の二)と述べたのでした。

さて、以上に述べたように、比較的多くの科学的認識は相対的真理に留まるのですが、しかし相対的真理と絶対的真理との関係をなにか断絶的なものと考えてはなりません。
両者は確かに区別されなければならないのですが、しかしその区別は弁証法的に理解されなければなりません。と言うことは相対的真理の他に、何かそれとは別の起源を持つ絶対的真理があると考えたり、科学はいくら進歩しても相対的真理しか与えないのだから、絶対的真理は科学以外に(例えば宗教に)求めなければならない、などと考えてはいけない、という意味です。

相対的真理は、近似値であるとは言っても、客観的真理を(完全にではないが)なんらかの程度に表しているのであり、しかもその程度は科学の発展によって一歩一歩と高まりつつあるのです。人間の認識はこのような相対的真理の発展を通して絶対的真理へとせまってゆくのであって、この相対的真理の発展の全体こそが絶対的真理なのです。
相対的真理の発展は (前述のように簡単な問題の場合を除いて)人類の歴史のなかで限りなく進み、終点に達することはないでしょう。その意味で、電子ですらも汲みつくされることはないのです。
しかし、相対的真理の発展の各段階は、いわば絶対的真理の部分ないしは契機なのであって、相対的真理の発展の系列以外のところに絶対的真理を求めたり見いだしたりすることはできないのです。レーニンはこのことを次のように述べています。

「このようにして人間の思考はその本性上、相対的真理の総和からなりたっている絶対的真理を、われわれに与えることができるし、また与えている。科学の発展に於けるおのおのの段階は、絶対的真理というこの総和に新しい粒を付け加える。しかし、おのおのの科学的命題の真理の限界は相対的であって、知識の一層の生長によって、あるいは拡大され、あるいは縮小される」(前掲書、第二章の五)と。

相対的真理の「相対的」ということを、それは「相対的」なのだから、今日あることが真理だといわれていても、明日はその正反対のことが真理といわれるかもしれない、などというふうに考えてはいけません。
さきに述べたように、ある認識が真理であるかどうかは実践を基準として検証されているのであって、実践による検証を経ていないようなものは相対的「真理」ですらないのです。
世間で「真理」だといわれているもののなかには、宗教の説く「真理」やブルジョア的社会科学の説く「真理」のように、実践の検証に耐えることのできないまやかしの「真理」が、相対的真理ですらないものが含まれていますから、警戒する必要があります。
また同時に、本当に相対的真理であるものは、一定の実践的検証を経ているのですから、それぞれの場合に程度は異なりますが、われわれが実践の指針として頼ることのできるものです。

弁証法的唯物論が真理の相対性を強調するのは、もはや新しい研究・探究は必要がないといったように、真理 の探求が停滞に陥ることを避ける為にであり、また、相対的真理にも絶対的真理の粒が含まれていることを強調するのは、だから科学的真理などと言ったって実践の指針にはならないといったような、懐疑論に陥ることを防ぐ為です。

このような見地からレーニンはつぎのように述べています。
「マルクスの理論は客観的真理である、というマルクス主義者が共通に持っている意見からの唯一の結論は、次のことにある。すなわち、マルクスの理論の道に沿って進めば、われわれはますます客観的真理に近づくであろう(決してこの真理を汲みつくすことは無いが)、ところがあらゆる他の道に沿ってすすめば、われわれは混乱と虚偽以外のなにものにも到達することができない、ということである」(前掲書、第二章の六)  ―― ―― と。

4、実践的意味における真理

以上に述べてきたことはいずれも認識の真理性についてでした。
「真理」ということばが使われるのは多くこの意味においてですが、しかしその他にこのことばが実践的意味に使われることがあるので、そのような場合における「真理」について最後に述べておきます。

それは例えば、「不正の社会、虚偽の社会を打倒して、正義の社会、真理の社会を建設せよ」とか、「こんなくだらぬ作品は真の芸術作品ではない」とか、「あんな悪いことをする奴は真の人間ではない」とかいうような場合です。
あとの二つの場合に「真の」という形容詞は「本当の」という意味で使われていますが、その場合に「本当の」ということは「真理の」といいなおすこともできる訳で、やはり「真の」という場合に一定の真理概念が予想されています。これらの場合の真理概念を私は「実践的意味における真理」と呼ぶのです。なぜ「実践的」かということは、これから述べることを読んでいただければ分かります

まず最後の例を考えてみましょう。これはある人間についての道徳的評価を述べたことばです。この場合に「真の人間でない」というのは「道徳的に悪い人間だ」ということであり、従って「真の人間」とは「道徳的に善なる人間」のことです。
だがそれを「真の人間」といい表わす場合には、それが人間の当然にあるべき在り方だ、という考えが基礎にあり、そして、人間は誰でも人間として当然あるべき在り方、生き方をしなければならないという実践的要求がなされている訳です。

二番日の表現も、ある作品についての芸術的評価がなされている訳ですが、同様に「真の芸術作品」とは芸術作品の当然にあるべき在り方にある作品のことであり、芸術家はそのような作品を創作すべきだ、というやはり践的要求がなされているのです。
つまりこれらの場合に基礎にある真理概念とは、実践において実現されるべきものとしての「真理」であり、それは「理想」というよりももっと強い要求として(というのは、理想的な人間や芸術作品はそんなにざらにあるものではないと、たいていの人が認めているから)、およそ人間であり芸術作品である以上はそれから外れていることは(実際に外れている人間や作品があるにしても) あるべきでないという要求が、人間および芸術作品の「真理」として、実践によって実現されるべき「真理」として述べられているのです。

最初の例は重要です。「不正」と「正義」という用語はやはり道徳的評価を表わすことばです。それとならべて使われると「虚偽」と「真理」という用語も、道徳的な意味を持っているかのように響きます。しかし、ある社会状態または社会形態について道徳的評価をくだすということはなにを意味するでしょうか。
その社会を支配し牛耳っている人達を道徳的に非難している場合もありましょうが、諸個人ではなくて社会制度とくに経済関係を念頭において前記のようなことをいう場合もあるでしょう。社会制度について道徳的評価をするとは、どういう場合でしょうか。
エンゲルスはこのことについてこう述べています。

「大衆の道徳意識がある経済事実を、昔なら奴隷制ないし賦役労働を、正しくないものと見なす場合、これは、その事実そのものが時代遅れであることを、ほかの経済諸事実が発生し、その為にまえの事実が耐え難いもの、維持しがたいものになったことを証明する」(「『哲学の貧困』ドイツ語第一版への序文」)

つまりこの場合に「真理の社会」とは、既に発生している経済的諸事実に合致した社会制度を意味しており、それが当然に実現されるべきものとして、実践によって実現されるべき真理としてつかまれている訳です。
このように、人や物や制度の真にあるべき姿を「真理」とよび、実在している人や物や制度に対しててこの「真理」を対置し、「真理」を実現せよという要求がなされる場合に、その「真理」といわれているものが単に空想から生まれたのではない場合には、その背後に人や物や制度についての深い認識がひそんでいることが多いのです。
そのような深い認識、人や物や制度についての全面的な認識を背後にもつ実践的意味における「真理」は、弁証法的唯物論の立場から見ても重要な真理概念であり、いままであまり研究されていませんが、今後いっそう深く理論づけをする必要があると思います。

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