No-23 現実性と可能性

1、現実性とはなにか

「君はあまりにも世の中のことを知らなさすぎる。社会の現象にもっと注意したまえ」、「君の考え方は空想的だよ。社会の現実をもっと良く見たまえ」などという場合に、「社会の現象」というのと「社会の現実」というのとは同じでしょうか、それとも違うでしょうか。

前回に「必然的」と「偶然的」と言う言葉が、日常の会話などでどのように使われるかについて吟味した時にも述べたように、我々の日常の言葉づかいには曖昧さが有るので、「社会の現象」と「社会の現実」ということばも、必ずしも厳密に使い分けられているとは限りません。
しかしなんとなく感じとして、「現実」という方が「現象」と言うよりも重みを持っていると思いませんか。
「社会の現象にもっと注意せよ」と言われた人は、新聞をよく読めばよい、というぐらいに思うでしょうが、「社会の現実をもっと良く見よ」といわれた人は、 新聞の三面記事を読んでいるくらいではだめで、もっと根本的な社会の動き、新聞記事に出ているような出来ごとの、いわば底流とでもいったものを掴まなければいけないのだな、と感じるのではないでしょうか。

もし皆さんが今述べたことに同感だと思われるのでしたら、この二つの用語についての皆さんの語感(ことばについての感覚) は正しいと思います。
九月号で「現象」ということばは「自然や社会における出来ごと」の、全てを指す、広い意味で使われる場合と、「本質」から区別された狭い意味で使われる場合とがある、と言うことをを述べました。

「社会の現象にもっと注意せよ」という場合には、多くの人びとは本質と現象との区別というようなことまで考える訳ではないけれども、な んとなくせまい意味に「現象」ということばを理解して、社会の外的な側面、われわれが感覚器官で直接に捉えることができるような社会的出来ごとに注意を払うことが要求されていると理解する訳です。

これに対して、(せまい意味の)現象と本質との両方をあわせたものを「現実」または「現実性」といいます。だから「社会の現実をよくみよ」という要求は、外的な社会の出来ごとだけでなく、それらの出来ごとの背後に隠れていて、それを捉えるには理性的段階の認識を必要とするような社会 の内的側面をもあわせて認識せよ、と言っているのです。
だから、「社会の現実をみよ」という要求は「社会の現象をみよ」という要求よりも高度の要求であり、それが重みを持っていると感じられるのは当然だといえます。

また、前回には必然性と偶然性とについて述べたなかで、必然性がそれだけで、いわば裸で現われることはなく、必然性はいつも偶然性を、すなわち偶然性というキモノを着て現われる、ということを申しました。
この偶然性というキモノを着た必然性、さまざまな偶然性にまといつかれた必然性 ―― ―― そういう意味での必然性と偶然性との統一された全体が「現実性」とよばれるのだ、と説明することもできます。

さきに述べたように(せまい意味での)現象と本質との全体が現実性であるといっても、またいま述べたように、必然性と偶然性との統一された全体が現実性であるといっても、結局同じことです。
という訳は、本質と現象も、必然性と偶然性も、客観的現実性の二つの側面をあらわすカテゴリーであって、ただ、どのような見地から客観的現実性を二つの側面に分けるかという点が違っているだけだからです。
すなわち、客観的現実性を認識の見地からみて、人間の感性的段階の認識にとって外に現われている側面と内に隠されている側面とに分ける場合に、「本質」 と「現象」というカテゴリーが使われ、客観的現実性を発展の見地からみて、必ず実現される基本的な側面と起こることもあれば起こらないこともある副次的な 側面とに分ける場合に、「必然性」と「偶然性」というカテゴリーが使われるのです。そしてどららの場合にも、そのように二つの側面に分けられる前の全体を 言い表すカテゴリーが「現実性」なのです。

さて、「現実性」というカテゴリーが重要な役割を果たすのは、我々が自然や社会の発展について考える場合です。百年前の日本の社会の現実性は今日の日本の社会の現実性とは随分違っていました。
百年後の日本の社会の現実性は(それがどんなものであるかをいま予想することはできないにしても)、それが今日の日本の社会の現実性とは非常に違ったものであるにちがいない、ということは断言できます。
簡単にいえば、過去の現実性と現在の現実性と未来の現実性とはそれぞれ違っているのであり、現実性とはこのように歴史的時間の流れのなかで発展してゆくものなのです。

自然についても同様で、ただこの場合には時間の経過が非常に長いという違いがあるだけです。
例えば非常に古い時代には、地球上には生物はなにひとつ存在せず、あちこちで火山が激しい勢いで爆発しており、地球の表面は水と水蒸気でおおわれてい て、植物が存在しないのだから緑色などはどこにもみられず、たいへん荒涼たる光景を呈していました。それが遠い過去における地球の現実性で有った訳です。
太陽の出す熱エネルギーは今後しばらくの間(しばらくといっても天文学的時間でのしばらくですから、人間にとっては気の遠くなるような長い時間ですが)ど んどん大きくなり、そののち(太陽の内部にある水素が合成されてヘリウムになるという変化が長く続いた後、水素が少なくなってしまうことによって)急速に太陽の温度は下降するので、地球上はまずものすごく熱くなり、そののち寒くなる筈です。

生物が住めないような熱い状態、そののち恐ろしく寒い状態 ―― ―― それが非常に遠い未来の地球の現実性です(みなさんを心配させない為に申し添えますが、地球上が生物が住めないほど熱くなるのは、地球上に生物が存在するようになってから今日までに経った時間よりも遥かに長い時間が今後経 過した後のことですから、そのときには火星や木星に移住しようかなどと、いまから取りこし苦労することはやめましょう)。

要するに理解して欲しいことは、自然にも過去の現実性と現在の現実性と未来の現実性とがあること、従って、永遠不変の現実性というものは社会にも自然にもないということです。逆にいえば、現実性は常に変化し発展しているのです。

この現実性の変化・発展を考えるにあたって、「可能性」というもう一つのカテゴリーが重要になります。

2、可能性とはなにか

現在地球上にはきわめて多種多様な生物が存在しています。これらの生物は、現在の地球の現実性の重要な構成要素をなしています。
しかしさきに述べたように、非常に古い時代には地球上には生物はひとつも存在しませんでした。遠い過去の地球の現実性はその構成要素として生物を含んでい なかった訳です。過去の現実性のなかに含まれていなかったものが現在の現実牲のなかに含まれており、また逆に、過去の現実性のなかに含まれていたものが現在の現実性のなかには含まれていないこと。これが、現実性が過去から現在にかけて変化し発展した、ということにほかなりません。
そしてその場合に、過去の現実性のなかに含まれていなかったものが、どうして現在の現実性のなかにその構成要素として含まれるようになったのか、ということが問題になります。この問題を同じ例について考えてみましょう。

非常に遠い過去のある時代に、地球上にはただ一つの生物も存在しませんでした。しかしその時代の地球上には、水、炭化水素、窒素の化合物、無機塩類などの物質と、空中放電、紫外線、自然放射性物質からの放射線などによるエネルギーが存在していました。
これらの物質とエネルギーとによって、高分子の炭素化合物が合成されてゆき、ついに生命現象をもつ蛋白質が合成されるに至ったのです。つまり地球上に生物が存在するようになったのです。

ところで、このようにして生物が出現する以前の時代の地球の現実性のなかに、さきに述べたような物質やエネルギーが存在しなかったとしたら、どうでしょうか。
その場合には、地球上で高分子の炭素化合物が合成されることはなく、従ってまた生物が出現することもなかったでしょう。つまり、非常に遠い過去 のある時代の地球の現実性は、まだ生物を現実には含んでいなかったけれども、それよりものちの時代の地球の現実性が生物を含むようになるための諸条件を含んでいたのであり、もしもそのような諸条件が前の時代の現実性のなかに含まれていなかったとしたら、のちの時代の地球の現実性が生物を含むということは起 こらなかった訳です。

このように、後の時代の現実性のなかに含まれているものが、それよりも前の時代の現実性のなかには含まれていなかったけれども、しかしこの時代に既に、のちの時代に現実性になるで有ろうような諸条件が存在している場合に、これらの諸条件を「可能性」といいます。
すなわち、遠い過去のある時代に、地球上にはまだ生物が存在しなかったけれども、しかしさきに述べたような物質やエネルギーが地球上に 存在したということを、その時代の地球の現実性は「地球上に生物が出現するということの可能性を含んでいた」といい表わすことができる訳です。

社会の発展についても同様です。百年前の、すなわち明治初期の日本の社会の現実性のうちには、もちろん、今日の日本の社会にみられるような高度に発展した資本主義経済は存在しませんでした。
しかし、各種のマニュファクチュアが存在しており、また明治維新によって幕藩体制が崩壊したことにより、労働力の集中や商品交換の発展を妨げるような政治的障害はなくなっていました。つまり、百年前の日本の社会の現実性のうちには、「高度に発展した資本主義経済が日本の社会の現実性となるための可能性」が 既に含まれていた訳です。

以上に述べたことを要約すれば、「現在の現実性またはその構成要素が成立したのは、過去の現実性のなかにその可能性が含まれていたから である」と言えます。このように過去の現実性と現在の現実性とのあいだにみいだされる関係は、現在の現実性と未来の現実性とのあいだにも成りたつ筈であり ます。
すなわら、現在の現実性のうちには、未来に現実性となるで有ろうものがさまざまの可能性として含まれている筈です。
そして現実性と可能性というカテゴリーが実践的に重要になるのは、主としてこの現在と未来との関係においてです。未来に現実性となる為のどのような可能性が現在の現実性のなかに含まれているのか、それを見抜くことが大切なのです。

しかし、過去と現在との関係では分かり易いことが、現在と未来との関係では必ずしもそうで有りません。
と言う訳は、過去と現在との関係では、既にわれわれの前で現実性になっているものについて、それが成立するための条件が退去のどの時代に既ににあったかをみれば良い訳ですから、可能性を発見することは比較的やさしい訳です。
ところが、現在と未来との関係では、まだ現実性になっていないものについて考えるのですから、どのような諸条件がどういう現実性の為の可能性であるのかを具体的に明らかにすることはなかなか難しい訳です。

この場合には、われわれに与えられているものは現在の現実性ですから、そのなかに未来の現実性にとってのどのような可能性があるかを分析しなければなりません。そのような分析をして成功するためには、「可能性」というカテゴリーをもっと明確にしておく必要があります。

3、形式的可能性と実在的可能性

可能ですらないことは「不可能」だといわれます。例えば、思考法則に反しており、従って考えられないことがらは不可能です。「丸い三角形」とか「赤い緑色」などは考えられません。従ってまた不可能です。
ここまではよいのですが、このことから逆に、従って考えられることがらはすべて可能である、と主張する観念論者がいます。この主張によれば、「今夜月 が地球上に落ちてくる」ということも可能だということになります。月も地球もそれぞれ一つの物体であり、互いに外にある二つの物体が衝突するということは、なんら思考法則に反しておらず、従って考えられることがらだからです。

だが唯物論者はそのようには考えません。ただ思考法則に反することだけが不可能なのではなく、自然法則および社会法則に反していることがらも不可能である、と唯物論者は主張します。
月は運動の惰性をもっています。ある物体がそれまで持っていた運動の惰性を突然に失うということは、自然法則に反しています。そして、月が今まで持ち続けてきた運動の惰性を突然に失わないかぎり、月が今夜地球上に落ちてくるということはおこりません。
だから、唯物論者の主張によれば、そういうことは不可能です。

従って唯物論者は、思考法則・自然法則・社会法則のどれにも反しないようなことがらだけが可能である、と主張します。
だが、このような意味での可能性は未だ「抽象的・形式的可能性」に過ぎません(「抽象的可能性」と「形式的可能性」とは、言葉が違うだけで、カテゴリーと しては同一です。どちらの用語も使われています)。例えば、「来年の八月十日に東京都で集中豪雨がある」ということは可能かどうか、と問われれば、それ は可能だといわざるを得ません。なぜかといえば、そのときの気象図がどのようであるかについてわれわれはいまなんの知識も持ち得ないので、そのことが自然 法則に反するという根拠はなく、従ってそのことは不可能だとは言えないからです。しかしこのような可能性は、全くの形式的可能性にすぎません。

これに反して、台風が接近しており、気象図から判断して台風の進路と予想される地域では非常に集中豪雨が起こり易い状態になっているというので、気象台が警報をだしているというような場合には(警報がでたからといって必ず集中豪雨があると決まっている訳ではなく、台風の進路が予想され ている方向からそれることもあり、従ってこの場合にもそれは一つの可能性に過ぎない訳ですが)同じように可能性であるとはいっても、前の場合とは違っ て、それが現実性になる確率が高い訳です。
このような可能性を「実在的可能性」といいます。実在的可能性とは、未来においてそれが現実性になるための諸条件が現在の現実性のなかに揃って存在しているそのような可能性のことです。

形式的可能性と実在的可能性との違いを説明するためによく例にひかれるのは、恐慌の問題です。マルクスは『剰余価値学説史』で、単純商品生産社会にも既に恐慌の形式的可能性(マルクスは「一般的・抽象的可能性」ということばを使っていますが、同じことです)があると指摘しています。
その理由は、第一に、貨幣が流通手段として働くことによって、販売(商品-貨幣、という交換)と購買(貨幣-商品、という交換)とが時間的に切り離さ れることにあります。すなわち、ある商品生産者が自分の生産物を売って貨幣を手に入れたのち、すぐに他の商品を買わないで貨幣を握り込んでいる時間が有る為に、他の商品生産者は自分の生産物を売ることができない、という可能性が生まれるのです。

理由の第二は、貨幣が更に支払手段として働き、信用によって商品の受け渡しがおこなわれ、決算期にはじめて貨幣による支払がおこ なわれることによって、信用によって商品を受けとった人(債務者)は一定期間内に自分の商品を貨幣に替えることができないと破産する訳だが、この人から商品を受けとった人も同様に信用による債務者になっているという具合に、多数の人びとのあいだで債権・債務の関係が複雑に絡み合うので、どこかで一人の破産者がでるとそれが連鎖反応を起こして次々に破産者が広がってゆく可能性が生まれる、ということにあります。

このように、貨幣の流通手段および支払手段としての機能のうちには既に恐慌の可能性が含まれているのです。
しかし単純商品生産社会では、この可能性が現実性へと転化するための諸条件がまだ揃っていません。だからそれは形式的可能性に過ぎないのです。

ところが資本主義社会になると事情が変わります。
―― ―― 分業が大規模になり、さまざまの生産部門が複雑に絡み合うことによって、債権・債務の関係がますます広範にかつ複雑に繋がりあうばかりでなく、企業間の競争が激化し、社会全体としての生産がますます無政府的となり、また、生産が大規模になると同時に勤労大衆の貧困や失業が大規模になり、これらの人びとの消費が低い水準に押さえつけられて生産物の販売を圧迫する、等々 ―― ―― 要するに資本主義の諸矛盾が激化することによって、恐慌が現実におこる諸条件が出 揃ってくる訳です。
すなわら、資本主義社会になることによって恐慌の可能性は、それまでの形式的可能性から実在的可能性へと転化するのです。

この例の場合には、歴史の発展過程で、かつて形式的可能性にすぎなかったものが、実在的可能性へと転化したのでした。
だが、あらゆる場合に形式的可能性が実在的可能性へと転化する訳では有りません。永久に形式的可能性にとどまり、実在的可能性へと転化することのないものもあります。
例えば、資本主義経済を計画的に営み、そのことによって失業や恐慌のような資本主義経済が生みだす社会的不幸を避ける可能性について、いろいろなことが語られています。

その一つとして、かってカウツキーは「超帝国主義」の可能性について説きました。帝国主義時代の経済のなかには、集中・独占への法則が働いています。
それは確かなことなのですが、カウツキーはこの法則の作用によって鉄鋼・石油・電気機械等々の産業部門にそれぞれ全世界的な単一の独占体が形成されるにいたり、その結果、同一産業部門内での競争がなくなり、従って計画経済が可能になると考えて、それを「超帝国主義」とよんだのでした。
前述のように、集中・独占への法則は帝国主義時代の経済法則ですから、全世界的な単一の独占体の形成ということは、その限りでは社会法則に反しておらず、一つの可能性だといえます。

しかし帝国主義時代の経済のなかにはまた「不均等発展の法則」が作用していて、この法則の作用が「集中・独占の法則」の作用を相殺しています。だから全世界的な単一の独占体の形成ということは、現実性へと転化する諸条件を備えておらず、また将来もそれらの条件を備えるにはいたらない のです。
それは形式的可能性にとどまり、実在的可能性へと転化すろことのないものです。 ―― ―― レーニンは、カウツキーの「超帝国主義」論を、「現存する諸矛盾の深みから注意をそらすという、もっとも反動的な目的に専ら奉仕している」「死んだ抽象」であるといって鋭くこれを批判しました。

以上に述べたことから分かるように、われわれは実践上で過ちを犯さない為には、形式的可能性と実在的可能性とをハッキリ区別し、実在的 可能性を重視すること、また、形式的可能性にかんしては、それが将来実在的可能性に転化するものであるかないかを区別し、実在的可能性に転化しないような 形式的可能性について空虚な議論をもてあそぶことによって人びとの関心をねじまげないように注意することが大切です。

4、可能性の現実性への転化における主観的要因の役割

実在的可能性がある場合でも、それは必ず現実性に転化する訳では有りません。取り分け社会の発展過程では、実在的可能性の現実性への転化は人間の実践活動を通してのみおこなわれます。社会生活には客観的側面と主観的側面とがあります。
レーニンは革命的情勢の客観的側面として、

  • 支配階級がその支配をいままでの形で続けることができなくなること
  • 被支配大衆の貧困と苦難が普通以上に大きくなること
  • これらの原因で大衆の積極性が著しく高まり、独自の行動をとるに至ること

この三つをあげました。
これらが客観的側面とよばれるのは、このような条件は人間が意識的に作りだそうとして作り出すことのできるものではないからです。
これらの条件は、社会の歴史的発展過程で、階級矛盾の激化によって、人びとの意識から独立に形成されてくるのであり、そしてその場合には革命の実在的可能性がある訳です。

しかしこれだけで革命が現実性になるのでは有りません。革命の実在的可能性が現実性に転化する為には、革命的意識を持つ人びとの意識的行動によって、被抑圧大衆のたかまりつつある独自行動が革命の目的に向かって組織され動員されなければなりません。これが革命の主観的要因です。
革命の客観的諸条件にこの主観的要因が加わる場合にはじめて、革命の実在的可能性が現実性に転化するのです。

例えば1919-20年にイタリアでは労働者と農民の独自行動が著しく、古い支配階級はどうしてよいか分からなくなり、社会主義革命の 客観的諸条件があったのですが、勤労人民大衆の行動を社会主義革命の成功に向けて指導する能力をもつた勢力がなかった、すなわち主観的要因が欠けていたので、この国の革命の実在的可能性は現実性へと転化しませんでした。

他方、革命の実在的可能性が客観的に存在していない場合に、そのことを無視して、革命の主観的要因だけを一面的に強調するのは、各種の極左的はねあがり分子の特徴です。
「マレクス主義者にとっては、革命的情勢なしに革命は不可能である」とレーニンは書いています。主観的要因は、客観的諸条件を正しく認識し、これに立脚し、これを目的意識的に利用する場合にはじめて、その力を発揮するのです。

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