No-17 史的唯物論の位置

(この章の学習ポイント)

史的唯物論はマルクス主義哲学の一部分である、と言うことを理解するのが今月の学習ポイントです。これは平凡なことのように思われるでしょうが、そもそも哲学と経験的諸科学との関係と区別はどのようであるかと言うことの理解を裏付けとすることによって、哲学万能主義を退け、史的唯物論からいきなり革命の戦略戦術を導き出すような誤りを避けると同時に、経験科学的な社会の研究が史的唯物論を導きとしなければ、正しく進められないことを理解する助けになります。
第二に、弁証法的唯物論と史的唯物論とを切り離してはいけないこと、前者が先に出来て後者はその応用では無くて、両者が緊密に結びついて統一の或る哲学を形成していることを学びとって下さい。

    

 

一年以上、二年近くに渡って続けて来たこの入門講座を、今回で終わりにしたいと思います。
この言葉を読んで意外だと思う読者が有るだろうと思います。と言うのは、民族問題だとか、イデオロギー論だとか、未だこの講座では触れられていない問題が幾つかあるので、当然それらの問題が取り上げられることと期待していたのに、それをやらないで終わってしまうのか、と言う不満を持つ人たちが有るだろうからです。
このような不満又は疑問に対して、これは「入門」講座なのだからそこまでは立ち入りません、と答えて済ませることも出来るでしょう。だがその場合には、「入門」講座では無くて、史的唯物論を本格的に叙述する場合には、当然、それらの問題が取り上げられるべきだ、と言う考えを前提していることになります。
だが、果たしてそうだろうか、と言うことは検討する必要のある問題なのです。

それで今回は、この講座を終わるに当たって、最後に、マルクス主義理論の全体の中で史的唯物論はどのような位置を占めているのか、または占めるべきであるのか、と言う問題を取り上げたいと思います。
史的唯物論がどのような位置を占めるのかと言う問題と、史的唯物論にはどのようなテーマが含まれるべきかと言う問題とは、密接な関係が有ります。
マルクス主義理論全体の中で史的唯物論の占める位置がこれこれであるならば、史的唯物論で取り扱われるべきテーマは比較的狭く限定されるべきであるが、その占める位置が変わるならば、そこで取り扱われるべきテーマはもっと広げられてよい、と言うような相関関係が存在します。だから、マルクス主義理論の全体の中での史的唯物論の位置を論じることによって、合わせて、例えば民族問題が史的唯物論の取り上げるべきテーマに属するかどうか、と言うことを考えてみよう、と言う訳であります。

1、史的唯物論はマルクス主義哲学の一部分である

「マルクス主義理論の全体」と言う場合に私が念頭に置いているのは、

  1. 哲学,
  2. 経済学,
  3. 科学的社会主義

と言う三つの構成部分からなる、統一の有る理論体系のことです。このような三つの構成部分を考えると言うことは、レーニンの『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』(1913年)以来、多くのマルクス主義者たちによって認められている考えです。
この場合に、例えば歴史学はマルクス主義理論の中に入らないのか、と言うような疑問が生じます。そういった問題が確かにあるのですが、それは別の機会に検討することにして、今ここでは前記の三つの構成部分からなる統一のある理論体系をマルクス主義と考えると言う、伝統的な考えに従って議論を進めることにします。

さてそこで、史的唯物論が、前記の三つの構成部分のうちの第一のもの、すなわちマルクス主義哲学に含まれると言うことには、恐らく異論を唱えるマルクス主義者は無いでしょう。
だが、形式的に問題を建てればこのことに異論を唱える人が無いにしても、そのことをどこまで深く考えているか、と言うことになると、色々な違いが出てくるように思われます。

先ず第一に問題になるのは、哲学と経験的諸科学との区別と関係であり、第二に問題になるのは弁証法的唯物論と史的唯物論との関係です。

哲学とは言っても、唯物論者であるマルクス主義哲学者は、或る種の観念論哲学者たちのように、経験的諸科学から全く切り離されていて、しかも経験的諸科学に対して君臨し、一方的に経験的諸科学に対して命令を下すような、そう言った「哲学」を考えているのではないことは、言うまでも有りません。
哲学は、経験的諸科学の発展と成果を尊重しなければならないし、そこから多くのものを学びとってくることによって初めて、哲学として成立することが出来ます。これは極めて明白なことです。
だがしかし、他方、経験的諸科学は、哲学から学ばなければならず、哲学によって導かれなければなりません。マルクス主義哲学が経験的諸科学から学ぶと言うことは、決して、哲学を経験的諸科学に解消することではないのです。

例えばレーニンが言っているように、「唯物論の基本前提は外界の承認、我々の意識の外の、かつ意識から独立している物の存在の承認である」(『唯物論と経験批判論』第一章の四)のですが、この外界の承認と言うことは、個々の実験や経験によって確証出来ることでは有りません。そしてその限りでは、経験的諸科学を超えた問題なのです。
すなわち、「人間の意識から独立して存在しながら、しかも人間の感覚によって模写され・反映される客観的実在、すなわち物質が存在する」と言う命題は、経験科学的命題では無くて、哲学的命題なのです。

しかしマルクス主義哲学は、経験的諸科学の歴史的発展を無視したり、これから離れて自分勝手にこの命題を主張しているのでは有りません。
そうでは無くて、外界・物質の存在を承認すると言うことが経験的諸科学の前提になっていると言うことをこれらの科学の歴史について確かめ、外界・物質の存在を否認するような哲学(観念論哲学)によって導かれる場合には経験的諸科学の発展がゆがめられたり、阻止されたりすることをも事実に即して確かめ、このような哲学の主張を批判し論駁するとともに、外界・物質の存在を承認すると言う前提をハッキリと自覚的に把握することによってこそ経験的諸科学が正しい発展の道を歩むことが出来ると言う見通しを建てたうえで、マルクス主義哲学は先の命題を主張しているのです。

外界・物質の存在の承認について以上に述べたことは、その他の哲学的命題についても同様です。哲学的命題は、極めて大きな一般性を持っているので、これを主張したり承認したりするのに必要な手続きは、経験科学的命題を主張し承認するのに必要な手続きとは違っています。例えば、「全てのものは(自然も社会も)発展する」と言う、弁証法的唯物論が主張し承認している哲学的命題を主張し承認する為に必要な手続きは、「全ての生物の種は進化する」と言う生物進化論が主張し承認している経験科学的命題を主張し承認するのに必要な手続きとは違っています。

後者の命題も、全ての生物の種について主張している一般的命題ですから、個々の化石についての研究とか、発生学上の考察とかだけから引き出せる結論ではなく、生物に関する広範な研究・考察によって支えられる必要のある命題です。
しかしこれは経験科学的命題ですから、この命題を承認する為にその論拠とされるものは、全て経験的に確証されるものでなければなりません。
経験科学的命題を主張する為にも、もちろん理論的考察が必要であり、それを主張し承認する過程には理論的一般化の過程が含まれていますが、しかし経験的諸科学の特徴は、この理論的一般化を不当に拡大しないように注意し、理論的一般化によって導き出された命題を更に新しい経験(実験や観察・測定)によって丹念に立証してゆくことに有ります。

これに対して哲学的命題は、直接に経験的事実に立脚すると言うよりも、むしろ前記のようにして確立された経験科学的命題を一層広範囲に考察し、大胆に概括することによって、より大きな一般性を持つ理論的一般化を行い、このことによって経験的諸科学の将来の発展に対してその進路を指し示すことをその特徴としています。
だから哲学的命題は、その理論的一般化を行うに当たって、或る種の飛躍を行っています。例えば、今日でこそ、恒星にも年齢が有って、幼年期、壮年期、老年期の星がそれぞれ存在し、幼年期の星である赤色巨星から老年期の星である白色矮星へと(非常に長い時間を経過してでは有るが)変化し、ついには有る条件のもとで、ブラックホールになると言うことが、経験科学的にほぼ立証されていますが、しかし唯物論的弁証法が「全てのものは発展する」と言う前記の哲学的命題を主張し始めた時には、未だこのような恒星の発展についての経験科学的事実は分かっていませんでした。

経験科学だけを尊重しようとする立場から言えば「全てのもの」と言う中には当然のこととして恒星も含まれるのであるから、恒星の発展についての前記のような事実がまだ分かっていなかった時期に前記のような哲学的命題を主張したことは、不当な一般化を行ったものである、と言う非難が出されるかも知れません。
しかしそこに、私が先に「ある種の飛躍」と呼んだものが有るのであって、もしもそれをけしからぬと言うのであれば、哲学的命題は成立することが出来ません。ここにこそ哲学と経験的諸科学との違いが有るのであって、哲学に対して前記二様な意味での「ある種の飛躍」を認めまいとする見解は、哲学を否認し、哲学を経験科学に解消しようとする見解です。

この場合について言えば弁証法的唯物論は、「全てのものが発展する」と言う理論的一般化を恒星に関する経験科学的研究に先だって行うことによって、それならば長い間永久不変のものと考えられていた恒星にも発展が有る筈だと言う予見を与え、この予見によって恒星に関する経験科学的研究の方向を示唆したのであり、このことにこそ哲学の経験科学に対する積極的役割が有ったのです。
又このようにして導かれた経験科学的研究が、前述のように恒星の発展についての諸事実を経験科学的に立証したと言うことは、弁証法的唯物論が理論的一般化によって導き出した前記の哲学的命題の正しさを立証したものであり、この哲学の正しいことをより強く主張し得る論拠を提供したものに他ならないのです。

さて、では哲学が前述の意味で「ある種の飛躍」を含む理論的一般化を行った後に、経験科学的研究によって、そのような理論的一般化によって成立した哲学的命題に反するような事実が発見されたならば、その場合にはどうなるでしょうか。
―― ―― その場合には、唯物論哲学は、その新しい経験科学的研究の成果から学ぶことによって、自己のかって主張した哲学的命題を改めなければなりません。
史的唯物論が「これまでのあらゆる歴史は階級闘争の歴史であった」と言う理論的一般化を行った後に、原始共産制社会がかって存在したと言う、歴史学的研究の新しい成果に接して、「原始状態を別にすれば」と言う但し書きをつけるようになったと言うことは、既にこの講座で何回も述べたことですが、このことは、哲学的命題が経験科学的研究の新しい成果と相反するような事態が生じた場合に、哲学的命題がどのように改められなければならないか、と言うことの具体例で有ります。
又この事実は、史的唯物論がどのような意味で哲学であるのか、と言うことをも示唆しています。史的唯物論は、経験科学としての歴史学の成果を尊重し、その成果に依拠しておりますが、同時に、大胆に理論的一般化を行うことによって歴史についての一般理論をなしているのであり、この点で経験科学としての歴史学とは異なっており、マルクス主義哲学の一部分をなしているのです。

    

 

史的唯物論は、以上に述べたように哲学であり、従って社会に関する経験科学的研究にその進むべき方向いを示し、何を重点的に研究しなければならないか、どのような方法で歴史的・社会的事実を取捨選択して、経験的諸事実の膨大な集積の中から社会の歴史的発展の筋道を具体的に解明しなければならないかを教えることによって、経験科学としての社会科学(歴史学を含む)の発展を促進する働きをしています。
だが同時に、史的唯物論の諸命題は、あらゆる哲学的命題がそうであるように、「ある種の飛躍」を含む理論的一般化によって成立したものであり、先に原始共産制社会の存在が経験科学的研究によって立証された場合に、階級闘争に関する命題が部分的に訂正されたように、現在及び将来の経験科学的研究によって訂正ないしは厳密化される可能性を含んでいます。
―― ―― ここで言う「訂正」ないし「厳密化」が、修正主義的な意味での「修正」とは無関係であることは、改めて言うまでも有りません。

さて、以上に述べたことを考えてみるならば、史的唯物論の取り上げるべき問題領域が、経験科学的な歴史学や経済学などがその研究対象としているものよりも一層大きな一般性を持つ理論的一般化を必要とし、かつそれを可能とする問題領域に限られるべきだ、と言うことが分かるでしょう。
このような意味で私は、民族問題や、イデオロギーに関する各論(芸術・道徳・宗教などの個々のイデオロギーに関する理論)のような、なお経験科学的研究をこそ積み重ねる必要が有り、性急に哲学的命題を主張し承認することが不適当だと考えられる領域は、史的唯物論が取り上げない方が正しいと考えるのです。
実際に従来「史的唯物論」と言う書名を持つ著書の中で、これらの問題領域を取り扱っているものを見ると、そこで述べられていることは、経験科学的事実及び理論が殆ど全てで有って、これらのことをマルクス主義哲学の一部分である史的唯物論の中で述べることは、不適当だと思われるのです。

―― ―― 又、国家論や革命論に関しても、史的唯物論の中で述べるべきことは、前述のような意味で哲学的であることがらに限るべきであって、理論的一般化では有っても、哲学的と性格づけるのにふさわしい大きな一般性を持つ理論的一般化では無くて、経験科学的な性格のより強い問題領域は、科学的社会主義の理論に任せるべきであって、これを哲学としての史的唯物論に含めて取り扱うことは不適当であると考えます。

このように言うことは、決して哲学の価値を引き下げるものでは有りません。哲学には哲学の任務が有るのであって、それは経験的諸科学に代わるべきものではなく、又、経験的諸科学が哲学に代わるべきものでも有りません。
哲学はマルクス主義理論の中で、その背骨とも言うべき重要な位置を占めるものですが、しかし万能ではなく、哲学が万能でないことを知って、その任務と限界をハッキリさせることこそが、哲学を尊重する所以です。
このことは、哲学と経験科学としての自然科学との間では従来も誤解されることは少なかったと思いますが、哲学と経験科学としての社会科学との間ではややもすると曖昧になる危険が有り、哲学としての史的唯物論から、特定の社会についての経験科学的研究を媒介としないで、直接にその社会における革命の戦略戦術論を導き出すような議論が行われる場合が有るので、特に注意を促した次第です。

2、弁証法的唯物論と史的唯物論との関係

もうあまり紙数が有りませんが、簡単にこの問題について述べます。
マルクス主義=弁証法的唯物論であって、史的唯物論はその応用である、と考えることは誤りです。
このような誤解が生まれた一因として、レーニンの「マルクスは、哲学的唯物論を深め発展させて、それを徹底させ、それの自然認識を人間社会の認識へと押し及ぼした」(『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』)と言う言葉を軽率に読み取ると言うことが有るように思われます。
ここでレーニンが「哲学的唯物論」と言っているのは、マルクス以前の哲学的唯物論のことであり、だからこそ、マルクスはそれを「深め発展させ」たと言われているのですし、「押し及ぼした」と言う表現でレーニンが言おうとしていることは、自然を唯物論的に認識しただけでなく、更に人間社会を唯物論的に認識しようと言うことであって、自然に関して出来上がった哲学理論をそのまま人間社会に摘用(又は応用)した、と言うことでは有りません。

レーニンの『カール・マルクス』には「社会現象の分野への唯物論の首尾一貫した延長・適用」と言う言葉が有って、「適用」と言われているのですが、これも同じ論文の中の「およそ唯物論が意識を存在から説明するものであってその逆で無いならば、人間の社会生活に適用された唯物論は、社会的意識を社会的存在から説明することを要求していた」と言う文章と結び付けて理解すべきだと考えます。
すなわち、唯物論の社会現象への適用と言うことは、社会的存在と社会的意識との関係と言う原則的な事柄にのみ関して言われているのであって、その限りでは確かに「適用」と言う表現を使うことが出来ると思います。
しかしそれ以上に、(原始状態を除いて)人類の歴史を階級闘争の歴史と見ることとか、イデオロギー的社会関係の背後に生産関係を発見すること等などが、社会の歴史を経験科学的に研究することなしになし得るとはおよそ考えられないことであり、またレーニンが、マルクスがそのようなことをやったと考えたなどと言うことはおよそ有り得ないことだと思います。

レーニンが「適用」と言う言葉で言い表したかったことは、人間の社会的存在が社会的意識を規定する、と言う唯物論的原則に立って研究するのではない限り、経験科学的に人間の社会生活・社会の歴史を研究することは出来ない、と言うことでしょう。そして、このような経験科学的な社会研究の成果を学ぶことなしには社会の発展についての、理論的一般化を行って哲学的命題を確立することは出来ないことであり、又、社会についての発展法則を理解しないでいて、それより先に、全ての事物(自然も社会も含めて)の一般的発展法則を確立すると言うことも、有り得ないことです。
要するに、史的唯物論を含まぬマルクス主義と言うものは有り得ず、又、弁証法的唯物論から切り離された史的唯物論も有り得ません。両者は緊密に結びついてマルクス主義哲学と言う統一の有る哲学を形成しているのです。

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