No-24 普遍・特殊・個別

1、「普遍的」、「特殊性」、「個別的」とはどう言う意味か

はじめに、一番分りやすい「個別的」と言うコトバの意味から説明しましょう。
人間について、一人だけの人間を「個人」と言うように、一つだけの物や現象や事件を「個別的なもの」と呼びます。
例えば、「日本の国会議事堂」、「1973年秋に起こったアラブ諸国とイスラエルとの戦争」、「10月28日の朝東京で雨が降ったこと」、などはすべて個別的なものです。そして、「個別的であること」(つまり、「1つだけ」または「1度だけ」であるという性格)を「個別性」といいます。さきに例に挙 げたような物や事件は、みな「個別性」を持っているのです。

次に、「普遍的」について説明しましょう。断っておきますが、「普遍的」並びに「普遍性」と、「一般的」並びに「一般性」とは、全く同じ意味を持っています。
元来、これら二種類のことばは必要がなく、どちらか一方だけで間に合うのですが、不必要であるにもかかわらず両方の言葉が実際に使われているので、両方とも知っている必要があります。
―― ―― さて、共通の特徴や性質を持っている物や現象や事件のすべてをひとまとめにして考える場合に、それらの一まとめにされたものを「普遍的なもの」と呼びます。

人間については「人類」と言う特殊な言葉があって、これは全ての人間をひとまとめにして呼ぶ場合に使われる言葉ですから、人類とは「普遍的なもの」です。馬や牛については、人間の場合の「個人」と「人類」のように「個別的なもの」と「普遍的なもの」とを区別する違った言葉がなく、 普通にただ「馬」とか「牛」とかいう場合には、どの馬や牛でもよい全ての馬や牛を表わしますから、馬や牛も普遍的なものです。
同様に、ただ「戦争」といえば、どの戦争でもよい全ての戦争を、すなわち普遍的なものを表わします。ある特定の戦争(すなわち、個別的な戦争)をいい表わす為には、さきに例にあげたように、「1973年秋に起こったアラブ諸国とイスラエルとの戦争」というような、長いことばを使わなければなりません。特に普遍的なものを表わしているのだということを強調したい場合には、「全ての馬」とか「全ての戦争」といういい方をします。また、「普遍的であること」を「普遍性」といいます。

普遍的で有りながら、しかし他のよりいっそう普遍的なもののなかに含まれているもの(数学の用語を使えば、よりいっそう普遍的なものの 「集合」の「真部分集合」をなしているもの)を「特殊的なもの」と呼びます。人間については、例えば「人種」と言う言葉が有りますが、これはやはり共通の 特徴を持った多くの個人の集まり(集合)を表す言葉です。しかしそれは「人類」のなかに含まれており、その一部分をなすものですから、特殊的なものを表す言葉です。同様に「帝国主義戦争」とか「乳牛」とかも、「戦争」や「牛」の一部分を表わす、すなわち特殊的なものを表わす言葉です。そして「特殊的であること」を「特殊性」と言います。
「帝国主義戦争」と「民族独立戦争」とは、戦争であると言う限りでは共通性を持っていますが、それぞれが異なった特殊性をも持っているのです。

普遍的なものと特殊的なものと個別的なものとの関係は相対的です。さきに「人類」、「馬」、「牛」を普遍的なものだといいましたが、「動物」というよりいっそう普遍的なものとの関係で捉えれば、それらはいずれも特殊的なものであり、「動物」も「生物」というよりいっそう普遍的なものとの関係で捉えれば、特殊的なものです。
ある共通の特徴をもつ物や現象の集まり(集合)が普遍的であるか特殊的であるかは、その集まりだけを取り上げたのでは決まらず、その集まりが、それを部分として含むようなより広い (物や現象の)集まりとの関係で捉えられる場合には特殊的なものであり、それに部分として含まれるようなより狭い(物や現 家の)集まりとの関係で捉えられる揚合には普遍的なものです。

2、これらのカテゴリーと以前に述べた諸カテゴリーとの関係

普遍的なものというカテゴリーは、本質と言うカテゴリーと密接に結びついています。
本質とは「現象の背後に隠された、客観的実在(現実性)の内的な側面」のことでした。ある客観的実在(例えば、封建制度)の個々の現象が変化しても、そ の本質が変化しない限りは、その客観的実在(例えば、封建制度)は相変わらず同一の客観的実在でありつづけます(すなわら、相変わらず封建制度であって、 資本主義に変わるということが有りません)が、もしもその本質が変われば、もはや同じ客観的実在であり続けません(すなわち、封建制度ではなくなり、他の社会制度へと変化します)。だからある客観的実在(例えば、封建制度)の本質は、その客観的実在(例えば、封建制度)が存存する限り、常に存在するのであって、従って普遍的なものです。

これに対して同一の客観的実在の個々の現象(例えば、封建制度のもとでの現物地代)は、同一の客観的実在のもとで変化し得るものです(例えば、封建制度のもとで現物地代が貨幣地代に変化するということが起こり得ます)から、特殊的なものです。

また、普遍的なものというカテゴリーは必然性というカテゴリーと密接に結びついています。
必然性とは「あることがら(現実性)の発展過程で、そのことがらの本質のうちに原因をもっており、従って必ず実現される、そのことがらの発展の基本的な側面」のことでした。例えば、資本主義の発展過程で自由競争の段階から独占の段階へと移行するということは、資本主義の本質の中にその原因を持っており、資本主義の発展の基本的な側面であり、必ず実現される必然性です。必ず(常に)実現されるのですから、このようにして、必然性もまた普遍的なものです。
しかし、植民地の領有とか、他の(後進的な)独立国への資本の輸出とかは、資本主義の独占段階への移行に必ずこれが現われると言う訳ではなく、起こることもあれば起こらないこともある偶然性です。
このようにある特定の偶然性は、起こることも起こらないこともあるのですから、特殊的なものです。

けれども、本質は必ず現象しますし、必然性は必ず偶然性を媒介として発現します。個々の特定の現象や偶然性ではなく、なんらかの任意の現象と偶然性を問題にする場合には、本質が存在すれば常になんらかの現象が存在し、必然性が存在すれば常になんらかの偶然性が存在しますから、その意味で は現象と偶然性も普遍的なものです。

前述のように、本質と必然性は普遍的なもので有りますが、しかし逆に、普遍的なものは常に本質であり必然性である、とは言うことができません。例えば、服装に関する流行のようなものは、普遍性を持っている場合にも(例えば、女性のスカートがいっせいに短くなるというようなことが起こっても)、社会発展の本質でもなければ、必然性でも有りません。また、個別的なもの (一回限りのできごと)であっても、必然性を持っている場合がありま す。例えば、太平洋戦争における日本の敗戦は、日本の資本主義の歴史における必然的なできごとでありました。

3、存在のカテゴリーと認識のカテゴリー

観念論哲学のなかには、実在するのは個別的なものだけであり、普遍的なものとか特殊的なものとかは、実在せず、単なる名前(ことば)に過ぎない、と主張する一派があります。しかしこのような主張は正しく有りません。
例えば、一匹の犬を「チロ」と名づけて可愛がっていた人は、その犬が死ねと大変悲しむでしょう。他の犬をその人に与えても、その悲しみはなくならな いでしょう。というのは、その人が可愛がっていたのは、どの犬でもよいある一匹の犬ではなく、「チロ」と呼ばれていた個別的な犬だったのだからです。
しかし、他の人が「チロ」の行動を観察すれば、その人は単に「チロ」と呼ばれる個別的な犬の習性を知るだけでなく、同時に全ての犬に共通の習性をも知る ことができます。「チロ」は個別的なものであると同時に、一般に「犬」と呼ばれる動物でもある(すなわち、普遍的なものでもある)からです。
同じように、 私は「萩原千也」と呼ばれる一人の人間(個人、個別的なもの)です。しかし同時に「日本人」(という特殊的なもの)でもあれば、「人間(人類)」という普遍的なものでもあります。他の人が私を観察すれば、その人は日本人の風俗習慣や日本人の身体的特徴(髪の毛やひとみが黒く、皮膚の色が白くも黒くもない、等々)を知ることができます。また、私が死んでからその屍体をどこかの医科大学に売れば、そこの学生は私の屍体を解剖することによって、人類の骨格や筋肉や内臓についての解剖学的知識を得ることができます。もしも萩原千也が単に個人であり、同時に日本人でも人類でもあるのでなかったら、このようなことはできない筈です。
全ての個別的なものは同時に、特殊的なものでもあれば普遍的なものでもあるのです。従ってまた、個別的なものが実在する以上は、特殊的なものも、普遍的なものも、実在しているのです。

しかし、普遍的なものや特殊的なものが、個別的なものとは別に、それと離れて独立に存在していると考えるならば、それは正しく有りません。
例えば、私がいまこの原稿をその上で書いている机は、一つの個別的なものですが、それは同時に「家具」(という特殊的なもの)でもあれば、「物体」(という普遍的なもの)でもあります。そして、あれこれの机や椅子やベッドやタンスや戸棚などと別に、それらから独立に、「家具」という特殊的なものが存在する訳では有りません。
「家具」が存在するということは、机や椅子やベッドやタンスや戸棚などが存在するということであり、常にこれらの個別的なものと同時に、これらの個別的なものと結びついてのみ「家具」と言う特殊的なものは存在しているのです。

「物体」と言う普遍的なものについても同様です。
あれこれの家具や食物や建築物や乗物や岩石や樹木等々が存在するということが、物体が存在するということなのであり、「物体」という普遍的なものは、常にこれらの特殊的なもの(従ってまた個別的なもの)と同時に、それらと結びついてのみ存在しているのであって、それらと別に、それらから独立に存在してはいないのです。
―― ―― また逆に、個別的なものは、単に個別的なものとしてだけ独立に存在しているのでは有りません。
個別的なものは、特殊的なものや普遍的なものと結びついてのみ存在しているのです。このことをレーニンは、「個別的なものは、普遍的なものへ通じる連関のうち以外には、存在しない。普遍的なものは、個別的なもののうちにだけ、個別的なものを通じてだけ存在する」(『哲学ノート』、国民文庫版、< 下>328ページと述べています。

さて、この節のはじめに述べた観念論哲学の一派のように、「実在するものは個別的なものだけであり、普遍的なものとか特殊的なものとかは実在しない」と考えるならば、「個別的なもの」というカテゴリーは存在のカテゴリーであるけれども、「普遍的なもの」と「特殊的なもの」というカテゴリ一は、存在のカテゴリーではなく、認識のカテゴリーに過ぎない、ということになります。しかし今までに述べてきたことから分かるように、こういう考え方は正しくないのであって、普遍的なものも特殊的なものも実在している(決して単に名前に過ぎないのではない)のですから、唯物論的弁証法は「普遍的なもの」、「特殊的なもの」、「個別的なもの」というカテテゴリーはいずれも存在のカテゴリーである、と主張します。

現代哲学のなかでこのような主張をしてるのは、観念論者の一派なので、本文のように書きましたが、過去には、唯物論者のなかにもこのような主張をした人達がいました。イギリスの哲学者トマス・ホップズ(1588-1679)は、そのような唯物論者の代表的な人物です。
かれらは、唯物論者ではあったが、弁証法を知らなかったので、このような間違った主張をしたのです。

既に何度も述べたように、弁証法的唯物論によれば、認識とは客観的実在が意識内に反映されたものです。従って、存在のカテゴリーは反映されることによって、認識のカテゴリーにもなるのです。
すなわち客観的実在のなかに「普遍的なもの」と「特殊的なもの」と「個別的なもの」との区別があり、しかもこれらの三者が前述のように常に結びついて存在している、ということを認識するならば、こんどはなんらかの目的で(例えば、自然科学や社会科学の研究上の目的で、または労働運動や革命運動において運動方針や戦略戦術を決めるという実践上の目的で)客観的実在(自然や社会)を認識するにあたって、認識を正確でかつ深いものにするためにこれらのカテゴ リーを意識的に使用するようになります。その場合には、これらのカテゴリーは認識のカテゴリーとして働く訳です。

このことを具体的な事例について考えてみましょう。
マルクスは『資本論』第一版の序文で、「近代社会の経済的連動法則を明らかにすることは、この著作の最終日的でもある」と書いています。これについてレー ニンは『「人民の友」とはなにか』のなかで、「マルクス以前の経済学者がすべて社会一般について論じていたのに、なぜマルクスは『近代社会』について語るのか」と、あえて問いを発しています。なぜでしょうか。

―― ―― マルクス以前の経済学者、例えば代表的にケネー(1694-1774とアダム・スミス(1723-1790)を取りあげてみましょ う。彼らは何れも、自分自身が生きていた時代の、すなわち形成期の資本主義社会の経済法則を研究して明らかにしようとしたのでした。しかし彼らは、彼らがその研究によって認識した経済法則を、人間の社会の全体(すなわち、普遍的なもの)を通じて成り立つ一般的法則で有ると考えてしまいました。

例えばケネーはその著『経済表の分析』(1766年)に「この世のあらゆるものは、自然の法則に支配される」と書いていて、自分が発見した法則が、人間の社会の歴史的発展の全体を通じて成り立つ法則(すなわち普遍的法則)で有るかのように論じています。

スミスも「自然の法則」と言うことばは使っていませんが、彼がその著『国富論』(1776年)で取り上げている資本主義的生産を、社会的生産の永遠の自然形態(すなわち普遍的なもの)であるとみなしています。

かれらが折究したのは、人間社会の歴史的発展の一定の段階(すなわち、18世紀の中ごろにフランスとイギリスで実際に成立していた段階)における経済現象だったのですから、それは人間の社会と言う普遍的なものに対して、特殊的なものに過ぎなかったのです。しかし彼らは未だそれを特殊的なもの、従って社会の歴史的発展段階が変われば変化するものと認識することが出来なかったのでした。

―― ―― これに対してマルクスは近代社会(すなわち資本主義社会)が、人間の社会の歴史的発展の一段階(すなわち、特殊的なもの)に過ぎないことをハッキリと認識しており、人間社会の全体を通じての経済の一般法則を研究するに先立って、先ず資本主義社会の経済的運動法則と言う特殊法則を明らかにしなければならないことを明瞭に認識していたのでした。
だからこそ彼は、『資本論』第一版の序文で、この著書の目的について語るに当たって「近代社会の......」と書くことが出来たのであり、又、資本主義社会の経済法則を永遠の自然形態などと見るのではなく、一つの特殊的なものとして、別の特殊的なものによって取って代わられるべき、歴史的に変化するものとして捉えることが出来たのです。

―― ―― 「普遍的なもの」と「特殊的なもの」と言うカテゴリーを経済学の研究に当たって意識的に使うことが出来るかできないかによって、具体的には上述のような違いが出てくるのです(マルクスが『資本論』でこれらのカテゴリーをどのように使いこなしているかについては、このほかに、例え ば、マルクス以前の経済学者が利潤・地代・利子という特殊的・具体的形態だけを取りあげていたのに対して、マルクスはまず剰余価値という一般的形態を第一巻で取りあげ、第三巻ではじめてこの剰余価値がどのようにして利潤・地代・利子という特殊的形態をとるかを解明することによって、資本主義的生産関係にお ける搾取の根源を深く暴き出した、等々の模範的な実例が多くあるのですが、経済学の領域に踏み込みすぎた話になるので、これ以上は触れないでおきます)。

さて、前回までに述べる機会がなかったので、ここで簡単に補っておきます。前回までに述べた「現象と本質」、「必然性と偶然性」、「現実性と可能性」の諸カテゴリーも、さきに述べたのと同じ意味で、存在のカテゴリーでもあれば認識のカテゴリーでもあるのです。
私はそれを前回までは主として存在のカテゴリーとして述べたのですが、これらのカテゴリーも、客観的実在を反映することによってこれらのカテゴリーがどのようなものであるかを認識したのちには、認識のカテゴリーとして意識的に使用することが大切です。

例えば、交通事故や公害という現象が非常に多いことを知って、その本質はなにか、と自ら問いかつ探究するのは、現象と本質というカテゴリーを認識のカテゴリーとして使用する一例です。
また、「帝国主義が存在する限り戦争の必然性がある」と言い放つだけでなく、必然性は必ずなんらかの偶然性を媒介としてのみ発現するものであることを正しく認識して、それぞれの時点において戦争の必然性を発現させるような偶然性はなんであるかを具体的に探究し、そのような偶然性を生ぜしめないように平和運動を盛りあげることは、必然性と偶然性というカテゴリーを平和運動の方針決定とその実践にあたって認識のカテゴリーとして活用することにほかなりません。

更にまた「現在の日本には民主連合政府を実現する実在的可能性がある」という認識は、現状分析に現実性、形式的可能性、実在的可能性などのカテゴリーを意識的に適用したことの結果です。
―― ―― これらのカテゴリーを認識のカテゴリーとして使用して有効であることの根拠は、これらのカテゴリーが同時にまた存在のカテゴリーでもあることにありま す。だから、これらのカテゴリーを認識のカテゴリーとして正しく使用できる為には、それらをまず存在のカテゴリーとして正確に理解しなければなりませ ん。

4、抽象的普遍と具体的普遍

さきに取りあげた「机 ―― 家具 ―― 物体」という実例についてもう一度考えてみましょう。机は、ただ家具であるだけでなく、その上で本をよん だり字を書いたりする家具です。ただ「家具」とだけ言えば、机や椅子や戸棚に共通の性質(規定)が残るだけで、「その上で本をよんだり字を書いたりする」 という机に特有の性質(規定)は含まれなくなってしまいます。
更に、ただ「物体」とだけいえば、家具にも乗物にも岩石にも共通の性質(規定)だけが残り、家具とか岩石とかに特有の性質(規定)は含まれなくなってしまいます。

一般的にいって、個別的なものから特殊的なものへ、更に普遍的なものへと進むにつれて、その含む性質(規定)は少なくなり、概念は普遍的であればあるほど抽象的になります。逆にいえば、個別的なものには、普遍的なものには含まれていない具体的な規定がたくさん含まれているのです。
このことをレーニンは次のようにいい表わしました。「あらゆる普遍的なものは、個別的なものの (一部分あるいは一側面あるいは本質)である。あらゆる普遍的なものは、全ての個別的な事物をただ近似的に包括するだけである。あらゆる個別的なものは、完全には普遍的なもののうちに入らない」(『哲学ノート』、前と同じページ)。

このことを簡単に「普遍的なものは抽象的である」と言い表し、このような普遍を「抽象的普遍」といいます。
普遍的なものを理解することは重要です。普遍的法則を知って初めて、われわれは広い見通しを持つことができ、また事物や現象の本質を理解することができるのです。
そのことは、さきに例にあげたように、マルクスが剰余価値という一般形態を明らかにしたことがどんなに大きな意義を持ったかを考えてみるだけでも分かるでしょう。

―― ―― しかし、抽象的普遍を知っただけではまだ十分では有りません。利潤・地代・利子という具体的・特殊的形態を知り、それらがすべて剰余価値の変形したもの、剰余価値が現実に存在する存在の仕方であることを知って初めて、この問題についての認識は完全になります。利潤・地代・利子という 特殊的なものの知識によって裏付けされ、豊かにされた、剰余価値という普遍的なもの、これを「具体的普遍」といいます。われわれは、抽象的普遍を認識することから具体的普遍を認識することへと進まなければなりません。

別の例をあげましょう。われわれはいまカテゴリーについて学習しています。私は九月号でカテゴリーについて述べはじめるに当たって、まずカテゴリーとはなにかを説明しました。ここを読むことによって、読者の皆さんはカテゴリーについての普遍的(一般的)知識を持った筈です。だが、このことを知っただけでは、皆さんのカテゴリーについての理解はきわめて貧弱だったといわざるをえません。抽象的普遍としてのカテゴリーしか知らなかった訳で すから。
そののちわれわれは、「本質と現象」、「必然性と偶然性」、「現実性と可能性」、「普遍・特殊・個別」というような幾つかの個別的なカテゴリーについて 学んできました。こうした個別的なカテゴリーの理解に裏づけられて、皆さんは具体的普遍としてのカテゴリーの理解に近づきつつあるのです。

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