No-12 国家はどのようにして生まれたか

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

(今月の学習のポイント)

前回に述べた階級と同じように、国家もまた、人間社会の発展の一定の段階上で歴史的に生まれたものであることを学びとることが第一のポイントです。
このことを具体的に理解する為に、エンゲルスが「最も古典的な形態」と呼んでいるアテナイ(=アテネ)を例にして、ギリシャ人の社会の、奴隷制は成立したが未だ国家が無かった時代の状態と、その後にどのようにして国家が生まれたかと言うことについて述べます。
更にこのような国家の成立の具体的な理解を通して、国家とはそもそも何であるかを理解することが、今月の学習の第二のポイントです。それは国家の本質を捉えることである、と言えます。

1、国家が生まれる以前の社会

前回は、階級はどのようにして生まれたか、と言うことについて述べました。今回は、国家はどのようにして生まれたか、について述べましょう。

国家がどのようにして生まれたか、と言うことを明らかにする為には、それに先だって、国家とはなにか、と言うことをハッキリさせておくことが必要だと思われるかも知れません。
何であるかがハッキリしないものについて、それがいつ、どのようにして生まれたかを語ることはできない訳ですから。
―― ―― しかし、国家について語るに当たっては、このやり方は不適当であるように思われます。と言うのは、「国家の問題は、最も複雑、困難で、恐らくはブルジョア学者、著作家、哲学者たちによって最も混乱させられている問題の一つ」(レーニン『国家について』)だからです。
史的唯物論は、後に述べるように、国家に極めて明確な規定を与えます。けれども、いきなりその規定から述べ始めると、なぜそのような規定をするのかと言うことが良く理解できなくて、何か一面的な、偏った規定を押しつけられたと言うような、間違った印象を与える恐れが有ります。ブルジョア学者たちが作り出した混乱した規定が多くの人々にとっての先入見となっている為に、それとは違った、マルクス主義の科学的な規定を読むと、逆にそれが奇妙なものに思われると言う恐れが有るのです。

私たちは一般に、人間の社会について、いま現に自分たちの周りに見いだされる状態がいつの時代にもあった、と考えやすい傾向を持っています。例えば、今私たちは、共同生活の最小の単位として、家族を作って生きています。そしてこのことから、人間は、猿から人間へと進化した時以来、家族を作って生活してきたと不用意に考えてしまい、「原始共産主義社会(原始共同体)」と言ってもそれも幾つもの家族が集まって構成されていた、と考えやすい訳です。
このような先入見を打ち破ったのが、前回に述べたモルガンの『古代社会』であり、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』でした。

これらの著書で詳しく述べられている原始社会における婚姻の形態については、この講座では紹介するページ数が有りません。只、金石併用時代になると農業経営の仕方に変化が起こって、「共同体全体の共同労働は.........日常的な農作業には不必要になり、家族(数世代を含む大家族)が日常的農業労働の単位になって来た」と前回に述べたことを少し補って、このように日常的労働の単位になると言う条件が出来た時に初めて、原始共同体の中に家族と言う社会集団が形成されたのであって、人間社会のそもそもの始めから家族が有った訳ではない、と言うことを指摘しておきます。

―― ―― これと同じことが、国家についても言えます。国家も、人間社会のそもそも初めから有ったのではありません。
国家の問題を正しく理解する為には、人間の共同生活が有り、従って人間の社会が存在したからには、同時にまた国家も存在した、と言う間違った先入見を捨てることが必要です。
そこで、階級が生まれてから後に、人間の社会にどのような根本的変化が起こったかを、歴史的事実について正確に捉え、この根本的な変化によって何がどう変わったかを明らかにし、そのことを通して国家とは何であるかをハッキリさせることが必要になります。このように歴史的に捉えて初めて、史的唯物論が与えている国家の規定が科学的に正しいものだと言うことが納得できると思うのです。
だからまず、国家が生まれる以前の社会がどのようなものであり、そこにどのような変化が起こったか、と言うことから見て行くことにします。

さて、エンゲルスは先にあげた著書の中で、ギリシャ人、ローマ人、ドイツ人と言う三つの実例について、「氏族制度」と呼ばれる、国家が生まれる前の社会制度が解体されて、どのようにして国家が生まれたかについて述べていますが、更に、これら三つの場合の中で「最も純粋な、最も古典的な形態を示しているのは、アテナイである(第九章)と言っています。ですからここでは、ギリシャ人の社会に先ず目を向けることにしましょう。

ギリシャ人は、世界的に有名な文学作品『イリアス』と『オデュッセイア』と言う叙事詩を残しました。これらはホメロスと言う詩人が作ったものだと伝承されていますが、実際には一人の詩人の作品ではなく、かなり長い時期にわたって何人もの人々によって語り継がれ、書き加えられてきたものです。
そしてこれらの文学作品の中には、それらが作られた時代よりももっと古い時代の社会状態が反映されているので、我々は国家が生まれる前のギリシャ人の社会について知る良い手がかりをこれらの作品の中に見出すのです。

―― ―― 『イリアス』は、トロヤ戦争を題材にした叙事詩ですが、この戦争が行われた時代のギリシャ人が、城壁で固めた都市に住んでいて、牧畜と農業を営んでいたばかりでなく、そこには既に手工業の端緒が見られ、捕虜を奴隷にすることが公認の制度になっていたこと、けれども又氏族制度が未だその自主性を完全に保っていたことが認められます。
氏族とは、血縁で結ばれた人間の集団で有って、同じ氏族に属する人々は共通の祖先から出たと(本当にそうであったかどうかは怪しいけれども)彼ら自身が信じていました。そして、いくつかの氏族が集まって「フラトリア」と呼ばれる社会集団を作り、更にいくつかのフラトリアが集まって「種族」と呼ばれる社会集団を作っていました。
トロヤ戦争では、アガメムノンと言う総大将がギリシャ人の大軍を率いていると言う話の筋になっているのですが、重要なことは、この軍隊がどのような組織になっていたのか、また、アガメムノンの地位と役割は何であったか、と言うことです。

アガメムノンは、ギリシャ語で「バシレウス」と呼ばれており、このことばが英語では「キング」、ドイツ語では「ケーニッヒ」などと「王」を意味する言葉で現代語訳されている為に、当時のギリシャ人が既に王国を(したがって国家を)なしており、アガメムノンはその君主として軍隊を指揮していた、と言う誤解が生まれています。
しかし『イリアス』では、ネストルと言う人物がアガメムノンに忠告して、軍隊を種族ごとに、フラトリアごとに並べよ、と言ったと歌われており、このことは、アガメムノンの率いる軍隊が種族と言う社会単位が戦場での戦闘組織としても結束の強さのゆえに重視されたことを示しています。
又ギリシャ人の間に争いが起こった時に、オデュッセウスと言う人物が「多数の指令は宜しくない、司令官は一人であれ」と主張したことが歌われていますが、このことは、アガメムノンの統率力が未だそれ程強いものでなかったこと、しかも戦場と言う条件のもとで団結を乱さない為には一人の司令官の命令に従う必要が有ると主張されたことを示しています。
つまり「バシレウス」は戦時における「軍隊指揮者」であって戦争での必要上、種族連合の軍隊の全体を統率しているけれども、平時における王では無かったことが分かるのです。

バシレウスの地位が以上に述べたようなものであるとすれば、当時のギリシャ人の社会には平時において幾つもの種族を包括する政治的統一は未だ無かった、と言うことになります。
『イリアス』を通して見られるギリシャ人の社会は、奴隷制と父権・子による財産相続が確立されており、分業と交換経済が始まっており、家族間の富の差が広がりつつあるけれども、しかし血縁による社会組織である氏族制度が未だ生きた力を持っていて、種族員である成年男子は全て戦士であり、必要な時には人民自身が武装するのであって、人民に対立させられた武装力なるものは未だ存在しなかった社会なのです。
戦場でこそ一人の司令官の命令に従う必要が有ったけれども、平時においては全ての人民(奴隷を除く)が発言権を持っており、特定の人間たちへの権力の集中は未だ無かった ―― ―― そのような原生的な民主主義の行われていた社会なのです。
けれどもこの社会において既に、その後の時代に氏族制度を崩壊させて言った要因、すなわち分業と交換経済、貧富の差の増大が始まりつつあることに注目しておくべきでしょう。

    

 

2、国家の成立

ギリシャ人の社会ではその後、分業と交換経済が、従って又貨幣経済が、著しく発展してゆき、商業が独立しました。このような発展の基礎に生産力の発展が有ることは言うまでも有りません。
そして貨幣経済は、同一の氏族に属する人々の間の貧富の差を急激に増大させてゆきました。貧しくなった人々の土地は借金の抵当に入れられ、やがて債権者の所有物になり、こうして一方に大土地所有者が現れます。
そして他方には、土地を失い、ついには自分自身の身体まで借金のかたに取られて奴隷化される人々が生じました。前回に述べた第二の種類の奴隷、すなわち債務奴隷が現れたのです。
こうして今や、同じ氏族・種族に属する人々を奴隷にすることが行われるようになり、全人口の中で奴隷が占める割合はだんだんと大きくなって行きました。そして又このことは、氏族員・種族員を対立する階級へと分裂させ、氏族制度は形骸化し、わずかに、同一の祖先(と信じられたもの)を祭る宗教的団体として余命を持つに至りました。
では、こうした氏族制度が崩壊して言った時に、それに代わって現れたのは何だったのでしょうか。

紀元前6世紀のギリシャが多数のポリス(都市国家)から成り立っていたことは明らかです。ポリスと言うのは、その代表的な一つであるアテナイを例にとって言えば、城壁に囲まれた都市(アテナイ)とそれを取り巻く農業地域(アッティカ地方と呼ばれる)からなる、比較的小さな国家です。
アテナイに関しては、テセウスの建国と言う伝説が有ります。テセウスに帰せられている建国の事業と言うのは、第一に、一つの中央行政府である評議会を設けて、各種族がそれまで自主的に管理してきたことがらの一部を共同のものであると宣言してこれに移したこと。
第二に、全人民を氏族・フラトリア・種族の違いに関わらずに三つの階級に分けたことです。三つの階級とは、貴族(エウパトリダイ)、耕作農民(ゲオモロイ)、手工業者(デミウルゴイ)の三つで有って、公職就任の権利が貴族だけに有る、と言うことの他には、階級間に権利の区別は無かった、と言います。

テセウスは伝説上の人物に過ぎないにしても、ホメロスの叙事詩を通して見られるような社会状態にあった時代から紀元前6世紀迄の間のある時期に、テセウスと言う人物の事業とされているような変化が実際に生じたと言うことは疑問の余地が有りません。
その第一は、幾つもの種族をも包み込む政治的統一の確立であり、その第二は、この確立された政治的統一の実権を貴族が握ったと言うことです。
―― ―― ここに貴族と言われているのは何でしょうか。それは前述のように貨幣経済の発展によってますます大きな土地と多くの奴隷を所有するに至った地主であり、後に、富裕な商人と、やはり多数の奴隷を所有して手工業を行わせている奴隷主(経営者)がこれに加わります。

これら三つの階級への分化と貴族の支配権の確立が、かなり長い歴史的過程を経て行われたと言うことは、言うまでも有りません。テセウスの伝説のごときは、貴族の支配権が事実上確立されたのちに、それを権威づける為に後から作られたものに違い有りません。
しかしここで重要なことは、経済力によって実質的に確立していた奴隷主貴族の階級的支配を「公共性」と言う性格付けを持つ中央行政府へと集中し、しかも「公職」と性格づけられる中央行政府での役職を貴族が独占することによって、その階級的支配を維持する必要が有ったと言うことです。何故このような必要が有ったのでしょうか。言うまでも無く、階級闘争が激化したからです。

氏族制度のもとでは、氏族の長老のその他の氏族員に対する権威・尊敬・権力が慣習によって維持されていました。しかし、同じ氏族に属する人々を奴隷化すると言うことが行われるようになれば、このような慣習は維持できなくなり、尊敬は憎悪に代わり、権威に代わって対立・闘争が現れます。
少数の奴隷主貴族に対して、既に奴隷化された者も、奴隷化される危険にさらされているものも、等しく憎しみを持って闘争するようになり、こうした多数者の反撃をもはやこ個々の奴隷主が孤立していたのでは支えきれなくなるのです。
奴隷主貴族は自己の利益を守る為に武装力を必要とします。だがこの武装力は、ホメロスの叙事詩を通して見られた社会におけるそれのように、種族の成年男子の全員が必要に応じて武装することによって成立する武装力では有り得ません。
共同体の外にばかりでなく、共同体の内部にも向けられる武装力は、一部の人間、すなわち支配階級の利益に奉仕する武装力でなければならず、人民大衆から分離した武装力でなければならず、人民大衆から分離した武装力でなければならないのです

けれどもこのような武装勢力を少数の支配階級だけで維持してゆくことは困難でも有れば厄介でも有ります。ここに何らかの「公共性」を名目に掲げて、武装力の維持を他の階級にまで分担させる必要が生じます。
アテナイの場合には、このような見せかけの「公共性」としては他のポリスを敵としてこれへの対抗の必要を上げることもできたでしょうし、奴隷の反乱を理由にして貴族と耕作農民や手工業者との間になお残存した自由民としての利益の共通性を上げることもできたでしょう。国家は常に、一方ではこのような見せかけの「公共性」を謳い文句にしています。
むき出しの階級対立だけでは、少数の支配階級にとって敵が多くなりすぎて、彼らの階級的支配を維持するのに厄介だからです。だがしかし、武装力の指揮権を中心として、国家機関の中枢は確実に支配階級が握れるようになっており、実質的には支配階級が自己の支配を維持してゆく為の道具、これが国家に他ならないのです。

以上私は、エンゲルスが「最も古典的な形態」と呼んでいるアテナイを例としてどのようにしてギリシャ人の国家が生まれたかを見てきました。
このように歴史的にみることによって、なぜ史的唯物論が国家を、階級対立の激化によって生み出されたものであり、「一階級の他階級に対する支配を維持する為の機関」(レーニン『国家について』)である、と規定するのか、と言うことが分かって貰えたと思います。
名目上の公共性によってではなく、国家をその実質に即して捉えることが大切なのです。エンゲルスは前記の著書の最後の章で次のように述べています。

「国家は決して外部から社会に押し付けられた権力では無い。.........それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決し得ない矛盾に巻き込まれ、自分では払いのける力の無い、和解し得ない諸対立に分裂したことの告白である。
ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害を持つ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会を滅ぼさない為には、外見上社会の上に立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』の枠の中に保つべき権力が必要となった。そして社会から生まれながら社会の上に立ち、社会に対しますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」

さて、国家の本質には変わりが無くても、出来上がった国家の形態や、いつそれが生まれたかについては、地域によって色々違っています。古代東方(オリエント・アジア)の国々では、氏属共同体が解体されず、土地の私有が確立されず、土地の共同体的所有が残されたままで、土地と人民がともに古代国家の王によって支配されると言う形態の国家が生まれました。
これは大河のほとりの灌漑農業では、多くの人間の共同労働が必要であったので、征服者である国王も共同体を壊してしまうことが出来ず、人民は共同体に所属しながら国王(専制君主)の支配下におかれ、多くの租税や労役の提供を強制されて実質的に奴隷化されたし、土地は国王を最高所有者とする国有でありながら同時に共同体の所有でも有ることになったのです。

我が国での国家の成立については、考古学上の資料と中国の歴史書を主な拠り所にして研究されています。前回に述べた登呂遺跡や唐子遺跡には、未だ支配者的な性格を持つ人間がいたと言う痕跡が有りませんが、福岡県の須玖遺跡になると、共同墓地の中に副葬品の多い特別の墓が有り、共同体の中に特殊な地位を占める人間がいたことを示しています。
『魏志倭人伝』に出ている有名な邪馬台国(三世紀)は、未だ世襲王政の確立していない種族連合国家であったと考えられますが、四世紀には仁徳天皇陵と呼ばれているあの大古墳を作るだけの大量の労働力の提供を強制することのできる奴隷制国家が成立したのでした。
なお日本の古代国家には、奴(ぬ)と呼ばれる男の奴隷、婢(ひ)と呼ばれる女の奴隷の他に、
部民(べのたみ)と呼ばれる人民が存在しましたが、これは氏族共同体が解体されないままで隷属させられたもので、集団として奴隷主に所有されており、実質的には奴隷であったと考えられています。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://y-ok.com/mt-tb.cgi/84

コメントする

ウェブページ