No-11 階級はどのようにして生まれたか

〔今月の学習ポイント〕

私たちは、資本家と労働者という二大階級が存在する、資本主義社会という階級社会に生きていますが、そもそもこのような階級社会というものがどのようにして生まれたのか、と言うことを学習するのが、今月の学習の重点です。
その為に先ず、階級が生まれる以前の社会、すなわち原始共産主義社会がどのような社会であったか、について述べます。それは生産力の発展水準が非常に低い社会でしたが、その中で生産力が徐々に向上して来たことによって、奴隷が生まれる可能性が生じ、ついに奴隷制が形成されたのです。
だが、歴史的に形成されたものは又、歴史的に滅びます。そのことについては次回以後に述べます。

    

 

1、階級が生まれる以前の社会

私はこの講座で、歴史を階級闘争の歴史として捉えることを、史的唯物論の中心思想として述べてきました。だがその場合に、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いた1847-48年には未だ原始共産主義社会(「原始共同体」ともいわれる)が存在したことが分かっていなかったので、『宣言』では「全てこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」と述べられたのですが、その後に原始共産主義社会が存在したことが疑う余地の無い事実として明らかにされたので、後にエンゲルスは「これまでの全ての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった」(『空想から科学へ』)と書くようになった、ということを指摘しておきました(この講座の第二回目)。そこで当然、ここで「原始状態」と言われているのがどのような社会形態であったのか、又この階級の無い社会からどのようにして階級が生まれてきたのか、という問題が出てきます。今回はこの問題を取り上げることにします。

土地の共有(共同体による所有)が行われており、支配者と被支配者との分裂がない原始共産主義的農業制度が存在したということを、古代ゲルマン民族についてのさまざまな史料から最初に立証したのは、マウラーの著書『マルク、農場、村落及び都市制度、並びに公権力史諸論』(1851-53)でした。その後色々な史料に基づいてロシア、インド、ペルーのインカ帝国などでも同じような原始共産主義的農業制度が有ったことが証明されましたが、特にこの問題について画期的な意義を持ったのは、1877年に出版されたモルガンの著書『古代社会、別名、野蛮から未開を経て文明に至る人類進歩の路線の研究』でした。

マルクスはモルガンのこの著書に注目して、それからの抜粋と批判的な評注を書き残しましたが、しかしモルガンの研究の諸成果を唯物論的な歴史研究の結果と結び付けて叙述するというその目的を果たすことが出来ずに死去しました。それでエンゲルスは、いわばマルクスの遺言の執行とも言うべき仕事として、マルクスの残した評注を最大限に利用しながら、『家族、私有財産及び国家の起源  ――  ルイス・H・モルガンの研究に付帯して  ――  』(1884年)を書いたのです。
エンゲルスのこの著書は、マルクスと彼自身とによって仕上げられていた史的唯物論の理論に則り、その方法においてモルガンの業績を批判的に使いこなして、人類の原始社会の発生・発展・没落の全過程についての一貫した理論的解明を与えたものです。

モルガンの研究は、アメリカ・インディアンの社会構造と生活についての研究を中心とするものであり、エンゲルスの著書はその他に更に古代のギリシャとローマ、ケルト人とドイツなどについて述べていますが、その後の研究者たちによって世界の各地での古代社会が研究されており、今日のわれわれは、中国やわが日本の古代社会についてもかなり豊かな知識を持つことが出来るようになっています。
そして、人類はおよそ100万年から150万年位前と考えられるその誕生以来(※ 管理人注 現在人類の誕生は600-700万年前に遡ると判明しています)、いかなる例外もなしに、今日までの長い期間の99パーセント以上の年月を無階級の社会体制の中でおくってきたのであり、人類が階級対立のある社会に生きるようになったのは、一番古く階級社会が成立したエジプトなどを基準にしても、せいぜい5000年位前からのことに過ぎない、ということが明らかになっているのです。

では、無階級であった原始共産主義社会とは、どのような状態の社会だったのでしょうか。

猿は集団生活をしている動物です。人類が、そもそものはじめから集団生活をしていたであろうということは、人類が猿から進化したということから言っても、当然に予想されることですが、更に、ようやく二本足で歩き、幼稚な労働用具を使って生産活動を行うようになったばかりの人類は、集団労働をすることなしには生きてゆけなかったということから言っても、集団を作って、つまり何らかの社会を形成しているということは、原始的人類にとって必要欠くべからざることでした。
だがしかし、その集団はそれほど大きなものではなく、10数人ないしは数10人程度の群れで有ったでしょう。あまり大きな群れになれば、相互間の連絡がそれだけ複雑になり、集団労働をうまくやってゆくことが難しくなるので、大きな社会を作ることは原始人にとっては不可能だったと考えられます。

この講座の第八回に生産力の発展について述べたことがここにも当てはまります。すなわち、生産的労働を続けている間に、労働用具が改善され、又、それを使う人間の熟練度が向上してくるのです。ただし、原始人の場合に、こうした発展のテンポは非常にゆっくりしたものであったに違いありません。それは人類の生物学的特徴の変化にも関係していました。
具体的に言えば、下肢がより発達して、前こごみにではなく直立歩行できるようになること、手が一層細かい仕事が出来るように、つまり器用になること、そしてそれらのことに伴って、中枢神経系、取り分け大脳が発達したことなどです。こうした生物学的特徴の発展が非常に長い時間を必要とするものであることは言うまでも有りません。
だがここで重要なことは、人類は既に労働するようになっており、労働を通じて自分自身の身体をも発展させたということです。だからそれは既に、他の動物が環境の変化に適応して進化するということとは、違った次元に有った訳です。

こうして生産力が発展してくる過程で、集団労働の仕方が変化してきます。
先ず発生したのは、男は主として狩猟や漁業に携わり、女は主として野生の植物の種子や食べられる葉・根などを採集するとか、若い者は遠くにまで出かけてゆくが、老人や子供は住居地の近くで仕事するというような、性別と年齢別による「自然的分業」でした。この発展段階では、道具が幼稚であったので、狩猟や漁業の収穫物はまだ少なく、女が営む採集が重要な役割を果たしており、性別による分業が生じたと言っても、女性の社会的地位は男性と変わりありませんでした。
このことは、猿の集団の中にオスのボス猿がいることとか、オットセイなどでは一匹のオスが多数のメスを従えていわゆる「ハーレム」を作るというような、動物にみられるオスの支配という現象とは違っていて、人間の社会では既に生産活動が規定的要因になっており、生産における役割によって社会的地位が決まるという(生物学的法則ではない)社会的法則が働いていることを意味します。

労働用具は主として石器(木製の道具や、動物の骨で作った骨器もあった)でしたが、これは石を叩いて作った打製石器(旧石器)と、摩擦して磨いて作った磨製石器(新石器)とに分けられており、これによって旧石器時代と新石器時代というように時代区分がされます。更に、両者の過渡期を中石器時代と言います。
新石器時代には土器も用いられており、わが国の縄文式土器はこの新石器時代のものです。わが国には旧石器はない(つまり、新石器時代になってから人間がよそからやってきて日本列島に住むようになった)というのが長い間学会の定説でしたが、専門の学者でない考古学の研究者によって旧石器が発見されて以来この「定説」が破られ、その後続々と旧石器が発見されて、日本にも旧石器時代に人類が住んでいたことが今では否定しがたい事実になっていることは、多くの読者が既に知っておられることと思います。

農耕と牧畜がいつから始まったかということは、地域差も有ることで、難しい問題ですが、原始的な農耕はかなり古くから行われたと考えられます。中国は、人口の大部分を占める漢民族のほかに、五十の少数民族を持つと言われますが、その一つに阿昌族(アーチャン族)が有ります。この民族は、人口が約一万八千人で、雲南省の山奥に住んでいて、長い間全く孤立して生活してきており、解放後に発見された時には、未だ原始共産主義社会の段階にあったということです。
その生産活動は、山の斜面に火をつけて焼き払い、その後の灰の溜まっている地上に、木の棒を差し込んで穴を開け、その穴の中に栽培植物の種子を入れ、その上から土を被せておく、というだけの簡単なものでした。労働用具としては木の棒だけしか持たなかったのです。
私は北京で民族文化宮(民族博物館)を訪れた時その労働用具としての木の棒を見ましたが、細いステッキのような棒で、一方の端が丸く磨滅していることが認められること以外には、全くただの木の枝を折りとってきたものと区別のつかない物でした。
その時に聞いた説明では、このような農業は非常に生産性が低く、一年のうち約三ヶ月の食料が得られるだけであり、阿昌族は、残りの約九ヶ月分の食料は野生の物の採集によっていた、ということです。

阿昌族は、雲南省という比較的気温の高い、自然の産物に恵まれた土地で、広い地域に少数の人口で生活していたので、前述のような生産力の低い水準にありながら、二十世紀まで生き延びて来ることが出来たのだと思います。だからこれはかなり例外的な状態であり、この民族の場合で全ての原始共産主義社会のことを推し量るのは危険ですが、しかし前述のことは、始まったばかりの極めて原始的な農業の状態をおおよそ教えてくれるものだと思います。
そこには未だ土地を耕すことも灌漑用水を引くことも無く、したがって生産力は極めて低く、最終経済の補助という役割しか果たしていないのです。こうした生産力の低い状態がどんなに長く続いたことでしょう。そして、その生産力の低さが、原始共産主義という生産関係を規定していたのです。

原始共産主義的生産関係は、共同体構成員の全てのものが平等であり、貧富の差も貴賎の差も無く、全てのものが協力して共同作業に携わり、生産物は平等に分配されるという生産関係でした。だが注意しなければならないことは、この平等は乏しさから生まれた平等でした。若しも不平等な分配をすれば、少なく分配されたものは飢え死にするほかないという状態のもとでは、不平等な分配は不可能だったのです。
階級や身分の区別が無かった。全てのものが平等であった  ――  これらのことは、その限りでは、、よいことであったに違いありません。だが、乏しいがゆえに平等であった原始共産主義社会を、われわれは「古いよい時代」などとばら色に思い描くことは許されません。
われわれが目指している共産主義社会は、生産力の水準が非常に高く、豊かであるが故に平等な社会であって、原始共産主義社会とは全く違ったものであるということを強調する必要あると思います。

    

 

2、奴隷制社会への移行

原始共産主義社会においても生産力の水準は少しずつ上昇しました。しかしそれは極めてテンポの遅い発展であり、生産物の量は相変わらず少なかったのです。このような状態を抜け出して、生産力の飛躍的発展が始まったのは、灌漑農業が行われ大量の穀物を生産することが出来るようになった時であり、そしてそれが可能になったのは治水工事を行うことが出来るような金属製の労働用具が使われるようになったことでした。
尤も、金属(青銅、後に鉄)はその当時では未だ珍しい貴重なものであり、従って一度に全ての労働用具が金属器になるなどということは不可能であり、金属器が使われるようになったが石器も相変わらず使われているという金石併用時代がかなり長く続きます。金石併用時代になっても生産関係は暫くは原始共産制のままでした。しかし農業経営の仕方に変化が現れてきます。
金属製の鋤を家畜に引かせるというような農耕のやり方が出来るようになると、共同体全体の共同労働は灌漑施設の創出や改善・修理などの場合には必要ですが、日常的な農作業には不必要になり、家族(数世代を含む大家族)が日常的農業労働の単位になってきたのです。
土地は相変わらず共同体の共有ですが、それを区切って、家族ごとの耕地として割り当て、しかも土地の肥沃の差による不平等を避ける為に、定期的に耕地の割り替えが行われるようになりました。このようなことが行われたということは、世界各地の遺跡の発掘によって証明されており、このような段階に達した共同体を「農村共同体」又は「村落共同体」と言います。わが国では、静岡県の登呂遺跡、奈良県の唐古遺跡がこのような村落共同体の状態を示しています。
田が畦で区切られていることが、大家族による割り替え工作が行われたことを推定させるのです。わが国のこのような水田農業は、中国大陸から朝鮮半島を経て移入されたものと考えられており、弥生式土器が結びついているという特徴があります。

世界的に見れば、ナイル河、チグリス=ユーフラテス河、黄河等の大河の流域で、大規模な治水工事を含む灌漑農業がおこなわれるようになったのは、登呂遺跡などよりはずっと古い時代であり、そしてこれは、原始共産主義社会の崩壊、奴隷制社会への移行と結びついていました。  ――  灌漑農業がおこなわれるようになって生産力の水準が上がってくると、もはや以前のように共同体の全員が平等に働いてやっと生きてゆけるのではなく、全員が働けばなにがしかの余剰生産物が残るという状態が生まれます。
一足飛びにそうなる訳ではありませんが計算を簡単にする為の例として、仮に一人が一年働けば1.2人が生きて行ける生産物が得られるようになったとすると、5人が働けば6人が生きて行けることになります。そうすると、6人のうちの一人は働かなくても生きて行けるという可能性が生まれます。こうした可能性が、奴隷を持つということへの欲望を生み出したのです。

奴隷制の発生には私有財産の発生が結びついています。前述のように村落共同体の中で余剰生産物が生じるようになると、はじめは飢饉の年に備えるなどの目的でこの余剰生産物は共同体の所有物として管理されましたが、次第に、以前は共同体から選ばれて灌漑施設の為の共同作業を指揮したり、耕地の割り替えを立案したり、などの共同体の共同事務に当たっていたに過ぎない共同体の族長などが、共同体の共有財産を横領するなどのことを行い、私有財産を持ち、このことによって共同体内での特別の人間になり、その家族が特別の家族になり、こうして共同体内に「門閥」とでも言うべき特殊な階層が生じるようになったのです。
このようなことが起こって平等の原則が崩れると、耕地の割り替えも行われなくなり、土地も又私有財産化して行く傾向が生まれることは避けられません。こうして共産主義的共同体は崩壊して行くのです。

誰が奴隷になったか、ということには二種類があります。その一つは、捕虜が奴隷化されました。
原始共産制のもとでも、生産に有利な条件を持つ土地を取り合うなどの理由で、共同体相互間に武力衝突が起こりました。だが生産力の低かった時代には、捕虜は殺してしまうか、さもなければ自分たちの共同体の一員に加えて全く平等に扱ってやるかの、どちらかでした。前述のように、不平等な分配を行うことは、生きてゆけない状態におくことであり、殺すことに等しかったからです。
ところが条件が変わって、捕虜をこき使って働かせれば、その人間一人が生きるのに必要なものより以上を生産できるということになると、これを殺さないで奴隷とし、その余剰生産物を取り上げるということにうまみが生じたのです。

このような捕虜になって奴隷にされたものも、はじめは共同体の共有財産だったでしょうが、前述のように共同体内部に階層の分化が起こり、「門閥」家族が形成されている時代になると、奴隷も「門閥」家族の私有奴隷にされてしまいます。こうして彼らは奴隷所有者(奴隷主)という階級を形成するようになります。
奴隷の数も、最初は少数で、家内奴隷という形をとっていますが、だんだんと多数の奴隷を所有する奴隷主が出現してきます。こうなると、彼ら奴隷主は奴隷労働によってますます富みを蓄え、共同体内の他の人々を経済的に圧迫するようになります。
その結果、同じ共同体に属する人間が借金の為に苦しみ、ついには自分の身体を借金のかたに取られて奴隷にされる、ということが起こるようになりました。これが第二の種類の奴隷です。

奴隷主はますます多くの奴隷を持つようになり、奴隷労働が労働の主要な形態にさえなって行ったのです。こうして、奴隷制的生産関係が形成されてゆきました。
原始共産制社会が崩壊して奴隷制社会へと移行したのは、前に述べたように生産力の発展によるものですから、全ての地域で一様に奴隷制が生まれた訳ではありません。
奴隷制が形成された地域の周辺には、まだ生産力の発展が遅れていて、原始共産主義的共同体の状態に留まっている地域が多数残っていました。そこで、奴隷主たちは、この周辺の原始共同体社会に対して奴隷を獲得することを目的として戦争を行う、ということさえやります。
奴隷は過酷な労働を強いられるので、死ぬものも多かったのですが、その補充の為の集団として奴隷狩り戦争が行われたのです。奴隷主が現れたとしても、元の共同体の構成員が全て奴隷にされた訳ではなく、彼らは奴隷主貴族に対する平民として残存していましたが、しかし借金の為にいつ奴隷にされるか分からない不安定な地位におり、こうして奴隷主貴族と奴隷とが主要な二大階級を構成する奴隷制社会が、すなわち最初の階級社会が形成されたのです。

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