覚書- 明治維新を考える

2005年前後の投稿

上部構造の、土台への反作用としての明治維新

土台に対する上部構造の反作用と言うか、上部構造による土台の形成とも言うべき例を、明治維新の日本に見ることが出来ます。

日本の封建制の特質とそれを受け継いだ明治維新

徳川将軍を頂点とする幕藩体制は、ずっと以前から既に存在していた封建的生産関係を土台として、その上にそそり立っている上部構造でした。この上部構造が明治維新によって崩壊し、明治政府という新しい政治的上部構造にとって変わられた訳です。
では、この新しい上部構造がよって立つ経済的土台はなんだったのかと言うことですが、資本主義的生産関係だ、と簡単には言えない状況が当時の日本には有った訳です。

日本では信長、秀吉時代の、堺、徳川時代の江戸・大阪・京都の商人のように、商業資本は古くから相当の力を持っていましたが、産業資本の発展が弱く、明治維新の当時には未だ資本主義的生産関係は殆ど成立していない状況でした。
しかし他方、封建的生産関係の矛盾は極めて激化していました。

封建的土地所有者(将軍、大名)の力は農民一揆に揺さぶられていたし、経済的破綻によって大商人から莫大な借金をしている状況で、相対的に低下していました。
同時に、黒船に見られるように、外国からの「通商要求」に対して、武装集団としての無力もさらけ出してしまいました。
その反面、非支配層の自主性・自発性は高まっており、かっては厳しく押さえつけられていた「天下のご正道」に対する批判も公然化しており、しかも幕府はそれを押さえつけるだけの力は既に無く、世情は騒然としていました。

こう言う中で、薩長を中心とした勢力によって明治新政府が樹立される訳ですが、この政治的上部構造は、その成立の当初において、未だ自己のよって立つべき経済的土台を持っていませんでした。
その成立以後に、自らの力でその政治的土台、資本主義的生産関係を作り出して行かなければならなかったのです。
その過程での「女工哀史」であり、「ああ野麦峠」で有った訳です。

未だその上に立つべき土台が無いのに政治的上部構造が出来た、と言うのは「標準理論」としてはおかしいのですが、しかし上記のように封建的生産関係の矛盾が極度に高まっており、しかも資本主義的生産関係が未熟な状況で、これを形成することによって、この矛盾を解決すると言う道が、幕藩体制という古い上部構造によって妨げられていたと言う状況の下では、先ずこの古い政治的上部構造が取り除かれる必要が有り、そのことによって始めて資本主義的生産関係を形成する有利な条件が作り出されたのです。

このように、場合によって政治的上部構造の成立が土台の形成に先行することも有りうる訳です。
もっともこのことが当の新政府の指導部に認識されていた訳ではなく、ともかくこのままではやっていけない、と言う認識だけは有った訳で、いわゆる「御一新」の中身は、その進行の中で決定されて行くのです。
西郷隆盛などはその進行を見通せずついて行けなかった、いわば落伍者であった訳です。

明治維新における「市民革命」

明治維新は市民革命か

読者からの投稿

>明治維新は日本における市民革命で、これによって近代国民国家になったのです。
>そしてその後の諸改革で権力機構が確立し、土台(経済)が資本主義体制になり、「市民」が新たな支配階級になりました。
> 「尊王」の主張は、革命運動を威厳のあるものにする為の、単なるレトリックの役割に過ぎなかったし、天皇の役割もそれ以上の物ではない。

.........と言う書き込みがありました。

先ず第一にこの場合の「市民」とは、どう言う内容を言われているのか、と言う問題が有ります。
民主党などが、好んで「市民」とか「生活者」などの言葉を使いますが、どうもこの「市民」と言うのは曖昧なところがあって、社会科学を論じるときに困ることが有ります。
私の独断的な見解では、民主党が「市民」と言う場合、イメージ的には多くの勤労者の立場に沿ったポーズを前面に出しながら(票は、資本家も労働者も各人1票だから)、しかし資本家階級の利害をも代弁する必要が有っての幅広さ、いわば「確信的曖昧さ」じゃ無いかと思ったりしているところです。

※ 私のこの「独断的見解」は2009年8月の政権交代によって、図らずも露呈してしまいました。民主党は自民党に嫌気をさした多くの「市民」票を得て政権につきながら、その期待をことごとく裏切り、自民党と変わることのない資本家階級の利益代表の道を突き進んでいます。そして今では民主党から「市民」「生活者」の言葉を聞くことさえなくなっています。 ―― ―― 2011/5月現在

まっ、それは兎も角、一応社会科学的には、「市民階級」と言った場合、資本家階級を、「市民社会」と言った場合、資本家階級の支配が確立している社会、資本主義社会のことを指すようです。

上記で述べたように、維新の志士達、新政府の指導部がどこまで事態の本質と見通しを持って「世直し」に当たっていたか、それは多いに疑問です。「尊皇攘夷」にしても、特に哲学的な裏づけを持ってのことではなかったでしょう。
しかし、彼らの中で「尊王」が、革命運動を威厳のあるものにするための、単なるレトリックの役割に過ぎなかった、とする見方には疑問です。
それは成立した新政府の性格、権力構造を見たときハッキリすると思います。

イギリス革命、フランス革命と明治維新

一般的に、市民革命つまりブルジョア革命と言った場合、領主、封建地主の階級支配と封建的な仕組みを打ち倒し、資本主義の発展に道を開く革命を言います。イギリス革命、フランス革命などはこの典型と言われています。
イギリスでは立憲君主制への移行、フランスではルイ16世夫妻がギロチンに掛けられ、封建的な仕組みが一掃され資本主義的生産の発展の道を開きました。

一方明治維新で作られた新政府は、幕藩体制こそ解体しましたが、農村部には半封建的な地主と小作関係が広範に残され、その基盤の上に絶対主義的天皇制が形成されました。
天皇は、明治憲法の規定で「万世一系」の「神聖ニシテ犯スヘカラ」ざる存在であり、絶対的な主権者として「統治権ヲ総攬シ」「臣民」を統治する立場でした。
大元帥として軍隊の指揮権を持ち、内閣も官吏も、司法も天皇にのみ責任を負う制度でした。
天皇自身、広大な土地を所有する地主でも有りました。

議会は貴族院と衆議院とが有りましたが、貴族院議員は皇族、華族、多額納税者の代表、及び天皇による任命者のみ。衆議院議員にしても、選挙権は一定額以上の税金を納めている25歳以上の男子のみでした。

ですから「尊王」が、実質的な中身の無い単なるレトリックに過ぎなかったと見るのは、現実にそぐわないと思います。
仮に、思惑としてそうで有ったにしても、結果的に出来上がったものは、これ以上に無いような絶対的な権力機構でした。

明治維新で確立された体制は、この絶対的な天皇制を柱に、旧来の封建領主(お殿様)に代わって各地に勃興して来た地主階級、そして新政府の全面的な後押しのもと、新たに形成されてきた資本家階級・財閥、この3本柱による、人民抑圧・支配、そして外に向かっての侵略的体制だったと言って良いと思います。
「市民革命」で本来実現されるべき、「法の下での平等」とはほど遠い状況です。

ですから「『市民』が新たな支配階級になりました」と簡単に言えない状況だった訳です。「市民」を資本家階級と理解しても無理が有るし、まして「一般市民」として理解してならなおさらのことです。
上記で述べたように、明治維新は先ず上部構造を確立してから、よって立つ下部構造を作り出す、と言う形になりましたし、革命の性格から言って、市民革命(ブルジョア革命)としても非常に中途半端なというか、いびつなものだったのです。

この辺のいびつさは、皮肉にも第二次世界大戦の敗北で、天皇制の存続、戦犯政治など不徹底さを残しながらも、アメリカの占領政策の中でほぼ終焉を迎えます。
その後のアメリカの実質的な占領の継続、戦犯政治を引きずった政治の後進性、経済の面での民主的ルールの欠如などの克服は、今度は今の日本の課題になっています。

欧米と日本の市民革命-1

>「市民=ブルジョア=都市に住む金融、商工業者の上層階層→町民とすべきだった」

との説がありました。

語源的には確かにそう言うことが有るかも知れません。しかし言葉もやはり歴史的な産物です。
上記で、「どうもこの「市民」と言うのは曖昧なところがあって、社会科学を論じるときに困ることが有ります。」と書きました。
これは全く私の個人的な意見ですが、私は次のように考えます。

「市民革命」「市民社会」との言い方をした場合、確かに「ブルジョア革命」「資本家階級が支配を確立している社会」を差します。
これは特に、フランス革命の前夜、18世紀のフランス啓蒙思想家たちが、封建制社会の不平等・不公正を厳しく批判し、自由・平等な個人の合理的結合を目指した社会の実現を提唱し、この社会を「市民社会」と呼んだあたりに、その起源が有るように思います。
つまりこの場合の「市民」は当時の王侯・貴族など、総じて封建的大土地所有者に対抗する勢力としての概念であった訳で、当時としては「市民」の中に、新興ブルジョアジーも農民も、職人も一般都市住民も含まれて居たでしょう。
ですからブルジョアジー(資本家階級)を含んでもなお、「市民」と言う言葉は革新的な階級構成を反映していたし、フランス革命を「市民革命」と呼んでも違和感は有りません。

勿論この手の革命の常として、常に妥協、後退、裏切り、反革命が付きまといます。
フランス革命も、一般大衆(農民・労働者)の「パンよこせ」が、革命推進の原動力で有ったにしても、指導したのは資本家階級であり、打ち立てられた権力も又資本家階級の利益を代表した権力であった訳で、その過程で資本家側は労働者階級の台等を抑えるため、革命の徹底的遂行を押しとどめ、反革命へ舵を切ります(王党派との妥協、テルミドール反動など)。ですからフランスでも完全な民主化が徹底されなかった点について、有る意味では当然と言えます。
しかし、フランス革命のスローガンが「パンよこせ」であったり、バスチーユ監獄を襲撃して革命の火蓋を切ったのが、パリの一般民衆であったこと。そして何より革命側の理論的支柱が、先に書いたようにフランス啓蒙思想家たちの「市民社会」で有ったことは記憶に留めておいて良いでしょう。

では日本の明治維新はどうだったのでしょう。
農民一揆や都市部での打ち壊しが、封建体制を揺さぶってその基礎を弱体化させていたことは事実です。
しかし、「世直し」のスローガンに、農民や町人の切実な叫びが反映されていたとは思いません。反対にそのエネルギーを抑える意味も有っての「尊王譲位」で有った訳で、実際に樹立された権力構造も「市民社会」からは程遠いものだった訳です。
又、維新の実際の戦闘部隊も、薩長など、開明的雄藩の下級武士であって、一般大衆が表面に出ることは有りませんでした。

「絶対君主制、絶対王政」と言うのは社会科学のカテゴリーで、封建制から資本主義への過度期に現れる、神格化された中央集権的専制国家です。
封建制の末期、農民の反乱や資本主義の台頭で、個々の封建領主の封建的支配基盤が不安定になり、無制限の権力、強大な官僚機構を持った中央権力が必要とされた訳です。
対外的な侵略・防御の必要性と言う要因も有ったでしょう。
イギリスのチューダー、スチュアート王朝、フランスのブルボン王朝、ロシアのツァーリズムもそうです。

イギリス革命、フランス革命はまさにこの絶対王政を倒したり、その権力を大幅に制限したものでした。
しかし日本の明治維新は、逆に絶対的天皇制を打ち立てました。この点から言っても、フランス革命と違って「市民革命」とは呼べない性格がある、と私は思うのですが、どうでしょうか。

欧米と日本の市民革命-2

次に、上記でも少し触れた明治新政府の「絶対性」について、もう少し詳しく吟味してみましょう。

封建的土地所有

維新で領土的土地所有は廃止され、私的な土地所有を確認します。
そして地代の100分の3を金納するとの「地租改正」を行います。これはその後若干の引き下げを行いましたが、従来の年貢に劣らぬ高額なものであったことと、金納による農村の商品経済への引き込みにより、地租を払えない農民の土地が一部の自作農に集中し、全国に何千町歩と言う大地主を生み出すことになります(酒田の本間家 ―― 「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」、新潟の渡辺家、など)。
土地を手放した農民とその家族は、小作と賃労働、或いは遊郭の娼妓、そして兵隊の供給源となりました。

地主は小作に対し、従来の封建貢租に劣らぬ重い現物地代を課し、国家に支払う地租との差額を収奪する根拠を得、同時に大地主の多くは中央政府の議員や、地方での支配者として、明治政府の権力の一翼としての地位を確定しました。

最初にも書きましたが、明治新政府は樹立したときには、そのよって立つ経済的な基盤を持っていなかったため、その本源的財政の根拠を農村に求めた訳です。
小作農民は過酷な年貢で新政府の財政を支え、その財政で建てられた紡績工場で、低賃金無権利な労働により資本主義の育成に貢献し、かつ兵隊として国の守り(侵略体制)を支えた訳です。

農村での半封建的寄生地主制は「農村で寄生地主制があろうとも、」と、簡単に片付けられる程の、枝葉の問題では決して無く、明治新政府を支える片方の権力、片方の底辺であった、と理解しています。
この制度下の小作農民を祖父母に持つ私としては、権力の方は分かりませんが、底辺部分の事情は実感として理解できるところです。

絶対的天皇制

次に明治新政府における天皇の権力の問題です。 上記でも多少述べていますので、補足という意味で書いてみます。
先ず明治憲法は欽定憲法です。つまり天皇自身が自由に発布できる憲法です。貴族院もシステムは同じです。つまり構造上絶対的なアンタッチャブルなんですね。

仮に新政府を準備した志士達が、単にスローガンとしての「尊王」を掲げていたとしても、樹立された新政府で天皇を「お飾り」として利用しようとしていたとしても(私はこの論は無理が有ると思っていますが)、実際に出来上がったものは、絶対に「傀儡」などと呼べるものでは有りません。
勿論、天皇を利用して地主階級も資本家階級も、そして官僚も利益を最大化し、箔付けにしたでしょう。しかし天皇制は、それだけに留まらず、それ自身全てに超越した絶対的な権力機構となったのです。その材料は幾らでも挙げられます。

明治新政府は、天皇制を最大の権力として、地主階級、そして政府の庇護の下次第に力をつけてきた産業資本家、この3本柱の権力構造だった、と私は見ています。

占領軍による「民主化」

若し、この明治維新を「市民革命」が貫かれたものだったとしたら、ではあの占領軍による「民主化」は何だったのでしょうか。
占領軍の民主化は、その名の通り、決して社会主義化では有りません。あくまでも民主化です。
それまでの明治憲法下の体制と、占領軍の「民主化」には物凄いギャップが有りました。そこに、無条件降伏したにもかかわらず、それまでの支配勢力の抵抗が有った訳ですが、そのギャップこそが、それまでの体制が如何に民主主義とかけ離れた体制、「市民社会」とは程遠い体制で有ったことの何よりの証ではなかったでしょうか。

アメリカでも、イギリスでも、フランスでも勿論民主主義と言う点で不十分さが有ります。
特に私はアメリカの、開拓以来の歴史に於ける「自分勝手」に多いに憤っています。
原住民であるインディアン(この呼称もおかしいですね)を追い出し殺し、アフリカからの黒人を奴隷として使い、今なお差別し、そして今、自分達の快適の為には京都議定書を反故にし、自分だけの安全の為に他国を侵略し、世界中に核配備をする。
イラクとイスラエルに対する「ダブルスタンダード」等など。

しかし同時にアメリカの、独立宣言に見られるような民主主義をも評価しています。ただ最近これも怪しくなっていますね、特に自分たちだけの「民主主義」を振りかざして、気に入らない国に武力で干渉するなど、ここでも又ダブルスタンダードが眼につきます。
だから全てそうですが、物事を一面的に抽象的に見ないことだと、いつも自分に言い聞かせています。

現在日本の民主化の課題

占領軍の「民主化」は不徹底であり、同時にその後のソ連の台頭など国際情勢の変化に伴い、アメリカは日本の占領政策を大幅に変更してゆきます。
今、その残滓が日本の政治、社会、経済に大きな陰となって覆っています。

A級戦犯が解放され、その何人かは保守政党の議員として大臣まで勤めることとなりました。その延長としての、総理大臣の靖国参拝でしょう。
ナチスとの関係をキッパリ清算し、その戦時中の行為を人道に対する犯罪として、関係した人物を時効なしに追及してきたドイツと比較して、大きな違いです。

経済的にも世界と比較して、極端な資本優遇・労働者の無権利・中小企業抑圧体制です。
何より沖縄を始めとする全国に設置された米軍基地、政治・経済・軍事全てにわたるアメリカの支配体制。

これらの民族的問題、民主主義的問題の解決が現在日本の当面の課題になっています。
つまりアメリカ支配のくびきから脱却し真の独立を獲得し、政治経済に民主主義を徹底する「民族・民主主義革命」が、「社会主義革命」に先立って必要とされるのです。

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