No-27 カテゴリー総論
※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。
この講座の第21回から前回まで6回に渡って、「本質と現象」、「必然性と偶然性」、「現実性と可能性」、「普遍・特殊・個別」、「具体的なものと抽象的なもの」、「歴史的なものと論理的なもの」という6組のカテゴリーについて述べてきました。
これらのカテゴリーについて学ぶ必要があるのは、複雑な構造を持っている客観的実在(自然と社会)を認識する為には、これらのカテゴリーを認識過程において使いこなす必要があるからです。
ところで、実際にわれわれが複雑な事柄を認識しようとする場合に、どこでどのカテゴリーを使えば良いかということがあらかじめ分かっている訳では有りません。それは、それぞれの場合に当面している問題の性質に応じて自分で考えて決めなければならないことであり、また、幾組ものカテゴ リーをあわせて用いなければならない場合が多いのですから、カテゴリーを自分で使いこなすことができる為には、各組のカテゴリーをバラバラに覚えているのではだめで、諸カテゴリーの相互関係を理解して、当面している問題の解決に必要なカテゴリーを、互いに関連づけながら使えるようになっていなければなりま せん。
今回はそのことを中心として述べ、あわせて、前回までに述べ残したこと是非必要なことを若干補っておきたいと思います。
1 真理は常に具体的である
第25回に、実在するものはすべて具体的であるということを述べましたが、いろいろなカテゴリーを使いこなすということは、要するに、具体的なものを具体的に認識する為にこそ要求されているのです。
その場合にどのような事柄に特に注意しなければならないかについて学ぶ為に、まずレーニンの『再び労働組合について、現在の情勢について、トロッキーとブハーリンの誤りについて』という論文から、長い引用をしようと思います。
ここでレーニンが論じているのは、プロレタリアートの執権(デイクタトウール)のもとでの労働組合の役割と任務はなにか、という問題についてですが、このような具体的な問題を具体的に認識できなかったトロッキーとプハーリンの誤りを批判しているところが、とりわけブハーリンの折衷主義を批判して、それと弁証法との違いについて述べているところが、いまのわれわれの問題について非常に大切なことを教えてくれるので、そこのところを引用しま す。
1920年12月30日におこなわれた討論で、ジノヴィエフが「労働組合は共産主義の学校である」といい、トロッキーは「これは行政的・技術的生産管理機関である」といったのですが、これに対してブハーリンは「この命題は二つながら正しく、これら両命題の結合が正しい」といいました。
そして「コップ」という簡単な例をひいて、コップは「ガラスの円筒である」という規定と、それは「飲む為の道具である」という規定との、一方だけが正しいと主張して争うことはバカげているという主張をしたのです。
このブハーリンの見解を批判して、レーニンは次のように書いています。
「読者がごらんのとおり、ブハーリンは、この例によって一面性の弊害を私に分かり易く説明しようとしたのである。私はこの説明をありがたく受けいれ、私の謝意を事実で証明する為に、弁証法と異なる折衷主義とはどういうものであるかを示す、 分かり易い説明で答えよう。
コップは、争う余地なく、ガラスの円筒でもあるし、飲むための道具でもある。しかし、コップは、これら二つの属性もしくは性質もしくは側面だけではなく、無限に多くの他の属性、性質、側面、それ以外の全世界との相互関係と『媒介』を持っている。
コップは重い物体であって、投げつける道具となりうる。コップは文鎮にもなるし、つかまえた蝶の入れ場所にもなる。
またコップは、飲む役にたつかどうか、ガラスで出来ているかどうか、形が円筒形か、それとも完全な円筒形をしていないか、には全く関係なく、美術彫刻や画をかいた品物として価値をもつことも有り得る、その他、等々。
更に、もし私がいま飲むための道具としてコップを必要とするなら、それが完全な円筒形であるかどうか、それが本当にガラス製であるかどうか、は私にとって全く重要ではない。そのかわり、底にひび割れがないこと、このコップを使うときに唇を傷つけたりしないこと、などが大切である。
ところが、もし私が飲むためでなく、どんなガラスの円筒でも問にあうような用途の為にコップを必要とするなら、底にひび割れのあるコップでも、或いは全く底のないものでも、私にとって一向に差し支えない、等々。
学校で教えるのは形式論理学に限られている。(訂正して言えば学校の低学年にはそれに限らなければならない)が、この形式論理学は、最も普通なもの、あるいは最も頻繁に目にうつるものを準拠として、形式的規定をとり、それに留まっている。
もし、この場合、二つないしそれ以上の異なった規定をとって、それらを(ガラスの円筒と飲むための道具とを)全く偶然に結合すると、対象のさまざまな側面を示すだけの折衷的な規定が得られる。弁証法的論理学はわれわれがもっと先へ進むことを要求する。
対象を本当に知る為には、その全ての側面、すペての連関と『媒介』を把握し、研究しなければならない。われわれは、決して、それを完全に達成することは無いであろうが、全面性という要求は、われわれに誤りや感覚喪失に陥らないよう用心させてくれる。 これが第一。
第二に、弁証法的論理学は、対象を、その発展、『自己運動』(ヘーゲルがしばしばいっているように)、変化において捉えることを要求する。 このことは、コップについては、すぐには明らかにならない。だが、コップとて、永久に不変ではない。
また、特にコップの用途、その周囲の世界との連関は変化する。 第三に、人間の実践全体は、真理の基準としても、対象と人間が必要とするものとの連関の実践的規定者としても、対象の完全な『規定』に入らなければならない。 第四に、弁証法的論理学は、故プレハーノフがヘーゲルに習って好んで言ったように、『抽象的真理はない、真理は常に具体的である』ことを教えている」(『レーニン全集』32巻大月書店版)。
このレーニンのことばの前半は、改めて解説する必要はないと思います。
ここでレーニンが折衷主義として批判しているのは、コップのように簡単なものでさえも「無限に多くの」性質、側面を持っているのに、たまたまその中からとりだされた二つまたはそれ以上の規定を「それも、これも」、「一方では、他方では」というやり方で偶然的に結びつけるやり方です。
これに対して弁証法は、全ての側面、全ての連関を全面的に研究することを要求する、というのです。
―― ―― このことは、第25回に私が述べたことと違っているように見えるかも知れません。
私はそこで「一つの石ころの持つあらゆる規定を完全に述べよ、などということはだれも要求もしなければ、期待もしません」と書いているからです。
だが私が言おうとしたことは、石ころのようなつまらないものについてでも、その持つ規定をすべて述べ尽くすことは不可能だということと、本質的な規定と非本質的な規定とを区別して「本質的な規定は一つも見逃さないことが必要だ」ということです。
レーニンも、全面性という要求を完全に達成することは不可能だと認めています。
しかし、誤りに陥らないようにする為には、全面性という要求を持つことが必要だといっています。その意味は、ある程度まで研究してもうこれで良いと 言って研究を打ち切ることによって、本質的な性質や側面のあるものを見落とすことがないように用心する為に、全面的に研究するという要求を常に自分に対する要求として持っておれ、ということであって、私が「本質的な規定は一つも見逃さないことが必要です」と書いたのと同じ趣旨のことをいっているの です。
レーニンが第二と第三にあげていることについてはあとで詳しく述べます。
最後に言っている「真理は常に具体的である」ということ、これが全体を締め括っていることばであって、この具体的な真理を掴むにはどうすればよいかが問題であり、その為にはまず第一に、前述のような意味で、全面性という要求を持て、と言っているのです。
2、発展において捉えること
レーニンが第二にあげている要件について考えましょう。
あらゆる客観的実在(自然も社会も)は発展している、自己運動をしている、ということは弁証法の最も基本的な主張です。
この主張を言葉のうえで承認することは易しいけれども、具体的な事物、現象、出来事を発展しているものとして認識することはそれほど易しくは有りません。
われわれが弁証法の基本法則やカテゴリーを学ぶのは、具体的なものを発展しているものとして認識する能力を身につける為だといえます。ここではカテゴリーに関連させてこのことを述べようと思います。
あらゆる客観的実在が発展しているといっても、あらゆるものが同じテンポで発展している訳ではないし、また、同一のものでも常に同じテンポで発展している訳では有りません。
自然も発展しつつあるということは、太陽系の生成の理論や生物進化論以来明らかにされてきたことですが、しかし自然の発展には非常に長い時間がかかるの で、自然科学ではかなり多くの問題が、いま現にわれわれの環境として存在している自然のなかで諸々の自然現象がどのような法則に従って生起しているか、という観点から研究されています。
例えば(化学を知らない人にはちょっと難しい例かもしれませんが)「化学平衡」とよばれる現象があります。
これは、AとBという二種類の化合物を混合すると、それらがCとDという2種類の化合物へと変化するという化学反応がおこる場合に、この反応が始まってしばらく続くと、AとBのどちらの一方も使い果たされてしまわないうちに反応が止まってしまう、という現象です。
なぜこういうことが起こるかというと、「CとDがAとBとに変化するという、逆の化学反応があって、AとBからCとDへという化学反応の速さと、CとDからAとBへの逆反応の速さとが丁度等しくなったときに反応が止まる」からです。
この「 」のなかに書いたことが「化学平衡」とよばれている現象の本質であって、この本質は不変であると考えられています。
また、化学平衡にかんしては、「平衡状態にある系の外部条件を変えると、その平衡状態は最初の条件を保とうとする方向に移動する」とい う「ル・シャテリエの法則」とよばれている法則が成立しますが、この法則も不変であって、必然性.普遍性とを持っていると考えられています。
このように、自然現象に関しては、本質が普遍であり、またその本質に関して成立する法則も普遍であって、必然性と普遍性とを持っていると考えられており、又そう考えて差し支えない場合が、かなり多くあります。
ところが社会にかんしては、その発展のテンポが自然よりもずっと速いので、発展の見地からでなければ社会を正しく認識することはできま せん。しかしこの場合にも、発展のテンポが常に同じではなく、社会の状態が相対的に安定している時期と、急激に変化・発展する時期とがあります。
より厳密にいうならば、同一の生産関係が維持されている限りの期間においては、その社会の経済構造の本質は不変です。
例えば、資本主義的生産関係が維持されている限りは、「剰余価値の形成」、「剰余価値の資本への転化」、「資本の蓄積」というような資本主義的経済横造の本質は不変であり、社会現象のうえにさまざまの変化が現われても、社会は本質的には発展していません。
また、第22回に例として、述べた「利潤率の傾向的低下の法則」は、資本主義的生産関係が維持されているかぎり、必然性と普遍性を持っています。
ところが社会主義革命が起こって生産関係が変化するならば、資本主義経済の本質であった「剰余価値の形成」等々は消滅するし、そもそも「利潤率」というような概念で捉えられる経済関係が成立しなくなり、「利潤率の傾向的低下の法則」も勿論成立しなくなります。
すなわら、この法則の持っていた必然性と普遍性は、資本主義的生産関係のもとでのみ必然性であり、普遍性である訳です。そしてこのように本質が変化し、幾つかの社会法則が変化する場合に、社会は真の意味で発展するのです。
従って、「利潤率の傾向的低下の法則」は、資本主義社会のもとでは普遍性を持つ法則ですが、社会の歴史全体の中では特殊的法則にすぎません。
これに反して、例えば「生産関係は生産力の性格に照応する」と言う法則は、生産関係が変わっても変化しない法則であり、社会の歴史全体において普遍性を持つ法則です。
このように社会を発展において捉える為には、社会法則の普遍性と特殊性に注目することが必要です。
更に、必然性と偶然性というカテゴリーが重要になります。
第22回に、必然性と偶然性とを対立物の統一として捉えるということに、(1)必然性は必ず偶然性を存在するということ、(2)必然性と 偶然性とは一定の条件のもとで相互に転化すること、という二つの意味があると述べながら、(2)については説明しませんでした。いまここでその説明を補っ ておきます。
例えば、ある種の生産物が商品として交換されるということは奴隷制社会や封建制社会のもとでも存在しましたが、しかしこの時代には商品生産はまだ生産全体のなかであまり大きな部分を占めておらず、直接に消費を目的とする生産が生産の主要な部分を占めていました。
奴隷制経済や封建制経済はその必然性として商品生産を生み出したのではなく、それは偶然性に過ぎませんでした。
商品生産は次第に発展してゆきましたが、封建制経済のもとでは商品生産の発展に限界があり、商品生産・商品交換が経済生活における主要なものになることを封建的生産関係がさまたげていました。
だが、資本主義的生産関係のもとでは、商品生産が資本主義的生産の主要なものになります。資本主義的生産関係のもとでは、生産が商品生産として行われることが必然性をもつのであり、資本主義社会のもとでも直接に消費を目的とする生産が部分的に残存しているとはいうものの、いまやそれは経済生活において偶然性としての意義しかもっていません。
すなわち、資本主義的生産関係の成立は、経済生活における必然性であったもの(消費を目的とする生産)を偶然性へと、偶然性であったもの(商品生産)を必然性へと転化させたのです。
このように必然性と偶然性とは一定の条件のもとで相互に転化しますが、社会に関してこの一定の条件とは、社会の本質的発展にかかわっている条件です。この意味で、社会を発展において捉える為には、必然性と偶然性との相互転化に注自する必要があります。
現実性と可能性というカテゴリーが、とりわけ実在的可能性というカテゴリーが、事物を発展において捉えるのに重要なカテゴリーであることについては、第23回に既に述べたところです。
―― ―― 事物を発展において捉える為には、以上に述べたような諸カテゴリーを使って、現象面における変化のなかから真の意味での発展(本質が変わるような発展)の契機をさぐりだすことが大切です。
3、実践の見地を対象の規定にいれること
レーニンが第三にあげている要件に移ります。実践が真理の基準であるということについては、この講座の第9回と第15回とで既に述べていますので、ここでは、人間の実践全体が「対象と人間が必要とするものとの連関の実践的規定者として」対象の完全な「規定」に入らなければならないというのはどういうことかを、戦争と平和の問題を実例として考えることにします。
帝国主義のもとでは戦争の必然性があります。それは、商品輸出のための市場としてばかりでなく、資本輸出をするための場所として植民地が要求され、帝国主義列強による植民地の争奪、再分割が行われるという、帝国主義の本質に根ざした戦争の原因があるからです。
このことは、第二次世界戦争後にかつての植民地が独立国になったことによっても、本質的には変化していません。帝国主義者はかつての植民地の多くに政治的独立を認めましたが、軍事的・経済的・文化的支配を強めており、経済的「援助」という美名にかくれて搾取者の地位を確立しているからです。
しかし他方、第二次世界戦争後には、一方に社会主義諸国が存在しているだけでなく、資本主義諸国のなかにも平和を擁護しようとする社会勢力が著しく強大になっており、世界的規模での平和運動が発展しています。
―― ―― さて、ここで考察をやめるならば、すなわち、一方には戦争の必然性があり、他方には平和擁護勢力の発展・強化がある、という指摘だけで終わるならば、これは「一方では、他方では」という折衷主義です。
いまの問題で、対象は世界情勢であり、人間が必要とするものは平和です。その連関の「実践的規定者」とは、なんのことでしょうか。
―― ―― 帝国主義のもとでは戦争の必然性がある、ということを客観的事実として認識することは必要ですが、必然性の存在を論証するだけに終わるならば、それは「客観主義」とよばれる誤りに陥ります。
社会主義革命の必然性があるという場合には、人間が必要とするもの(この場合には社会主義社会)との連関を、弁証法的唯物論者は自分自身が変革的実践の主体であるという見地から捉えて、プロレタリアートがこの革命の必然性に従ってその可能性を現実性へと転化させる階級であることを認識し、プロレタリアートを団結させ、その他の諸階級・諸階層をこれに同盟させるという任務をみずからに課するでしょう。
戦争の必然性にかんしては、この必然性に抗してその可能性が現実性へと転化することを妨げる社会的勢力がなんであるかを明らかにし、そのような勢力を強化するという任務をみずからに課するでしょう。
これがその連関の実践的規定者になるということであり、このような実践的規定者としての立場から対象を(いまの例では、世界情勢を)規定するのでなければ、対象を全面的に規定することはできない、というのがレーニンのいっていることです。
だが、ここで次のような疑問が出ると思います。
社会主義革命の場合には、必然性に従って実践するのだからよいが、戦争の必然性に抗して実践するのは無意味ではないか、という疑問が。
―― ―― ここでわれわれは、必然性というカテゴリーについて学んだことをもう一度思い出す必要があります。
(1)必然性は偶然性を媒介として発現するということ
(2)必然性と偶然性とは一定の条件のもとで相互に転化するということ。
まず(1)によって、戦争の必然性があるということは、常に戦争がおこるという意味ではなくて、なんらかの偶然性を媒介として、例えば朝鮮で、あるいはベトナムで戦争がおこるという意味です。
だから、この戦争の発火点となるような偶然性を、必然性に結びつけないようにすること、戦争の発火点となるような危機を速やかに解決して、戦争の勃発に導かないようにすること、これが平和擁護勢カが戦争を未然に防止する為にやるべきことです。
次に(2)によって、戦争の必然性を偶然性へと転化させる一定の条件とは、帝国主義をなくすことですから、世界各国における革命勢力を強めて、社会主義革命を世界的規模で実現し、帝国主義を地球上から一掃することが、究極的に平和を確立する道です。
この究極的解決の道があるのだから、そのときまで偶然性をコントロールすることによって戦争の必然性に抗して平和擁護の実践をすることは、無意味であるどころか、極めて有意義なことです。
だが更に疑問を出す人があるでしょう。
(1)によって平和を擁護しようとする勢力と(2)によって帝国主義を一掃しようとする勢力とは違うではないか、と。
確かに現状では、(1)の勢力はより大きく、(2)の勢力は(1)の勢力のなかの一部分に過ぎません。
しかしわれわれはこの関係をも、発展において、かつまた実践的規定者として捉えなければなりません。
平和を真に求める人は、戦争を一時的に阻止することよりも、それを、永久的に廃棄することを望むのが当然です。
平和擁護運動に熱心な人は、いまはまだそうではなくても、実践と学習とを通して社会主義革命を推進する勢力ヘと発展する可能性を持っています。
一人ひとりの人に、この可能性を現実性へと転化させることが決して容易でないさまざまな事情があるでしょうが、われわれは実践的規定者として、この可能性が存在することを認めるならば、それを現実性へ転化させるという任務を自己に課するべきです。
このような発展と実践的規定者としての見地からのみ、平和擁護勢力の全てが必ずしも革命勢力ではないという現状の矛盾に打開の道がみいだせるのです。
以上によって、極めて大すじだけですが、戦争と平和という具体的な問題を例にして、弁証法のカテゴリーを使うことによって、具体的な問題をどのように具体的に認識するかということを述べました。
今回をもって2年以上続いたこの講座を終わり、来月からは「入門講座 史的唯物論」を始めることにいたします。
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