No- 9 弁証法の基本法則

    

 

この講座も今回で九回目になりました。ここで、今までの八回に述べてきたことを簡単に振り返ってみましょう。

先ず、最初の四回に述べたことは、古典からの引用文とその解説と言う形式で書いた第四回目をも含めて、「弁証法的唯物論とはどんな哲学か」と言う問題についてでした。この問題についての答えは、階級的見地から言うならば、「弁証法的唯物論は労働者階級の哲学である」ということに尽きるのですが、それでは何故そうなのか、ということを明らかにする必要があった訳です。
私は第三回目の終わりに、それまで述べてきたことを要約して、次のように述べました。

  1. 労働者階級の立場に立ち、その歴史を変革する役割を認めること、
  2. 世界における人間の役割という世界観的問題を積極的・肯定的に解決すること、
  3. 歴史を唯物論的に理解すること(史的唯物論の成立)、
  4. 弁証法的な考え方に立って世界を一貫して唯物論的に捉えること(弁証法的唯物論の成立)

という四つのことは、どの一つが欠けても他の三つが成り立たなくなるような密接な関係で結ばれています、と。

ここで少し補って述べておくならば、歴史を変革するという労働者階級の役割を認めるということは、一方では、歴史が発展するものであること(弁証法的な歴史観)を認めることであり、他方では、労働者階級としての人間がその労働と階級闘争によって社会体制を変革する力を持つこと(唯物論的な歴史観)を認めることです。このことだけを取り上げてみても、弁証法と唯物論とを切り離すことが出来ないことが分かります。又歴史を唯物論的に捉えるということは、自然を唯物論的に捉えることを基礎としており、これと切り離すことはできません。
要するに、労働者階級の哲学としての弁証法的唯物論は、世界(自然と歴史)を一貫して弁証法的にかつ唯物論的に捉える世界観であり、このことによって労働者階級にその革命的実践の指針を与えるものなのです。

弁証法的唯物論は、このように一つの整然とまとまった哲学ですから、その中で唯物論と弁証法とを切り離すことはできません。唯物論について述べるに当たっても、われわれは、18世紀のフランス唯物論やフォイエルバッハのように形而上学的(又は機械論的)唯物論について述べるのではなく、弁証法的唯物論について述べているのだということに、常に留意していなければなりません。
全く同様に、弁証法について述べるに当たっても、ヘーゲルのような観念論的弁証法について述べるのではなく、唯物論的弁証法について述べるのだという注意が要る訳であります。

さて、この講座の第五-八回の4回では、以上のことに留意しながら、弁証法的唯物論について述べてきました。例えば、物質について述べるに当たっては、物質のさまざまな運動形態をただ並列するのではなく、低い運動形態から高い運動形態への発展という見地からこれを捉えましたし、意識について述べるに当たっては、その起源を解明し、又、動物的な意識から本当に人間的な意識への発展に注目しました。
カント流の不可知論を反駁するに当たっては、認識、取り分け科学の発展によってある時代には認識不可能であったものが、その後には認識可能なものになるということを論拠にしました。
このように、第五回-八回には、主として唯物論について述べたのですが、その叙述の中では常に弁証法的な観点を見失わないように努めてきました。その限りでは第五回-八回と同様、まず初めに講義をしてそのあとで読者と対話するという形式をとることにします。

1、理論と方法

スターリンが書いた「弁証法的唯物論と史的唯物論について」という本が有ります。これはかってソ連邦で絶対的権威とみなされていたもので、わが国でも、比較的短くて便利だということもあって、第二次世界大戦が終わったのち、いろいろの研究会やサークルでしばしばテキストに使われました。
この本の最初には次のように書いてあります。

「弁証法的唯物論は、マルクス=レーニン主義党の世界観である。それが弁証法的唯物論と呼ばれるのは、この世界観の、自然現象の取り扱い方、自然現象の研究方法、これらの現象の認識方法が、弁証法的であり、又この世界観による自然現象の解釈、自然現象の理解、その理論が、唯物論的だからである」

スターリンがここに示している見解は、要するに、弁証法は方法であり、唯物論は理論である、ということにあります。彼の見解の特徴は、理論と方法とを切り離し、それを唯物論と弁証法に振り分けていることにあります。  ――  だがこの見解は間違っています。何故でしょうか。

先ず「方法」とは何でしょうか。簡単に言えば、それは「やり方」のことです。「研究方法」と言えば「研究のやり方」のことであり、ある病気の「治療方法」と言えば、その病気を「治すやり方」のことです。
方法は確かに非常に大切なものです。研究方法が間違っていれば、その研究は成功しませんし、治療方法が間違っていれば、その病気は治りません。だから我々は、ある仕事をする場合には、予めその方法を知っていなければなりませんし、方法が分からなければ、仕事に取り掛かる前に先ずその方法を考えなければなりません。

しかし、その大切な方法というものは、どうしたら分かるのでしょうか。方法は、天から降ってくるものでも、地から湧くものでもありません。
多くの場合、今日のわれわれは、方法を先輩たちから学びます。それは、歴史的過去において、既に「こうすればこうなる」ということが分かっている場合であって、例えば化学の実験で、ある物質を分析するにはどうすればよいかということを、われわれは分析方法として教科書や先生から学ぶのです。
しかし、過去に遡って考えてみるに、「こうすればこうなる」ということが未だ分かっていなかったとき、そもそもの最初に人間はどうやって方法を見つけ出したのでしょうか。  ――  それは、一口で言えば、実践を通してでした。「初めに行いありき」なのです。

だが、実践を通して発見されるものは、何も方法だけではありません。理論だってそうです。
今日われわれは様々な事柄についての理論を持っています。自然科学や社会科学の理論から、スポーツや将棋などの遊びに至るまで、それぞれの理論が有ります。戦争にまで理論が有ります。
これらの理論もまた、多くの実践が積み重ねられてきた中で、その結果が整理・検討されて、比較的抽象的な形にまとめ上げられたものに他なりません。簡単な例を取れば、「テコの理論」と呼ばれるものが有ります。棒の途中にある点が支点によって支えられている場合に、棒の両端に力が加えられて、しかもこの二つの力が釣り合うのはどういう場合か、ということをこの理論は教えています。支点からの距離と力との積とが等しい場合に釣り合う、という簡単な法則が見出されるまでに、人類はどれほど多くの実践・実験を積み重ねたことでしょうか。それはもう今となっては知る由もないことですが、しかしこれが一度このような理論としてまとめ上げられれば、今度はそれを、重いものを動かす場合のテコの使い方として、つまりテコを使う方法として応用することは極めて容易なことです。
これは何もテコの理論に限った事ではありません。野球やゴルフの理論にしても、又労働組合の組織に関する理論にしても、これらの理論は過去に行われた多くの実践の積み重ねを整理・検討することいよって作り出されたのであり、そして一度理論としてまとめ上げられれば、それ以後の実践に当たっては方法として役立つのです。
方法が、そもそものもとを訪ねれば実践から出てくるものであるに違いないにしても、実践の積み重ねが吟味されて理論が生まれ、理論から方法が導き出される、というのが普通の順序であります。
このことを考えれば、スターリンが、弁証法を方法であり、唯物論を理論だと言っていることが誤りであることがお分かりになるでしょう。正しくは唯物論も弁証法も、理論でもあれば方法でもあるのです。

既に学んだ唯物論について考えてみましょう。物質とは人間の意識から独立して存在する客観的実在であること、認識とは物質が人間の意識内に反映したものであること、これが唯物論が(理論として)われわれに教えていることでした。
この理論からわれわれは、政策上で誤ることがない為には、社会の物質的生活の諸条件を正しく認識し、分析し、そこから社会的実践の方針(例えば革命の性格規定、戦略、戦術)を導き出さなければならないのであって、自分の願望、熱情、単なる予想から出発してはならない、ということを学ぶことが出来る筈です。このことはわれわれが唯物論を方法として使っていることを意味するのであり、若しもこのように唯物論的方法によって行動するのでなければ、われわれは主観主義の誤りを犯すことになります。
唯物論を理論として学んだならば、それを方法としても捉えなおすことが必要なのです。

同じことは弁証法についても言えます。物事を弁証法的に捉えること、弁証法的方法を身につけて認識・実践に当たることが極めて大切であることは言うまでもないのですが、しかしスターリンのように弁証法をただ方法としてのみ見て、この方法が弁証法の理論から出てくるものであることを見失うならば、これは大きな誤りです。だからわれわれは、はじめに、理論としての弁証法を明らかにすることに努めなければなりません。

    

 

唯物論も弁証法も、理論でもあれば方法でもあるということは、今の説明を聞いてみれば、至極尤もなことだと思います。それだのに、スターリンはどうしてそんな間違いをしたのですか。

スターリンの誤りは、根深いものであったように思われます。彼は1937年に書いた前記の『弁証法的唯物論と史的唯物論について』ばかりでなく、ずっと若いころ、1906年から07年にかけてグルジア語で書いた『無政府主義か社会主義か』の中でも、「何故この体系は弁証法的唯物論とよばれるのか? それはその方法が弁証法的であり、その理論が唯物論的だからである」と書いています。若い頃からの彼の一貫した見解だったと思われます。

ところで、何故彼がそういう見解を持ったのかという理由ですが、これについては彼自身の説明がどこにもないので推察で物を言う他ありません。おそらく、彼は弁証法的唯物論を出来上がったものとして学習するという態度をとっていたのであって、レーニンのように研究して発展させるという態度を持たなかったのだと思います。
だからスターリンは、弁証法的方法を出来上がったものとして受け入れたのであって、彼にはそれがどこから出てくるかという問題意識はなかったのでしょう。この点については、エンゲルスの「原理は研究の出発点ではなくて、それの最後の結論である。原理が自然と人間の歴史とに適用されるのではなくて、これらのものから原理が抽象されるのである。自然と人間界とが原理にのっとるのではなく、原理は、それが自然と歴史とに一致する限りでのみ、正しいのである。これが、この問題についてのただ一つの唯物論的な見解であって………」(『反デューリング論』) という言葉が非常に教訓的だと思います。
スターリンは、エンゲルスがここで「原理」といっているもののように「弁証法的方法」をみなし、エンゲルスとは逆に、自然と人間界とがこの「弁証法的方法」にのっとるものであるかのように扱っているのです。

2、全体的連関の科学としての弁証法

既に第三回目に述べておいたように、「世界とはそもそも何であるか」という世界観的な問いにどう答えるかによって、唯物論と観念論という対立する哲学上の二つの路線が生まれたように、「世界はどのようであるか」という世界観的な問いにどう答えるかによって、弁証法と形而上学との対立が生まれます。
弁証法はこの問いに「世界におけるすべての事物・現象は(人間自身の精神的活動をも含めて)、相互に連関しており(互いに複雑に結びつき合っており)、又世界は絶えず発展している」と答えます。
この答えは、自然、社会、及び人間自身の精神的活動についての、長い年月にわたる研究の結果始めて出てきたものです。先に引用したエンゲルスの表現を借りれば、「研究の出発点ではなくて、それの最後の結論」なのです。

実際に人類の歴史上で、いつでも上述のような弁証法的な考えがされていた訳ではありません。既に第四回の3でエンゲルスの『空想から科学へ』からのかなり長い引用を掲げて解説しておいたように、反対の考え方、すなわち形而上学的な考え方が行われていた時代もあったのです。
しかし、カント=ラプラスの星雲説によって、太陽系も最初から今のような状態にあったのではないことが主張されたり、ダーウィンの進化論によって生物の種も大昔から今のようなものが地球上に存在したのではなく、古い種から次々に新しい種へと進化したのだということが明らかにされたりしてきた結果、前述のような弁証法的な考え方の正しいことが分かってきたのです。

1894年にエンゲルスはこう書いています。「大量に積み重ねられてゆく純経験的な諸発見を整理する必要だけからしても、理論的自然科学が行わざるを得なくなっている革命は、最も強情な経験主義者にさえ、自然過程の弁証法的性格をますます意識させずにはおかないほどのものだからである」(『反デューリング論』第二版への序文)と。
19世紀の末にエンゲルスが述べたこのことは、20世紀になってからの自然科学のより一層の発展によって、今日では一層確実に主張できるようになっています。

さて、「世界はどのようであるか」という問いに対する前述の弁証法の答えの特徴は、「連関」と「発展」という二つの言葉で要約して示すことが出来ます。先ず「連関」について考えましょう。

これはそんなに難しいことではないでしょう。実際に、自然現象でも社会現象でも、それだけが切り離されていて、その他の事物や現象と全く結びつきがない、などという孤立したものを見つけようとしても、無駄骨折りをするだけですから。ことに経済現象を見れば、ベトナムの戦争がアメリカの経済ばかりでなく、日本を含めた世界各国の経済に深刻な影響を及ぼしていることや、交通料金の値上がりが他の物価にすぐ響いてくることなど、手に取るように分かります。
ただここで一言注意しておきたいことは、われわれが問題にしている諸事物、諸現象の連関(結びつき)というのは、頭の中で考え出した観念的・空想的なものではなく、人間の意識から独立した客観的な連関のことだ、ということです。雨乞いを下から雨が降った、と云った類のことを含めているのではないのです。これは唯物論者として当然のことであります。

現象と現象との結びつき(連関)を論じる場合に、最も頻繁に取り上げられるのは原因と結果との関係です。因果関係が客観的に存在するか、それともそれは習慣と言ったような主観的根拠しか持たないものか、という問題は、唯物論と観念論者との間で数百年も前から論争されてきた問題です。この問題についても、最後の審判者となり得るものは実践です。
例えば「摩擦は熱を生じる原因である」という主張は、実際に二つの物体をこすり合わせてみて、予想通りに熱が生じることを確かめればその正しいことが実践によって証明されます。だがそれは同時に、摩擦(原因)と熱(結果)との関係が客観的に存在することをも証明しているのです。このように実践(実験)を通して、多くの現象のあいだに客観的に存在している因果関係を明らかにしてきたことが、科学の発展をもたらしたのです。
だが又因果関係は、世界における複雑な普遍的連関という見地からみると、ある一面だけを切り離したものだ、という弱点を持っています。原因としての現象が同じでも、それを取り巻いている他の諸現象が異なれば同じ結果が生じるとは限りません。この場合に、原因とみなされている現象を取り巻く他の諸現象を「条件」と呼びます。又原因の作用(働き)を受ける側の、つまりそこに結果が生じる側の物体の内部にも、いろいろの条件の違いが有ります。
前者を外的要因、後者を内的条件と言って区別することもできます。例えば、同じ音楽であっても、それが野外で、喫茶店で、工場の作業場で演奏されるか、等々は外的条件の違いであり、聞く人が、専ら音楽を聞こうとしているか、友人との話に夢中になっているか、なにか別の心配ごとに悩んでいるか、等々は内的条件の違いです。同一の曲が同じ人にどんな印象(結果)を与えるかは、これらの諸条件の違いによって、さまざまに異なります。しかしこのことは、因果関係が成り立たないということを示しているのではなくて、音楽だけをこの場合に原因として切り離すことに問題がある訳です。
「世界における全ての事物・現象は相互に連関している」ということは、外的・内的な諸条件の複雑な結びつきの中で因果関係をも捉えなければならない、ということを示しているのです。因果関係は諸事物・諸現象の普遍的連関の中の一側面に過ぎないのです。
だからレーニンはこう言っています。
「原因と結果とは、だから、出来事の全世界的な相互依存関係の、(普遍的な)連関の、相互連結の、契機に過ぎないし、物質発展の連鎖の中の諸環に過ぎない」(『哲学ノート』)。

3、発展の一般法則に関する学としての弁証法

今度は皆さんにいきなり質問しましょう。
「世界はどのようであるか」という問いに対する弁証法の答えの中で、「連関」と並んでもう一つ重要なことは、「世界は絶えず発展している」ということでしたね。この「発展」ということばは今までに何度も使ってきたのだけれど、「では」と開き直って、「発展」とはどういうことだと思っていますか。一つ思っているままに言って下さい。

そう言われても困っちゃうな。つまり物が変化することで、それも悪いようにではなく良いようになることでしょう。猿が人間になるとか……これは進化論というから「進化」かな。「進化」も「発展」も ―― ―― どこか違うのかな。大体同じように考えてきたんだけど。いや、あんまり考えたことないな。「社会が発展する」とも言うが「社会が進歩する」とも言うでしょう。「発展」も「進歩」も同じじゃあないかな。それとも何か違うんですかねぇ。どちらも良くなることを言うんだと思っていますがねぇ。

「良くなる」とか「悪くなる」とか言うことは、見る人によって違うんじゃないですか。例えば最近のレジャー・ブームは日本の社会が良くなったのか、それとも悪くなったのか。難しく言えば「価値観」の問題ですよね。
自動車の台数が増えたこと、国民総所得が増えたこと、こう言ったことを全て日本の社会の進歩だと言っている人もいますね。ことに資本家はそう思っている。だがこれが日本の社会の発展だと言えるでしょうか。

同じことにも良い面と悪い面とが有りますね。
自動車が増えた結果、公害が増えた。これは悪くなった面だな。だから単純に進歩だと言いきれない。社会の発展と言えば、やはり、資本主義から社会主義になることだな。これが根本ですよ。
だがそれは同時に社会の進歩でもある訳ですよ。違いますか。

君は日本の社会が社会主義になることを望んでいる。だからそれを「進歩」だと考える訳ですよ。だが資本家はそれを望まない。だから、彼らにとってはそれは「進歩」ではない。「進歩」という言葉にはこう言う価値判断(よいか、悪いか)がくっついています。
だが「発展」という場合には、そういう主観的価値判断を入れないで、自然や社会や人間の認識(思考)の変化のある客観的な特徴をとらえているのです。それがどんな特徴かということは詳しく説明しなければなりません。それを説明しているのが、「弁証法の基本法則」と呼ばれている次の三つの法則です。

  • 対立物の統一の法則
  • 量的変化から質的変化への転嫁の法則
  • 否定の否定の法則

次回から、これらの法則を次々に学ぶことによって、発展とは何かを明らかにしてゆきましょう。

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