No-25 具体的なものと抽象的なもの

1、認識過程の弁証法

前回に「存在のカテゴリーと認識のカテゴリー」のところで述べたように、これまでこの講座の第二十一回から第二十四回までに述べてきた諸カテゴリー(本質と現象、必然性と偶然性、現実性と可能性、普遍・特殊・個別)は、存在のカテゴリーでもあれば、又同時に認識のカテゴリーでもある、という性格を持つものでした。一般的に言って、存在のカテゴリーは、必ず常に又認識のカテゴリーでもあります。その理由は、客観的実在の構造を示す存在のカテゴリーは、その構造が意識内に反映される(つまり、認識される)ことによって、その後に新しく何らかの客観的実在を認識しようとする場合に、意識的に認識のカテゴリーとして用いられるようになるからです。その幾つかの具体例については、前回既に述べておきました。

ところが、このようなカテゴリーの他に、弁証法のカテゴリーの中には、存在のカテゴリーではなくて、専ら認識のカテゴリーであるようなものが有ります。例えば、この講座の第十六回に「認識の段階」として、感性的段階と理性的段階とが有ることを述べましたが、そしてその際には未だ説明してなかったので「カテゴリー」という言葉を使うことを避けましたが、そこに現れてくる「感性的なもの」と「理性的なもの」というのは、認識のカテゴリーであります。
客観的実在(すなわち、存在)の側に「本質」と「現象」というカテゴリーで表されるような構造が有る訳で、このような構造が有ることの結果として、われわれ人間が客観的実在を認識する場合に、表面に現れている現象はこれを感覚器官によって直接に反映することが出来るけれども、現象の背後に隠された内的な側面である本質を認識する為には、分析総合演繹帰納(これについては第十九回に説明しました)というような思考の手続きを必要とし、このようにして認識の側に「感性的なもの」と「理性的なもの」との区別が生じてくるのです。
今述べたように、「感性的なもの」と「理性的なもの」との区別が生まれる究極の根拠は、存在が複雑な構造を持っていいることに有るのですが、しかし「感性的なもの」と「理性的なもの」との区別は、そのような区別がそのまま存在の中に有るのではなく、われわれ人間が複雑な構造を持つ存在をパッと一度に反映することが出来ないという人間の認識過程の複雑さから生まれる区別なのです。
ですから、「感性的なもの」と「理性的なもの」というカテゴリーは、存在のカテゴリーではなくて、専ら認識のカテゴリーなのであります。

複雑な構造を持つ客観的実在を認識する為に認識が辿る道筋(過程)は、そこにもやはり「対立物の統一」、「量的変化から質的変化への転化」、「否定の否定」が現れてくる弁証法的な過程であります。
この認識過程の弁証法については、例えば第十九回に「光線」という概念を例にして、どのようにして「幾何光学」における光線の概念が「波動光学」における光線の概念へと作り変えられたかについて述べた場合とか、第二十回に「相対的真理」と「絶対的真理」との関係を述べた場合とかに、既に或る程度述べておきました(今挙げた「相対的真理」と「絶対的真理」というのも、存在のカテゴリーではなく、専ら認識にのみ関わるカテゴリーです)。しかしこれまでに述べただけでは不十分なので、今回と次回とに渡って、具体的なもの抽象的なもの歴史的なもの論理的なものという二組のカテゴリーを取り上げることによって、認識過程の弁証法についての理解をさらに深めることに努めたいと思います。

2、実在するものは全て具体的である

自然界に実在しているもの、例えば一つの石ころとか一本の樹木とかについて考えてみましょう。それは常に、安山岩とか砂岩とか言うような何らかの種類に属する石ころであり、又松とか杉とかいうような何らかの種類に属する樹木であり、更に又、何らかの形や大きさや色やその他の性質を持った石ころ又は樹木であります。
ただ「石ころである」というだけでそれ以外には何の性質も持たない石ころなどというものは一つも存在しません。樹木にせよ、山や川にせよ、犬や馬にせよ、同じことです。
一つの石ころについてその持っている特徴を全部余すことなく述べよ、などと要求されたら、われわれは困ってしまいます。500字や1000字ではとても述べ尽くすことのできない多くの特徴を一つの石ころが持っているからです。

社会現象になればなおさらのことです。ある日ある場所で起こった交通事故についてその全てを述べ尽くすことが出来る人は、その目撃者であったとしても、先ず無いでしょう。まして、あるストライキとか、ある革命とかについて全てを述べ尽くすなどということは、考えてみただけで気の遠くなるようなことです。

ある事物や現象について、「これこれである」と述べることを、その事物や現象を規定すると言います。例えば「それは石ころである」、「それは安山岩である」、「それはゆがんだ卵形をしており、一つの側面にとがった角が有る」等々は、それぞれ一つの規定です。
一つの物体についてその特徴を述べるということは、このようにその物体を次々に規定して行くことです。だが先に述べたように、一つの石ころであってもその特徴の全てを述べることは難しいというのは、このように幾つかの規定を積み重ねていっても、それで規定し尽くすことは難しいからです。
石ころのような、比較的単純だと思われる物体でも、非常に多くの規定を持っているので、その全てを挙げ尽くすことは難しい訳です。まして革命とか戦争とか言うような社会的な出来事は、はるかに多くの規定を持っており、その全てを述べることによって一つの革命、一つの戦争を規定し尽くすということは、およそ不可能なことであります。

ある事物、ある現象が、このように非常に多くの規定を持っていることを、それらは具体的であると言います。「具体的」とは多くの規定を持つということなのです。
他人がある事柄について話をしているときに、もっと具体的に話して下さい、と言うのは、話題になっている事柄について、もっと多くの規定を述べて下さい、と言うことに他なりません。例えば、ある自動車が前に走っている車を追い越そうとして交通事故を起こした、と言うだけではその話は具体的でないのであって、その時その道路を他の車がどんなスピードで走っていたとか、対向車が有ったかどうかとか、車と車の間隔は何メートル位あったとか、その他さまざまの規定が述べられて初めてその話は具体的になるのです。  ――  以上述べたことから分かるように、自然においても社会においても、客観的に実在しているもの(事物・現象)は全て具体的であります。
そして、この客観的に実在しているものについての人間の認識は、又その認識を言葉で述べる場合の話は、必ずしも常に具体的ではありません。いやそればかりでなく、若しもこの具体的であるということが完全性を求められるならば、認識や話が完全に具体的であるということはそもそも不可能なのであります。

3、抽象的なものと抽象化

具体的なものが非常に多数の規定を持っているのに対して、一つ又は少数の規定だけを持っているものを抽象的なものと言います。先に述べたように客観的に実在しているものは全て具体的なものです。だから、抽象的なものは、自然物や社会現象が実在すると言われるのと同じ意味では、実在していません。
しかしだからと言って、抽象的なものは全く仮定のものかと言えば、決してそうではありません。抽象的なものは、それだけで独立して実在してはいませんけれども、実在的なもののある側面(少し難しい言葉で言えば「契機」、「モメント」)として実在しているのです。このことを例を挙げて説明しましょう。

例えば、「数」は抽象的なものであります。「3」とか「5」とか言うような数は、それだけが独立に実在してはいません。実在しているのは、3人の人間とか、3匹の犬とか、5本の指とか、5軒の家とか、などです。
これらの実在している具体的なものから、3人の人間と3匹の犬に共通の規定として「3」という数を、5本の指と5軒の家とに共通の規定として「5」という数を取り出すのは、人間の思考の働きであり、このような思考の働きを「抽象作用」と言います。数は、そして一般にあらゆる抽象的なものは、人間の「抽象作用」によって作り出されたものなのです。

今「作り出された」と言いましたが、その意味を誤解しないように理解して欲しいので、更に説明を付け加えます。  ――  確かに、人間の「抽象作用」が働かなければ、数は、又一般に抽象的なものは、存在しません。その限りでは、確かに「作り出された」のだと言えます。しかし「抽象作用」は何でも勝手に作り出せる訳ではありません。
「作り出す」というと、思いのままに、好き勝手なものを作り出すことが出来るように思う人が有るかも知れませんが、「抽象作用」の働きは決してそのようなものではないので、この点を誤解しないで欲しいのです。
抽象作用によって作り出されたものが、決して人間の気まま勝手になるものではない、ということの例として、もう一度「数」について考えてみましょう。

「5」という数を「3」と「2」とに分けることが出来ます。しかし「3」という数を「5」と「2」とに分けることはできません。何故でしょうか。  ――  あまり分かり切ったことを言うな、と言って怒らないで、まあ一緒に考えてみて下さい。
その理由は、5は3よりも大きいので、5の中には3が部分として含まれており、5からその部分である3を取り去れば、その残りは2であるからです。この関係をわれわれは、
3+2=5 又は 5-3=2
と書き表します。だが小学校の一年生が知っているこの簡単な事柄も、抽象作用の働きによって成り立っているのです。実際に、5人の人は、3人と2人に分けることが出来ますし、5軒の家は3軒と2軒とに分けることが出来ます。その他、山でも川でも、石でも木でも、豆でも鉛筆でも、どんなものについてでも、5個の物を3個と2個とに分けることが出来ます。これは実在的なもの同士のあいだで成り立っている関係です。
実在的なものののあいだにこう言う関係が有るからこそ、われわれは、その実在的なものが人であるか家であるか豆であるか等々にかかわりなく、どんな物のあいだにも成り立つ関係として、「5は3と2とに分けられる」又は「3と2を加えれば5になる」と言うことが出来るのです。「5」、「3」、「2」という数は、前に述べたように抽象作用が作り出したものです。しかしそれらの数のあいだには、
3+2=5
という関係は成り立つが、
5+2=3
という関係はk成り立ちません。これらの数も、数と数との間の関係も、実在的なもののある側面、実在的なもの同士のあいだのある関係を抽象した(取り出した)ものであって、抽象作用は気まま勝手になんでも作り出せる訳ではないので、数と数との間には、必ず成り立つ関係も有れば、成り立たない関係も有るのです。

抽象作用は更に高度の働きをします。例えば、われわれは、
3+2=2+3,  2/7+1/12=1/12+2/7,  √2+√5=√5+√2,  π+50=50+π, ………
等の関係が成り立つことを知っています。「どんな数でもよい二つの数を加える場合に、その二つの数の順序を変えても結果は変わらない」、という訳です。そのことが分かれば、どんな数でもよい二つの数をaとbとで表して、「」の中に書いたことを、
a+b=b+a
と書くことが出来ます。これを「加法(足し算)の交換法則」と言いますが、このような法則を考える場合には、三人の人、三匹の犬、三本の鉛筆などから「三」という数を抽象した場合よりも、一層高度の抽象作用が働いているのです。
前の場合には、具体的な事物からその一つの側面である「数」という規定を抽象したのですが、今度の場合には、具体的な数の足し算から、「数を足す順序を変えてもよい」、という関係を抽象したのですから、抽象作用が一層高度に働いているのです。

更に又「乗法(掛け算)の交換法則」が成り立つことも分かります。つまり、
axb=bxa
という寒けが成り立ちます。そうすると、
a+b=b+a と axb=bxa
から、足し算であるとか掛け算であるとか言うことにかかわりなく、二つの数にある演算を行う場合に、数の順序を変えてもよい演算が有る、ということが分かります。そのような演算を、「交換法則を満たす演算」と呼んで、@という記号で表すことにすれば、
a@b=b@a 
と書き表すことが出来ます。
この場合には、足し算とか掛け算とか言うことを無視して、「交換法則を満たす演算」という規定だけを抽象したのですから、更に一層高度の抽象作用を働かせた訳です。

(この最後の抽象の例は分かりにくいかも知れませんが、ベクトルにベクトルを掛ける掛け算で「ベクトル乗積」と呼ばれている演算は、交換法則を満たしません。このような演算もあるので、演算を「交換法則を満たす演算」と「交換法則を満たさない演算」とに区別することは、数学では重要な意味を持ちます。だから最後に例として挙げたような抽象も、数学を高度に発展させる為には重要な抽象なのであります)。

以上の例をみると、抽象作用が高度に働けば働くほど、実在的なものから遠く離れてゆくような気がするでしょう。確かにその通りなのですが、大事なことは、しかしだからと言って実在的なものと無関係になるのではない、ということです。
抽象作用は先ず実在的なものから出発するのであって、その上に何度も抽象を積み重ねていっても、決して実在的なものから無関係になるのではなく、実在的なもののあいだに成り立っている何らかの関係を表しているということには変わりありません。高度に抽象的なものは、実在的なものの高度に普遍的な関係を表しているのです。

以上に述べたことは、科学的な、正しい意味での抽象的なものについてでありました。世間では一般に、空想的なものや妄想的なものまで含めて「抽象的なもの」と呼んでいることが有りますが、これは正当な言葉遣いではありません。それらの物を「抽象的なもの」と区別して考えることが必要です。例えば「世界の終わりの時」(キリスト教で言う最後の審判が行われる時)などというのは、「空想的なもの」というべきであって、「抽象的なもの」というべきではないのです。

4、具体的なものと抽象的なものとの弁証法

「具体的なもの」と「抽象的なもの」というカテゴリーを比較対照させて使う場合には、われわれはそれらを専ら認識のカテゴリーとして使います。という訳は、「抽象的なもの」は抽象作用によって作り出されたものであり、したがって認識過程で現れてくるものであり、存在のカテゴリーではありませんから、これと比較対照させて使われる場合には「具体的なもの」というカテゴリーも認識内容の具体性を表すのであって、客観的実在そのものを指示するのではないのです。そのことを先ず頭に入れておいてください。

さて、認識は常に具体的であればある程よいか、と言えば、必ずしもそうではありません。一つの石ころの持つあらゆる規定を完全に述べよ、などということは誰も要求もしなければ、期待もしません。そんな知識は不必要だからです。
交通事故について具体的に述べよ、という場合にも、問うている人が何を目的にして問うているかによって、要求される具体性の程度が違います。追い抜きをやって事故を起こしたという場合に、その車の運転手が交通法規や交通道徳に違反していたかどうかを知りたくて相手が問うているのであれば、そのことが分かる程度に具体的に述べればよい訳です。
だから、ある事物や現象を具体的に認識せよ、という要求は、その事物や現象の全ての規定を認識せよという意味ではなく、非常に多くの規定の中の重要なもの、基本的なもの、本質的なものを認識せよ、という意味だと理解すべきであります。

具体的なものは多くの規定を持っているからこそ具体的なのでした。認識が具体的である為には、本質的な規定は一つも見逃さないことが必要です。しかし、本質的でない、末梢的な諸規定まで数え上げる必要はないのであって、そのような規定を一々述べたてると、本質的な規定との区別がつかなくなり、その認識はかえって曖昧なものになってしまいます。
だからわれわれは、ある複雑な対象を具体的に認識しようとする場合には、その対象を分析して、多くの抽象的な規定に到達し、非本質的な諸規定を捨てて、本質的な抽象的諸規定を、一つも余すことなく取り上げ、それらを総括して、一つのまとまった認識へと仕上げることが必要です。
これは抽象的な諸規定を総合することです。すなわち初めに分析・抽象の道が有り、その後に総合・総括の道が有るのです。この両方の道を歩むことによって初めて、具体的なものの具体的な認識が得られるのです。

物事を弁証法的に考えることのできない人たちは具体的なものと抽象的なものとは互いに相反したのもであると考え、したがって、具体的であることは抽象的でないことであり、抽象的であることは具体的でないことだと考えます。このような考え方をすると、認識は具体的であるか、それとも抽象的であるかのどちらかだ、ということになってしまいます。
だが、このように抽象的であることを排除してしまうと、その認識は、具体的であることが出来なくなってしまいます。という訳は、具体的な認識が具体的であり得るのは、既に述べたことから分かるように、多くの抽象的かつ本質的な諸規定をその中に総括していればこそなのですから。

複雑な事柄を見事に具体的に認識している実例をして、レーニンの帝国主義についての認識を挙げましょう。
レーニンは帝国主義を分析して、その本質的な経済的特徴を次のように数え上げました。

  1. 生産及び資本の集積、これが高度の発展段階に達して、経済生活で決定的な役割を演じている独占体を作り出すまでになったこと。
  2. 銀行資本が産業資本と融合して、この金融資本を基礎として金融寡頭制が作り出されたこと。
  3. 商品輸出とは区別される資本輸出が特に重要な意義を獲得していること。
  4. 資本家の国際的独占団体が形成されて、世界が分割されていること。
  5. 資本主義的最強国による地球の領土的分割が完了していること。

レーニンが列挙したこれらの特徴は、全て帝国主義の本質的な規定であって、個々の帝国主義国にのみみられる個別的で偶然的な特徴は一つも含んでいません。又同時に、帝国主義の本質的な規定は、余すことなく数え上げられています。
レーニンがこのような五つの本質的規定に到達することが出来たのは、極めて複雑で多様な帝国主義の諸現象を分析して、そこから抽象を行い、これらのうちのどの一つが欠けても帝国主義が帝国主義で無くなるような、そのような規定だけを選び出すことによってでした。以上が分析と抽象の道によって到達したものです。

そこで次に総合と総括の道が始まります。先に挙げられた五つの基本的特徴は、ただ同時に存在しているというだけではなくて、互いに連関しあっています。生産と資本が集積され、独占体が作り出されること、これが前提となって、銀行資本と産業資本との融合が起こり、資本輸出が行われ、国際的独占団体が形成されるのであり、又それらの結果として地球の領土的分割が行きつくところまで行き着いたのでした。
そして又、(2)  ――  (5)に挙げられた要因が発生したことによって、それは逆に生産と資本の集積を一層押し進め、独占体を発展させたのでした。このことを捉えるならば、五つの本質的特徴の中で、生産と資本の集積・独占体の形成が、帝国主義の全ての本質的特徴が結び合わされる焦点であることが分かります。
こうして総合・総括の道を歩むことによってレーニンは、帝国主義を「資本主義の独占段階」であると規定したのです。

最後の規定だけを見れば、レーニンはただ一つの規定だけで帝国主義を規定しているように見えるかも知れません。しかし実際にはそうではないのです。
以上に述べたことから分かるように、レーニンの帝国主義の規定は非常に具体的な全面的な規定なのです。分析・抽象の道と総合・総括の道を通ることによって、レーニンの帝国主義についての認識は、抽象的なものをそのうちにモメントとして含み、極めて具体的な認識になっているのであります。

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