言葉と人間

言語と概念的思考

ことばも又、道具と並んで、動物的ヒトを、「人間」にした決定的要因、二本柱です。
ことばは人間に、感覚依存の個別・具体的な認識・思考から、一般的抽象的認識・思考、つまりは概念を与えました。言葉と概念の説明・定義は非常に難しいのですが、概念、及び概念的思考無しに、多少なりとも高度な文明は築けません。
この辺の詳細で論理的な説明は、下記URLにあります。このサイト雑文も殆どこのURLを下敷きにしています。
相当なボリュームの内容ですが、ことば・意識・認識・思考・概念などを理解する上で、非常に秀逸な解説ですから、是非読んで頂くことを希望して、ここでは説明を割愛します。

※ 言葉と概念の説明・理解が難しい理由として、言葉の説明をするのにも言葉を必要とすることが挙げられます。又、人間は考えたり、感じたりする時にさえ言葉を媒介にしており、言葉は思考そのものとなっています。言葉の無い状態を「考えたり、感じたり」すること自体が非常に難しいのです。

言葉と意識・認識、概念との関係性についての解説。

意識の役割

認識と言葉

概念の形成と発展

 

言葉と思考・認識

特に上記URの中で一つだけ強調したいことは、現在われわれが何気なく使っている「語」の一つ一つが、その成立過程において、人類の祖先の、生きるか死ぬかの実践の中での認識活動を反映したものであり、今、人間が生き延びて繁栄していると云う事実そのものが、言葉と、それが表している対象との関係の妥当性、つまりは人間の認識活動の、基本的な正しさを証明していると言うことです。これが間違っていたら、つまり対象に対する間違った認識を反映した言葉を使ってことに当たっていたら、そしてそんなことを繰り返していたら、今ここに人間はいませんでした(下記URL「概念の形成と発展」の中の、この辺)。

上記リンク先でも述べられていますが、言葉は単に伝達の手段と言うに留まらず、人間にとって、思考の手段、いや思考そのものになっています。このことを実感したり説明するのは、上記したように非常に難しいのですが、しかし、兎も角人間は言葉抜きの思考、それも多少なりとも複雑な思考は絶対できません。人間は言葉でしか「考え」られないのです。やってみれば解ります。
思考だけでなく、今は「感覚」さえも言葉を媒介にしています。人間は言葉を通して感じているのです。このことを説明し納得してもらえるのも又、難しいのですが。

この辺のことをなんとなく窺わせる傍証的なエピソードを二つ、書き込みへのリンクを掲載しておきます。
前段は「アメリカには肩こりがない」と言う話、後半は京大霊長類研究所の、アイとアユムの観察記録で、若しかしたら人間も言葉を知らなかった時には、こんな感性的能力を持っていたのかも、と言う話。
言葉と概念

 

ことばも、社会的なもの

道具は、身体器官の延長・代用だが、その進化に遺伝子的変異を必要としない、と言う点で、人間を「自然的・生物的存在」の制約から解放した訳ですが、ことばも同じです。

※ノーム・チョムスキーが、「普遍文法」を提唱し、人間は生得的に、つまり遺伝情報として人間言語の文法を理解する能力を持って生まれてくると主張しています。私もこれは正しいのだろうと思っています。
しかしその能力は、生後、社会(家族は最初に経験する社会)の一定の訓練の中で発現する能力です。あらゆる言語に対応した素地を持って生まれた赤ん坊は、その後特定の母語環境の中で育てられることで、その母語だけを話すことが出来るようになります。生得的な遺伝情報を土台としながらも、実際の能力獲得は生後の訓練に依存した社会的なものです。
実験で確かめる訳にはゆきませんが、言語環境から一切隔離された時、普遍文法の遺伝情報が自動的に働いて、自然にことばを話せるようにはなりません。
その点で、動物の「ことば」とは質的に異なります。

 

動物の「ことば」と人間の言葉

冒頭で挙げた3つのURLの内容、特に「認識と言葉」と、一部そのまま重複になるのですが、動物の「ことば」と人間の言語について、その違いを述べてみます。

道具と同じく「コトバ」を使う動物も又多く観察されています。
イルカ、クジラ、或いは多くのサルたち。ある観察によれば、ニホンザルにも30くらいの「コトバ」が有るそうですね。最近では、プレーリードッグの「ことば」の研究が注目を浴びているようです。
例えば、こちら

 

動物の「ことば」は本能直結

しかしこれら動物の「コトバ」と比べ、人間のそれはやはり質的に異なるもののようです。
動物のコトバは危険通報や求愛など、本能的な行動(今生物学では、本能と言う言い方はしないらしいのですが、便宜上)と密着していて、そうでない後天的に獲得した知識、例えば幸島のサルのイモ洗いなどは、コトバでなく身振りで伝達されるそうです。彼らの場合「ことば」も又、遺伝子依存だと言えます。

人間の言葉の特質として、2つ挙げられるようです。

 

人間の言葉の特質

分節(文節では有りません)

人間の言葉は、それを構成する単語に分けられます。さらに単語は、それを構成するに分けられます。
これを人間の言語の「二重分節」と言うのですが、要するに限られた要素 ―― 100前後の音(音節)の組み合わせで、数万の単語を作り、その単語の一定の組み合わせで、無限の意味内容を表現できるのです。
今後発生するであろう無限の「新しい」出来事に対しても、その都度表現し、対応できる、と言うことです。

それに対し動物のコトバには分節が無いそうです。
確かに二十種、或いは三十種類の、異なる鳴き声を使い分けることが出来ます。しかしその鳴き声は、それに対応したそれぞれ特定な、一つの意味内容しか表すことしか出来ず、それを組み合わせて使うと言うことはできません。
つまり、30種類の鳴き声のバリエーションが有ったとしたら、伝える意味内容も又30種類に制約される、と言うことです。そしてその30種類の鳴き声は、生きるか死ぬか、或いは繁殖等の、本能的な行動に直結したモノだけだと言うことです。

近年の、スー・サベージ・ランボー博士の有名な研究、天才ボノボのカンジ、パンバニーシャ、或いは京都大学霊長類研究所、松沢博士の、アイ、アユムなどのチンプに於ける、キーボードを使っての言語訓練で、この同胞たちが分節を獲得してゆく過程が見られます。
それに伴って、下でも触れますが、抽象的思考も獲得してゆくようです。非常に興味深いものとして、TVの特集番組を見た次第です。

この場合、カンジやパンバニーシャ、アイやアユムは、人間の言語環境の中で訓練されての結果です。自然環境の中で野生のサル達が自然に分節を獲得することは無いでしょう。

 

恣意性

人間の音声言語に特有な性質として、恣意性が挙げられます。任意性と言っても良いでしょう。
つまり「単語」と「音」には、それを表す事柄との間に何の必然的な結びつきが無いと言うことです。だから、毛髪のことを、日本では「ケ」、イギリスでは「ヘア」、フランスでは「シェヴー」と言うようなことが有り得る訳です。

それに対し動物のコトバは、本能に直結したものである以上恣意性を持たず、その鳴き声(コトバ)は、それを表す内容と本来的に直結しています。
敵に対峙した時の鳴き声は甲高く、ボスに恭順の意を表す場合には低く柔らかいものになるでしょう。そう言う意味で動物の「ことば」は、群れを超えて、いや種まで超えて共通だと言えるかも知れません。

言葉を未だ知らない赤ん坊の泣き声で、何を言いたいかある程度判るのも、その泣き声に恣意性が無く、表現したい事柄と密着している為です。
ペットを飼っている人は、その鳴き声を通して日常的にペットとの意思疎通を感じていることでしょう。

対象と直結していることは、動物の鳴き声が、情報を伝える機能と言う点で優れていると言えます。上述したように、そのコトバを知らない人間にさえ、ある程度は伝わる訳ですから。
しかしこの、恣意性の無さは、動物に抽象的思考を与えるのを妨げます。

言語の研究としては、幼児の言語獲得の過程、及び未開部族の言語がよく対象とされるのですが、ある未開種族のことばには「足」と言う単一の語が無くて、その代わり「人間の足」、「犬の足」、「カラスの足」などを表す、それぞれ別の語があるということです。
例えばの話ですが、人間の足を「アポ」、犬の足を「メトカ」、カラスの足を「クン」と呼ぶ、と言うようなことです(ここで挙げた呼び方は、例として単に思いつきで造っただけのもので、実際にこう呼ばれていると言う訳では有りません)。つまり、我々の言語からすれば、恣意性の不完全さが見られる訳です。
確かに人間と犬とカラスでは、足の形は随分違っています。感覚内容に応じて、それを表す言葉を使い分けることは、感覚対象に忠実であるという点で、未開種族のことばの方が優れていると言えます。だが、このようなことばの具体性は、逆に抽象的思考の未発達に照応するものです。

形にとらわれず(つまり感覚内容に密着せず)、それが動物の身体の中でどのような部分であるか、と言うことの共通性に注目することが出来れば「足」と言う単一の語が生まれる筈であり、今日の文化的諸民族のことばは全てこのような、具体的・個別性から一般的共通性へという発達の道をたどって形成されて来たものと考えられます。
つまり、「足」のような単純な語の中にも、過去の人類が行ってきた思考の発達の成果が内臓されている訳です。
我々が、ムカデのあの爪のような形のものを見て(感覚して)、「足」と言う「ことば」を媒介としてとらえている時に、そこには既に過去の人類が行った抽象的思考の成果が入り込んで来ているのであって、ただの感性的認識ではないと言うことなのでしょう。

恣意性なくして概念の形成は有り得なかったし、ひいては概念的思考、抽象的思考は有り得なかったと認識しています。

やはり、道具と言葉は、ヒトを人間にした二本柱だと言えるでしょう。

 

直立二足歩行

生物学的ヒトを、人間にした要因として「道具と言葉」を見てきましたが、それを可能にしたのが「直立二足歩行」です。全てはここから始まりました。次にその辺を見て行きましょう。

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