道具と人間

道具が人間を作った

ヒトを他の類人猿(及び全ての動物)と決定的に分けたのが道具です。ヒトは道具を作り・使って環境に働きかける道を選んだことで、自分自身を他から分けたのです。
道具は人間が作るものですが、同時に道具がヒト・人間を作りました。

道具は身体器官の延長・代用

道具は身体器官の延長・代用です。例えばカナヅチは手(げんこつ)の延長であり、メガネや望遠鏡、或いはレーダーは眼の延長であり、自転車や自動車は足の延長、飛行機や宇宙ロケットは鳥の羽根の延長・代用だと言えます。コンピュータはさしずめ、脳の延長だと言えるでしょう。
その意味で道具の発達は、生物進化を代用します。

※、道具と機械

道具をさらに二つに分けて、狭い意味での身体の延長としての「道具」(例えば、金づち、斧、ヤットコなど)と、代用としての「機械」に分けて考える場合も有ります。
狭い意味での「延長」としての道具は、道具とそれを使う人との関係が1対1です。歴史的にはマニュファクチャ迄の生産に対応するでしょう。この段階までは生産の主役は一人ひとりの人間だったし生産力もそれに制約されました。
機械は人間の「代用」であり、歴史的には産業革命以降の生産に対応しています。人間が居なくてもそれに代わって生産を上げてくれ、だからこそ「革命」だった訳ですが、ここに来て生産の主役は機械に移り、人間はその運転・保守が主要な役割となりました。今では殆ど無人の工場でロボットが黙々と生産を上げています。

ここでは区別せず、両方の意味で考えます。

 

道具の進化に遺伝子変異を必要としない

身体器官の延長・代用でありながら、実際の身体器官と違い、道具はその進化に遺伝子DNAの変異を必要としません。社会的な知識や技術の集積によって、急速に限りなく発達させることが出来ます。その時、人間自身の生物学的進化、身体の変異を必要としないのです。これが「道具」の本質です。
ヒトは道具を作り・使うことで環境に働きかけ、生きる道に踏み出したことで、ヒトのまま人間になったのです。

言いかえれば、道具は、人間を「生物進化の法則」の制約から解放し(勿論、全てではないが)、その意味で人間を、自然・生物的存在から社会的存在のステージに乗せる道を開いたのです。
生物学的には殆ど差異が無いにも関わらず、チンパンジーやボノボ、或いはゴリラなどと比較しての、人間だけの巨大な文明の違い・行動の違いを理解する鍵がここに有ります。
生物学的な連続と、人間だけの社会的飛躍」を両立させる鍵が、道具です。

一般に生物の生存様式(動物で言えばその行動一般)の変化は、遺伝子変異と自然淘汰に依存します。つまり「進化」による形質変化を待つ必要があります。しかし、人間の道具はその手続きと経過を必要としません。
ある種の恐竜の前肢が羽根に変化し、鳥となって空を飛ぶまでに、何十万年或いは何百万、何千万年掛かったか承知していませんが、兎も角長い時間を必要とします。
しかし、羽根の延長・代用としての航空機は、ライト兄弟の初飛行から僅か100年位しか経っていないにもかかわらず、今や月に人間を送り、太陽系の最外部を覗うまでになっています。

100年と言う時間経過は、「生物進化」の視点から言えば全く問題にならない時間です。しかしこの間に人類は、トリが地質学的時間経過を経て達成した進化を遥かに超えて、その行動様式を激変させています。
インターネットは、地球の裏側の出来事が「見え」たり「聞こえ」たり、自分の声や情報をを届けたりする点で、人間の目や耳、声の延長だと言えるでしょう。このインターネットが誕生してほぼ半世紀ですが、10年後にインターネットがどこまで進化しているか、私などには想像もできません。
全ては、「遺伝子変異=生物進化」を待つことなく、それに依存しない道具の発達によるものです。

 

環境依存からの解放

動物の行動は身体のつくりと密着しています。
遺伝子変異に依存する動物の行動様式は、従ってその動物の姿・形を見ればおおよそ予測がつきます。羽根を持っていれば「空を飛ぶだろうな」と予測出来るし、肺でなくえらを持つ動物は、例外なく水中生活をしているだろうと予測出来ます。
つまり動物は(生物一般でも同じ)、置かれた環境での淘汰圧を受けて現在の姿が有る訳で、形質と行動が直結しているのはいわば当然だと言えます。

この原則は、種や属など、系統を超えて共通です。
コウモリは哺乳類ですが、空を飛ぶ為にはハネ(膜)を発達させる必要が有ったし、土の中で生活するモグラとケラは同じような形の前足を持っています。
このように、異なる系統の生物が、置かれた生態的地位(環境)を反映して、共通の形質を発達させることを「収斂進化」と呼びます。

一旦環境に適応(特殊化と言ってもいいでしょう)してしまった動物は、従ってその環境でしか生きることができません。遺伝子に密着した動物の行動様式は、環境にも依存するのです。
その点でも、「道具を作り、使って環境に働きかけて生きる」道に踏み出した人間は、環境依存からほぼ解放された唯一の動物だと言えます。
今、人間は、極地や高山、水中を除き、地球の陸地のほぼ全域に、その生息域を広げています(必要とあれば人間は、南極や宇宙にさえ基地を作り、生息域とします)。

道具は人間が作ったものですが、同時に道具は、サル達と切り離された「人間」を作ったとさえ言えるでしょう。

 

道具の作成が、意識・脳に与えた影響

道具の作製が人間に与えた意義として、次のことも重要です。

過去から現在、未来への、意識の伝搬

道具を作ると言うことは、仮にそれがどれ程幼稚なものであれ、それを使うことを予想し、その目的に適うように目の前の材料を加工することを意味します。それは過去に道具を使った経験が想起され、現在の行動を通して、未来に使うであろう道具使用の場面をイメージできなければなりません。
目の前に飛び出してきた獲物を、反射的に捕らえると言った目先の具体的な現象を「感覚」する能力を超えた、抽象的な意識活動が不可欠です。

感覚を超えた認識

石を割って石器を作ると言う行為は、目の前に有る材料としての石が、石器にとって必要な「硬い」と言う、既に存在している性質を認識する能力が当然必要です。
同時にそれだけでなく、「尖った形」と言う、未だそこに存在していない性質までも認識する能力が必要です。
目の前の、今現在、直接的に感覚出来ることを脳に反映するだけでなく、将来の予想される出来事、目の前に未だ存在していない、「有るべき」要素までも認識して、その有るべき姿に向けて現在の行動を制御する能力。
道具を作り、使うことを通じて、幾世代もの時を経て次第に人間の意識が、つまりは脳が鍛えられて来たのです。

中枢神経の発達,、手先感覚の発達への寄与

道具を作り、使うと言うことは手先の器用を促します、それは又、おそらくその働きを司っている中枢神経・脳の発達を促すことになったし、お互いフィードバックし合って高め合ったでしょう。
ヒトは、最初に頭が良かったから道具を作ることが出来たのではなく、道具を作る過程で抽象的思考、理性的段階の認識に至る道が開けていったのです。
化石が示す、脳容量の増加過程と出土する石器の進化(オルドワンなど)も、それを裏付けています。
ここでも又言えることとして、道具は人間が作ったものだが、同時に道具が人間を作ったのです。

今や人間の手は村治佳織のギターを弾く手であり、伊藤若冲の超絶技巧の手であり、1000分の1ミリを感じ分ける職人の手となっています。

http://y-ok.com/philosophy/d-materialism/d-6.html#tool_word_heart 参照

 

動物の「道具」と、人間の道具

人間以外の動物にも、道具の使用が幅広く見受けられます。「使用」に留まらず、道具「作成」の観察記録まで報告されています。
例えば、チンパンジーがアリ塚の白アリを釣り上げる為に、適度な木の枝を折りその枝の先を噛み砕いて釣り上げ効率の向上を図る。
カレドニアカラスが倒木の中のカミキリムシの幼虫を釣る為に、ウクイノキの葉の葉柄などを「加工」して使う等。
実験室では、高いところにあるバナナなどを叩き落とす為、穴のあいた棒に別の棒を差し込んで長くするチンパンジー等の観察例も有ります。

道具と概念的思考

ではそれら、彼らの作る道具と、人間の道具はどこが同じでどこが違うのか、と言う問題です。

これについては、実際の観察に基づいての、京都大学人類進化論研究室による、チンパンジーの道具使用(作成)の分析が有ります。
「無断で引用禁止」とのことですので、掲載先へのリンクに留めます。私としてはここに掲載されている論点について、ほぼ全面的に納得しています。下記URLを参考にしてください(下記URLで、左側の「道具」ボタンをクリックのこと)。
http://jinrui.zool.kyoto-u.ac.jp/ChimpHome/chimpanzee.html

なお、この掲載文を論拠として、逆に私の主張(生物学的連続と、人間だけの質的飛躍)への批判・論難が有りました。つまりは、「全ては程度問題」との自説の根拠として上記論文を引用したものです。それに対する私の再反論も以下に掲載しておきました。参考までに。
道具と概念的思考

上記リンク先を読んで貰えば、ほぼ言いつくされているのですが、大きく言って次の三点でしょう。

  1. 動物の「道具」は、あくまで臨時的・不随意的・偶然的なものです。
    つまりそれがなくても、その動物の生存に死活的な影響を与えません。
    しかし人間から全ての道具(パンツから家から)を排除したら、ヒトは死活的な影響をうけるでしょう(そもそもそんな状態は、想像もできませんが)。
  2. 動物の道具は、仮にどんなに複雑で有ったとしても(実際は単純)、あくまで目の前の感覚依存の産物です。
    それに対し人間の道具は、感覚依存(悟性的認識)を超えて、理性的・概念的思考の産物です。例えばチンパンジーに「二連滑車」は絶対にできない筈です。まして目に見ることのできない相対論や量子論等、高度な数学や概念的思考を駆使した現代の人間の道具と、動物の「道具」の差は、単なる「程度問題」などでは絶対にありません。
  3. 人間の道具はその始まりから、社会的な性格を持っています。工場で作られるパソコンは社会の不特定多数の成員を対象に制作・販売されます。しかし動物の「道具」は、基本的にその個体の範囲のものです。他者の為に作るという観察例は、おそらくないでしょう。
    この点は、「社会」の章で又触れる機会が有るでしょう。

初期人類も萌芽的な、ゴリラやチンパンジー並みの道具を使っていたかもしれない。或いは共通祖先から受け継いだかも知れません。それがその段階のままに留まらず、徐々に複雑・精緻な道具に発達させた要因は、直立二足歩行です。前肢を歩行から解放することで、道具作成・使用の可能性を格段に広げたのです。
又言葉による意識の発達もまた、道具の発達に大きな影響が有ったことが、ネアンデルタール人などの道具の発達の停滞などから、逆に分かってきています。

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