サルか神の子か
「人間とは何か?」を巡って、哲学を含め様々な見解、「解答」が出されて来ました。ただあまり抽象的、精神論的なものを取り上げても意味がないと思います。なるべく具体的な見解をそれぞれ検討してゆきます。
人間理解、両極端な二つの主張
最初に「高度な知性・科学技術」と、「生物学的近縁度」の、片方の側面だけに目を取られた、両極端とも言うべき二つの主張を対置してみます。
なお、「進化学陣営から聞こえてくる混乱」についても参照してください。
1、創造論的解釈
他の全ての動物と切り離して、人間だけを特別な存在とする主張です。
旧約聖書『創世記』第一章27には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」と記述されています。いわゆる『創造論』です。
それに反する「進化論」に対し、カトリックの総本山であるバチカンはかって火刑を含む極めて厳しい戒律を科してきました。ダーウィンが『種の起源』を書き終えながら長く発刊を躊躇ったのは、このバチカンへの配慮からでした。
今でも、特にアメリカ南部のキリスト教原理主義者の間では、この聖書を字義通りに解釈し、『創造論』を進化論と並んで学校の理科で教えるべきだ、との裁判提訴を繰り返したり、避妊・中絶、同性愛等が聖書に反するとして、堕胎手術をした医院の焼き討ち、医師の殺害まで起きています。
オタッシャデー!!
幸いに日本では一部を除きあまり深刻な問題にならないで来たことです。おそらく神仏混淆と多神教と云う、日本人特有の宗教的な曖昧さ・寛容さが影響してのことでしょう。ザビエル以降の宣教師も日本での布教には基本的に成功していません。20年ほど前に東京の街角でよく見かけたモルモン教の布教風景も今は見ません。「人間の祖先はサルだ」と言われても極端な反発を示さないまま受け入れてきた国民性があります。
同時に創造論は多分に信仰の問題で、理屈や議論で決着の付きにくい問題です。化石などの事実を提示してさえ納得させるのは困難です。或いは非科学的だとして行政で取り締まる等は思想信条の自由からして論外です。
頑迷な創造論者(例えば「ものみの塔」等には「オタッシャデー!!」と言うしかないと言えるでしょう。
このサイトでは化石や分子生物学の科学的知見を紹介することで、そのままこの創造論的立場へのアンチテーゼとします。
創造論についてはこちらにまとめてあります。参照して下さい。
問題は「科学」の名によってなされる、次の主張です。
2、「人間も単に生物の1種に過ぎず、それ以上の何物でもない」的立場
「進化に目的は無く、全ての生物はその意味でそれぞれに進化の頂点に有る。人間だけが特別なことは無い」として、全て生物学的枠内で説明しようとする主張です。
ヒトと類人猿との近縁度を正しく解析してくれた進化生物学(…を中途半端に齧った)陣営の一部から、往々にして聞こえてくる主張です。「創造論」とは対極のように見えるかも知れません。
前段の「進化に目的は無く、全ての生物はその意味でそれぞれに進化の頂点に有る」については特に問題は無いでしょう。問題は後段の「人間だけが特別なことは無い」との部分です。つまり人間も動物の一種であり、サルも人間も、その違いは程度の問題・量的な違いに過ぎないとの主張です。
「自称科学」の側から成されるこの主張は、現実を素直に見た時やはり無理があるし、検証が必要と考えます。以下少し立ち入っての批判です。
※ なおこの主張は実際に私が某掲示板で経験・論争したことです。
この問題が日常的に議論の俎上に、例えばアメリカ南部においての「創造論と進化論」の対立のような形で表面化している訳では有りません。日常的にはおそらく誰も、問題意識さえ持たない程度に人間を特別な存在として疑っていないのです。議論になるのは上記掲示板でのように、改めて問題が建てられた時だけです。
人間の到達点を正当に評価出来ない
人間と他の動物を同列において、質的な違いを見ず、その違いは「単なる量的な違い・程度問題」だとするこの解釈は、目の前に展開している現実を有りのままに見れない、頭の中だけの論理です。なによりこの解釈では人類の巨大な到達点、例えば E=mc2 のような高度な概念的思考や、それによって達成出来た科学技術や文明(その中には核兵器のような負の技術が有るとしても)を正当に評価することができません。
パソコンやGPS、日本のはやぶさ、電力配信網等が、ゴリラが使うアリ釣りの木の枝と、その違いは「程度問題」に過ぎないと言う訳ですから、これでは関わった多くの学者や技術者、アインシュタイン等の先人たちも浮かばれないでしょう。
或いは核兵器やミサイルが、フサオマキザルの石つぶてと「程度問題」だと言うに至っては、反核や軍縮の主張・運動への矮小的冷笑・ニヒリズムに繋がり兼ねません。
そもそもこの主張をする人たちは、自分の主張の根拠になっているであろうダーウィンの自然淘汰の理論や、ワトソン、クリックのDNA分子構造決定についての考察(本来、ロザリンド・フランクリンの功績に帰すべき)も、いわゆる「サルの浅知恵」と程度問題に過ぎないと言うことになってしまいます。ダーウィンの『進化論』やDNAについての考察をそこまで貶めて平気なのだろうか? この自称「進化生物学専門家」は。
又、これらの説の主張者が日頃、例えば動物園でのチンプやゴリラの見世物、或いは医学の実験材料にさえされていることに、(同列の仲間として)批判・抗議したとの報を聞いたことがない。日常的には自分たち人間だけを特別視して全く違和感を感じないまま、問題が建てられたときにだけ「人間だけが特別なものではない」と主張する。現実から遊離した頭の中だけの観念論的議論。
※ 参考
人間とチンパンジー等の道具について、質的な違いについて、私の見解とともに、非常に分かりやすい比較があります(京都大学人類進化論研究室からの引用)。
逆に人間の神聖化に繋がる場合が有る
実は人間理解を「生物学的枠内」だけに求めた時、主張者の主観的意図に反し、逆に『創造論』的解釈に近づくことが有ります。
人間の高度な知性と科学的・技術的達成を、他の動物と同列視しようとして、その説明を生物学的枠内だけに求めた時、論理上次の二つしか道は有りません。
- 人間と、チンパンジーなど他の種との違いを過小評価し、人間の巨大な達成も、量的な違い・程度問題に押し込める(これは既に上記した通り)。
- DNA塩基配列1.23%と言う、生物学的要素を過大評価し、巨大な差をこの中に無理に見出そうとする。
私も上記掲示板で経験したことですが、僅か1.23%の中で違いを説明しようとして、調節遺伝子だとかコントロールリージョンだとかのミラクル・サプライズが隠されているんじゃないか、との主張に辟易したものです。
「人間だけが特別なのではない」と言いながら、人間にだけこんな特別な要素を持ち込まざるを得ないご都合主義。これはキリスト教の「奇跡」に繋がる議論です。創造論を否定する積りで持ち出した「生物学的理解」が、逆に創造論的解釈につながる皮肉です。
※ なお近年、ヒトゲノムやチンプ等のゲノムの大要が決定され、その比較が行われているようです。今のところそこに、人間化(ホミニゼーション)を劇的に促した調節遺伝子などは発見されていないようです。
そもそも生物の形態に関わる転写調節遺伝子は、極めて安定で突然変異が少ないのだそうです。要するにその変異は影響があまりにも大きすぎて、致死的な結果をもたらし兼ねないから、と言うことのようです。
社会ダーウィニズム
人間を、その社会も含めて全て生物学の枠内だとする解釈で問題になることとして「社会ダーウィニズム」が挙げられるでしょう。
社会ダーウィニズムは人間の社会に、生物進化の法則、自然淘汰を恣意的に適応し、社会に於ける弱肉強食、優勝劣敗等を合理化する「機械論」の一種です。全て生物学の枠内だとする立場では、論理的にこれを排除できません。
生物学の枠内論を主張している人は、本人が意識しているかどうかを別として、この社会ダーウィニズムに対し、論理的な対抗の足場を持てません。
双方へのアンチテーゼとして
ここでは片方で、進化論・進化人類学陣営が達成して来た化石や分子生物学等の知見に基づき、創造論的人間観への批判とするとともに、片方で人間を、単なる生物的存在の枠に留まらず、人類が達成した高度な思考・文明が、生物学的ヒトを超えた人間社会の歴史と進化にあることを正当に評価し、社会ダーウィニズムなどの機械論的俗論への批判的足場としたいと思います。
では一見橋渡し不可能に見える2つの側面、「生物学的近縁度」と「人間だけが達成した高度な知性・技術」の両立はどのように解釈すればいいのか、次にその点を考察します。
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