進化学陣営から聞こえてくる混乱

生物学者、進化人類学者の間からの、「人間とは何か?」について、解答不能を率直に吐露している、その意味で誠実な言葉と、或いは一部混乱について。

 

ドナルド・ジョハンソンの告白

ルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス、発見当時最古の人類化石の愛称)のほぼ全身化石の発見者として有名な古人類学の第一人者の一人。

科学が何が人類なのかをはっきり決めないままに、これまで一世紀以上もの間、人類と先人類、そしてプロト人類について論議して来たことは、滑稽に思われるかもしれない。滑稽であるにしろないにしろ、そんな状況だったのだ」

 

今西錦司の嘆き

日本の、と言うより世界の霊長類研究の創始者として知られる今西錦司が、人間理解についての自身の思考上の行き詰まりを率直に吐露しています。
今西は、『サル学の現在(平凡社)』の中で、「人間は本当にそんな特殊な存在なんでしょうか」と立花隆に問われ、「実際我々の生活を見たら、他の生物とまるで違いまっせ」と答えている。

特に立花が「類人猿を調べれば調べるほど、サルとヒトの間は距離が狭い………。遺伝子の研究などによると驚くほど近いと言うことが分かって来た。DNAレベ ルでは、サルとヒトは殆ど違いが無いと言う学者もいる」と、サルとヒトとの近縁度を指摘しながら、「それでも人類の祖先とサルとの距離は、離れすぎていると言うことになりますか」と質問したのに対し今西は、「うん」と答えつつ、人間の特殊性を強調して「ぼくは、もう今、類人猿から人類の起源を探ろうという野心は捨ててます」と述べている。
「人類の起源を類人猿に求めても、もう求められんという考えやな、ぼくは」と。

霊長類研究の第一人者である今西錦司が、その研究の結果として、人間は他の生物とまるで違う、と述べ、類人猿研究の延長線上には人類の起源の答えは求められない、と達観する。

若い時の今西は西田哲学に興味を示したり、晩年はサル学から距離を置き、進化論に傾斜して「種は変わるべき時に変わる」と述べたりと、首を傾げることが無い訳ではないのですが、しかし長年のサル、類人猿研究と思考を経たこの今西の言葉には重みと誠実さを感じます。
類人猿の延長線上、つまり生物学的な枠の中だけでは人間の理解に至らないとすれば、ではその答えは何処を探せば見つかるのか?、という問題が提起されることになる筈です。

この問題について今西は答えを提示していないが、本来ならその方向で、つまり生物学的枠内を超えた所で、人間そのものの研究から「人間の本質」を模索すべきだったのです。

 

生物学の枠内に拘る程、逆に人間の神聖視に繋がる場合が有る

しかし今西が捨てたと言う「類人猿から人類の起源を探ろうという野心」に拘り、人間をあくまでも生物学の枠内で説明しようと、進化生物学の専門家がなかなか苦労している様子が書籍やWebサイトで散見できます。

専門家も陥るご都合主義

アドルフ・ポルトマン(Adolf Portmann、1897-1982)と言うスイスの著名な動物学者がいます。この人は『人間はどこまで動物か』と言う著作の中で、「人間は他の哺乳類と比べ、1年ほど早産である」、「人間は生後1歳になって、真の哺乳類が生まれた時に実現している発育状態に、やっとたどりつく」との主張を展開しています。この見解は卓見です。私もその線に沿ったサイト展開をしています。

しかし、ポルトマンが他のサルたちと違う、「人間の属性」として挙げている次の3点のうち、最初の二つは同じく「我が意を得たり」で、このサイト主張と同じですが、最後の3番目は頂けません。

人間の属性

  1. 直立二足歩行
  2. 道具・言語の使用
    (※ 管理人注 ここまでは良いでしょう。このサイトと同じ主張です。しかし次に………、)
  3. 洞察力、つまり未来予測性が有るかどうか、

……だと述べている。そしてこのポルトマンの主張を紹介していた日本の学者も、三番目の「洞察力」が非常に重要だと追従している。

しかしこれはチョッと考えれば直ぐ分かることですが、完全なトートロジーです。
「洞察力」は確かに人間と他のサル達を区別する重要な属性では有るにしても、それは人間化の結果です。元々ヒトと、チンプやゴリラは過去において同じ動物だったのであり、その時そこに「洞察力」を含めて違いなど、何も無かったのです。
重要なことはかって同じ動物だったチンプやゴリラとヒトで、どうしてヒトだけが洞察力を身に付けることが出来たか?であって、その原因に結果を織り込んではいけません。
少なくともこの三点を、同列に並べるべきではありません。

こう言う論法で言えば、つまり進化の結果として達成された属性を、ヒト起源と同列に持ち込む見解は、旧約聖書の「アダムとイブの誕生」に繋がります。最初から出来上がった形として人間を考える訳ですから。「生物学的」枠内に囚われてしまうと、逆に人間を神聖化したものに押し上げてしまう危険が有る、その一例です。
言う方も言う方だが、それを持ち上げている「専門家」も専門家だと思った次第です。

 

「進化論フェチ」との論争

http://y-ok.com/blog/evolution/evolution-bbs/

某掲示板での「人間」を巡る論争のうち、私の発言ログだけをまとめたものです。
「進化に目的はなく、全ての生物はそれぞれに進化の頂点にある」「人間も生物の1種に過ぎず、違いは量的な程度問題に過ぎない」との、生物学的枠内から1歩も出ることのない議論に終始。それに対する私の見解。

 

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