科学的命題の真理性

科学は、所詮仮説に過ぎないか

某掲示板で「どんなに正しくても、所詮科学は『仮説』に過ぎない」と言う趣旨の主張が繰り返される。しかも「科学」の側に身を置く立場から。

例えば………、
「科学とはこの世の不思議をどうすればうまく説明できるかと考えられたものにすぎない」
「ニュートンは単に万有引力という近似式を考えたにすぎない」
「化学も地質学もその他もろもろの科学は何とかこの宇宙で起こっている不思議なことを、説明できないかと苦労しているだけのもの」
「相対性理論だって細かいところで綻びがあるかもしれません。
未発見の物理現象が相対性理論を覆すことだって絶対ないとは絶対言えないでしょう」
「進化論もそれと同じで生物の様々な特徴を説明できるにもかかわらず、否定できるだけの証拠が見つからないから暫定的な真実とされているといっても過言ではありません」
……と言った具合である。

本当に科学は、所詮「仮説」の域を超えず、「どんなに正しくても」それを真理と断定することの出来ない「暫定的な真実」に過ぎないのか?

この問題は実は、弁証法的唯物論からすれば「絶対的真理」と「相対的真理」の関係として、とっくに解決済みの問題であり、上記主張は不可知論の一種に過ぎないのだが、未だにこんな形でつまずいている「知識人」が多い。

この「某掲示板」の参加者には医療関係の人が多いのだが、「所詮科学は仮説に過ぎない」と主張している人は、例えば、ジェンナーの種痘の発見を「所詮仮説に過ぎない」として、実際の種痘接種に際し、些かでもその真理性を疑うことが有るのだろうか(私は医学の門外漢で、この程度の例しか挙げることが出来ないが)。

医学に限らない。
人工衛星やロケットの軌道計算の際、「『所詮仮説』に過ぎない」ニュートンの万有引力の法則に依拠している筈だが、数百億、或いは数千億の予算獲得に、そんな「仮説」を根拠にした申請や認可が、納税者の同意が得られると言うのだろうか。
現実には、申請も認可も、或いは納税者も、「仮説」だからということで、それが問題になったことなど一度も無い。

アルミ精錬工場で、ボーキサイトからアルミニュームを製造する時、「『所詮仮説』に過ぎない」酸化や還元の法則を駆使している筈だが、それが理由で、工場を新設したりそれに投資することが、株主総会で問題になったなど、一度も聞いたことが無い。

そもそもこの「所詮仮説」論者は、自分でパソコンを使っている時、その基礎になっている電磁気学や量子論を「所詮仮説」として、その有効性を些かでも疑いながらキーボードを叩いているのだろうか。

「所詮科学は仮説に過ぎない」と主張している人も、実際の生活の中では、科学の真理性をその都度疑いながら行動している人など一人もいない。
目の前に自動車が飛び出してくれば、躊躇なく飛びのいて避ける。その時、慣性の法則を「単なる仮説」だと、些かでも疑う人は一人もいない。

上記「所詮仮説」主張は、現実からかけ離れた頭の中だけで、観念的に問題を建て、観念的に解答しているに過ぎないのだ。
 

科学的真理とは

科学に限らないが、では真理、真実とはなにか?
弁証法的唯物論哲学では明確に規定できる。つまり………、

真理とは客観世界を有りのままに反映した観念であり、その検証は実践(観察・実験・行動・産業など)である。
……と。

真理の検証基準は実践

上記命題の前段は特に異論はないだろう。
問題は後段、つまり真理の基準は実践であり、実践の検証に耐えた理論は、その検証の限りにおいて真理と断定していいのだ。
逆に言えば、幾ら論理的に見事で有っても、実践の検証を経ていない理論は未だ真理とは言えない。つまりはこの段階の理論を「仮説」と言う訳だ。

ニュートン力学が、光速度領域や巨大重力領域でアインシュタインの相対性理論によって修正され、ミクロ領域で量子力学によって修正された。だからと言ってニュートン力学が否定された訳でも真理で無くなった訳でもない。
日食や惑星の軌道計算、ロケット・衛星の打ち上げなど、マクロ領域ではニュートン力学に依拠して何の問題も無い。その限りで、つまり後の世に「近似値」と言われることになったとしてもやはりニュートン力学は真理なのだ。
相対性理論や量子論は、人間の認識の枠を広げ深めたと言うことであって、その枠からニュートン力学が外れた訳ではない。ニュートン力学の外側にまで人間の認識領域が広がったと言うことであって、それまでの枠の中に限って言えば依然真理なのだ。

相対性理論も量子論も、当時の人にとって必ずしも「論理的」では無かった。理解できた人は一部に過ぎなかった訳だ。しかし現実世界の中で、実践的検証に耐えることで真理とされた。
一般相対性理論はアインシュタインの予測通り、1919年の日食の際、太陽近傍での光の曲がりが確認されたことで実証されたし、量子論も例えば二重スリットによる光子一個の干渉現象等によって実証されている。
今、相対性理論なくしてGPS技術は有り得ないし、量子論抜きの電子技術は有り得ない。
つまりは実践の中でこれら科学的命題は、真理と断定できるのだ。
 

真理とは、絶対的真理へ続く、限り無い人間の認識活動そのものである

勿論今後の科学的究明の中で、相対性理論も量子論も綻びの出る局面が発見されるだろう。
その局面がどんな物理的様相なのか、私には想像も出来ないが、仮にそう言う綻びが出たとして、それで相対性理論も量子論も否定される訳ではない。
ニュートン力学の時と同じく、人間の認識がそれまでの枠を超えて、広く深い領域に到達した、そう言うことなのだ。
人間の認識はそのように無限に続いて行く。

人間の認識は、絶対的真理へ続く、限り無い相対的真理の積み重ねだと言えよう。
どれだけ認識が深まろうとそれで全てを認識し尽くして、人間にとって未知の領域は無くなった、と言う状況は来ない。その意味で絶対的真理に到達することは永遠に無い。
真理は常に絶対的真理に対しての相対的な関係に過ぎない。
しかしこの相対的真理の積み重ね、絶対的真理へ続くこの系こそが正に真理なのだ。

※ 相対的真理の経過を経ずに、一度に絶対的真理を獲得する場合もある。
例えば「鉄とアルミニュームの比重は、どちらが高いか?」と言う問題提起に対し、真理は「鉄」の一つしかない。これ以外の真理も、これ以上に深い真理も無い。
このような問題について人間は、一発で絶対的真理に到達出来る。

しかし「鉄の比重はどれほどか?」と言う問題に対して絶対的真理は得られず、常に観測機器の精密度に依存した、相対的真理の無限の探求が続く。

どれだけ相対的なものであっても、この系に有る限り真理なのであって、大事なことは、この系から外れた所に真理は絶対にない。
例えば旧約聖書の「創造論」などのように、上記系から外れた所に真理は無いし、実践の検証にも堪えない。神の実在を証明することは絶対に出来ない。

科学的真理は、700万年に渡る人間の歩みの中で証明済みの事実

”科学”というものをなにか、ホントーに狭い特別なものと考え、しかも現実の世界との相互関係抜きに、単に頭の中での「論理」に堕した時、上のような矮小化された議論が独り歩きする。その傾向は特に、この例で見られるように中途半端な「科学」の側から主張される

科学とは、「外界(環境)を、一般化して正しく意識に反映する能力」であり、外界を正しく反映した意識を「真理」と言う訳だし、それは実践で検証出来るべきものなのだ。
その意味で決して「所詮単なる仮説」だの「暫定的な真実」だの、「科学とはこの世の不思議をどうすればうまく説明できるかと考えられたものにすぎない」だのの、脳内お伽噺では無いのだ。

ヒトは、700万年前に生まれた瞬間から外界を意識内に反映して生きて来た。
ある認識が正しいということは、外界の事物を反映することによって意識内に作りだされた観念が外界の事物、またはこれらの事物の性質や関係に一致しているということであり、このような場合にわれわれの観念は真理なのであり、この場合に初めて、この観念に導かれて行なうわれわれの実践は成功する。
もしも意識が外界の事物を正しく反映する能力を持たず、したがって意識内に作りだされた観念と外界の事物、その性質や関係とが一致していないならば、すなわち我々の認識が誤っているならば、そのような観念(誤った認識)に導かれて行なうわれわれの実践は失敗し、めざした目的を達成することが出来ない。こ のようなことが度重なるならば人類は死滅していただろう。
.........このことから分かるように、認識が正しいかどうか、すなわち人間が世界を正しく認識できるかどうかという問題は、個人にのみかかわる問題ではなく、全人類的な問題であり、社会的な問題なのだ。

ライオンの爪や牙も、チーターの足も、ゾウの巨体も無い我々人類の祖先たちが、兎も角も700万年の間生き延びて、今こうして地球上にはびこって文明を築き上げていると言う事実そのものが、人間の外界を反映する力、つまりは科学的能力を実践で証明していることの他ならない。

ここには単なる、上記脳内お伽噺の入り込む余地のない、生きるか死ぬかの修羅場を潜り抜けて来た現実が有る。

現実の実践的立場から遊離した単なる頭の中だけの「理論」が、「科学」を名乗って主張されることの愚かしさの、一つの実例。
又その俗論に対する、弁証法的唯物論からの反論として。

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