「関東平野・武蔵野」私的覚書

 

地質学門外漢の「頭の整理」用メモ

この雑文は「武蔵野」に興味を持った地質学門外漢の管理人が、その理解の為にはどうも関東地方・関東平野全体の成り立ちを知る必要が有るらしいことに気が付き、その為の自分の頭の整理用にまとめてみたものです(何しろ入り組んでいて通り一遍に読んだだけでは到底理解できない)。

書籍やNetからの引用、孫引きに、管理人の独善的な解釈を加えてのものです。
良い子の皆さんはこの怪しげな雑文を決して、真に受けたり鵜呑みにしないようお願いします

 

地形図

クリック、拡大表示でご覧ください。巨大な図です。スクロールしながらご覧ください。プロットしてある地名は必ずしも市街規模の大きい順では有りません。地質・地形上キーポイントとなるだろう、地名を表示しました。
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>関東平野地形図トリガー.jpg

 

一応の歴史的経過

関東平野の成り立ちを、細かいことは抜きに大雑把に見てゆくこととする。
なお次に述べる各イベントは必ずしも順番に起きた訳ではありません。長い地質学的歴史の中で、同時並行進行したり後先逆になったり………、事実、地層も下から順に整然と積み重なっている訳じゃないし場所によっても入り組んでいます。串団子のように一つづつの出来事が整然と順番に重なっているのでは無いことだけご理解ください。そもそも順序を辿って書き出すこと自体大それたことかも知れない。
しかし、大きな流れとしては概ね次のような経過を辿ってきたようだ。…と信じたい。

 

山地の形成

関東の西側、埼玉県から神奈川県に広がる「関東山地」は、2億年前~500万年前に掛けて形成されたらしい。
この地域の山地は、檜原村の秋川をはさんで北の埼玉側がより古く、南の神奈川側がより新しい。北側の地層の中には石灰岩やチャート(石灰岩もチャートも生物由来の海成堆積岩)の層があり、山地の中に鍾乳洞がある。つまり海の底で堆積した地層だと言うこと。
そのころ山地の地域は暖かい時代の外洋火山島だったそうだ。埼玉県側の関東山地に地層が積もっていたころ、東京はまだ火山島で、関東山地の隆起が北側からはじまり、東京の地域に広がってきて、火山島が「本土の陸地」に取り込まれた。だから、神奈川県に近い山地では、石灰岩やチャートの地層はなくなる。

 

上総層群(かずさそうぐん)

関東全体の基盤

(上総層群とは)第三紀鮮新世~第四紀更新世古期(※ 1)までの一連の海成層で、砂岩、泥岩および凝灰質砂礫などからなり、三浦層群を不整合に覆い房総半島南部や多摩丘陵では広く地表に露出しているが、下総台地や武蔵野台地では下総層群に覆われ関東地方の基盤をなしている。
模式地は房総半島中央部の養老川から勝浦市にかけての川沿い。下位から、黒滝層、勝浦層、浪花層、大原層、黄和田層、大田代層、梅ヶ瀬層、国本層、柿ノ木層、長南層、笠森層が整合的に重なる。(Wikipediaから転載)

※ 1 鮮新世(約 533万2000年前から約 258万8000年前の期間)
      第四期(258万8000年前から現在までの期間)

 

500万年前今の関東地方南部の大半は海の底だった(※ 2)。上掲地形図北部の山地或いは関東山地エリアを除き、多摩丘陵や武蔵野台地(これらが積みあがったのはずっと後)、房総半島を含む大半のエリア(図では黄色から緑色の部分)がおそらく海の底だった。
多摩川の河口は従って今の青梅付近だった訳だし、利根川や荒川も北部の山から直接海に流れ込んでいたことだろう。

この海の底で、山からの土砂、海による堆積物などが入り交じり堆積、長い年月で圧縮・固化した平らな地層が「上総層群(※ 3)」と呼ばれる地層で、細かな年代や堆積場所によって異なる幾つかの層の総称。
上総層群を堆積させた海盆の中心は本地域の南東方の房総半島にあって,当時この海は関東平野の大半を含む広い海湾をなしていた。上総層群は長い間の堆積で厚さは2000メートルを超すところもあり、東京湾の底を超えて関東地方ほぼ全域の土台となっている。建物を建てるときには最も信頼できる地盤となっている。

上総層群は多摩丘陵、房総半島などで地層の露呈が見られるが、関東平野中央部では、次に述べる「関東造盆地運動」による沈降・度重なる堆積に覆われて普通は見られない。東京では多摩川中流域(昭島宿川原)、神田川下流仙川の一部などで見られる。
 

※ 2 1961年1月8日、昭島で500万年前に生息していたであろうとされるクジラの化石が発見されている。今その現場は「クジラ公園」として運動公園になっている。
昭島はまた多摩川河床で上総層群が「牛群地形」、又は「クジラ状地形」と呼ばれる珍しい状況で露呈している地質学的にも貴重な場所でもある。

※3  「上総」とは今の千葉県中部を指していた地名。地層堆積の中心であり、この地を模式地(地層の標準となる露頭がみられる特定の地域)としていることから「上総層群」と呼ばれる。

 

関東造盆地運動

関東地方・関東平野の骨組みを形成した地殻運動

関東平野は、新第三紀(※4)以来続く、関東造盆地運動という変化により形成された。これは現在の関東平野の中央部を中心にして沈降が起こり、周囲の山地などが隆起する運動である。これにより周囲の山地からの土砂が非常に厚く堆積し(第三紀層が3000mにも達する)、それがさらに隆起することにより丘陵や台地が多く形成された。フォッサマグナの東縁線、中央構造線などの大型の構造線が平野の中央部に存在すると考えられているが、このようにして軟らかい堆積層が厚く積もっているため、地震の発生原因となる活断層を発見することが困難になっている(断層は堆積層下の地下3000mの基盤に存在する)。(Wikipediaから転載)

※4 新第三紀(地質時代の区分の一つで、2,303万年前から258万年前までの時代を指す)
Wiki記述の「第三紀層が3000mにも達する」と有るのは時期的に、イコール上総層群と理解していいのだろう。

 

関東造盆地運動とは、500万年前頃から始まりWiki記述に有るように周囲(東側の山地、下総台地など)が隆起し、その中央部で沈降が起こる現象。これにより、現在の関東平野の骨組み、関東堆積盆地ができた。
この運動は現在も進行中で、多摩川の扇状台地である武蔵野台地が、青梅を扇頂としてきれいな同心円を描かず南東に大きく張り出しているのは、南東側が沈降している為であり、この動きは玉川上水のコース取りにも(好)影響を与えている。

関東造盆地運動が最初地質学的に実証されたのは1936年(大塚弥之助氏)で、横浜・川崎付近の地表で観察される洪積世前期の地層が埼玉県不動岡(現 加須市)の地下100mにあることをボーリング 試料の検討から確認したそうだ。
ここに出てくる「加須(かぞ)市(加須低地)」は関東造盆地運動を見るうえでのキーポイントの一つで、加須市(加須低地)から荒川下流(東京低地)に掛けての線上が沈降の中心となっている(地形図参照)。例えば羽生市小松古墳の埋没速度は年間2.2ミリと言う驚くべき数値が計測されているようだ。実際これが1979年発見されたのは1.5mの溝堀りの際だったし石室の床面は地下約3mだったと言う。
考古遺跡の埋没自体は珍しいことでは無く、風や河川が運んできた堆積物に覆われ、20~30cm、時に50cm近く埋積されるのは普通に見られる。それとの比較でみてもこの沈降は際立っている。こういう例は関東平野中央部の至る所で見られる。
なお平野全体の平均沈降は年間0.7ミリ程度になるそうだ(これでも目を見張る大きさ)。

 

東京層(東京の基盤)の形成

日本列島は歴史的に何度も地殻の隆起と沈み込みを繰り返している。
又、地殻変動と言うより気象変動と言うべきかも知れないが約200万年前からの氷河期の始まりに伴い、氷期には海面が低下し関東堆積盆地が陸となり、間氷期には逆に海に没することが、1万年前の氷河期終了まで何回も繰り返された。

70万年前頃から日本列島の隆起がより顕著となり氷期の海面低下と相まって、関東でも上総層群が陸地となる。特に30万年前頃から周囲の隆起が顕著となって東京山地が高度を増し、それまで山から直接海に流れ込んでいた川が陸地を流れるようになる。これを「延長川」と言う。
平野部はおそらく関東造盆地運動によって逆に沈降が進みつつあっただろうから、急勾配で流れ落ちた川は今まで海に流し込んでいた大量の土砂を、流路も定まらないまま今度は地上に撒き散らしたことだろう。関東平野は一面の氾濫原(河原)となり礫層が堆積する。間氷期には海面が上がり海からの砂泥層も堆積する。
この時代堆積した砂泥層・礫層を「東京層」と言って広く東京全体の基盤となっている。古い地層はおそらく何度も氷河期の氷床に押しつぶされながら固く締まり、特にその上部、厚さ5~6メートルの礫層部分は東京礫層と言って固く締まっていることから高層ビルを建てる時の支持層となっている(※ 5)。東京層が堆積したのは立川以東で、立川以西は上総層群のままである。
なお上総層群の堆積は海の中に限られた訳で、この時代で基本的に上総層群の形成は完了したとみていいのだろう。

流れる川は土砂を堆積させるだけでなく出来上がった地表を浸食し谷も作った筈だ。その谷は海面上昇の際の砂泥が埋めたり………。
次に述べる狭山丘陵や多摩丘陵はこう言うメカニズムで出来たのだろう。

丘陵の形成

狭山丘陵はこの時古多摩川が置き残した「芋窪礫層」で出来ている。同じ頃神奈川では今とは違って西から東に流れていた古相模川が、狭山丘陵の一部(北部の頂部)を形成する「御殿峠礫層」を積み残す。又この時の礫層は府中市の浅間山(せんげんやま)にも見られるので、この当時多摩丘陵から狭山丘陵に掛けて、土砂を運んだ川は違っても同じような河原敷が広がっていたのだろう。その後多摩川の浸食によって切り離され、浅間山も狭山丘陵も台地の上の浮島のような様相を呈している。今それぞれ独自の「浮島」はかって同じ時代のいわば異母兄弟と言える。

この頃、火山活動も活発になり、八ヶ岳や箱根火山の火山灰が丘陵の礫層の上に堆積して多摩ローム層(※ 6)を作った。

※ 5
東京層、東京礫層
粒子のそろった細かい粘土層や砂層より、不均衡な礫層の方が基盤としては堅固(N値が高い)。東京礫層は上総層群と並んで建物の土台としては最も信頼できる基盤となる。
日本に高層ビル群が最初に建設されたのは新宿副都心である(霞が関ビル、世界貿易センタービルが先行するが、高層ビル群としては新宿副都心が最初)。
その理由は、淀橋浄水場跡地の広大な敷地が有ったことと合わせ、支持基盤としての東京礫層まで浅かった(20メートルほど)ことが大きな要因。つまりそれだけ打ち込む杭を短くできるし基盤に直接建てることもできて、費用、技術が容易だったから。
1957年に出来た東京タワーも東京礫層まで10メートルと言う立地から建設地が芝に決まったのだと。
一方東京スカイツリーは東京礫層まで50メートル。つまりそれだけの建設技術の進歩が有っての墨田区立地となったのだろう。

※ 6 
ローム層
主に火山灰が風化・堆積してできた地層のこと。赤褐色の火山灰質粘性土なので俗に「赤土」ともいう。「ローム(loam)」自体は、砂・シルト(粘性土)・粘土などが含まれた混合物を意味するもので、特に火山起源物質であるかどうかは関係ない。

関東ローム層
関東地方西縁の富士・箱根など、北縁の浅間・春名・赤城・男体山などの火山砕石物(火山灰)が堆積した地層。直接の噴火降灰と言うことでは無く、多くは風によって運ばれたいわばホコリ。その形成は噴火の時期によって10数万年~1万年前と言われる。鉄分の酸化により赤っぽい色をしてるが、最近1万年分の堆積つまり表面近くは黒色をしていて黒ボクと呼ばれることもある。灰の他軽石なども含むが、東京の場合噴火源から遠い為粒子も細かく、雨が降るとネチャネチャして靴にくっつくし、乾燥するとポサポサと粉状になって歩く靴にまとわりつく。

堆積した年代、地層などの違いにより、多摩ローム、武蔵野ローム、立川ロームなどと呼ばれる。

 

下末吉海進

下末吉海進は、約12万5000年前の間氷期に、日本各地の平野部に海が進入した大規模な海進である。その規模の大きさから縄文海進が起きた6000年前よりも下末吉海進が起きた時期(下末吉期)は温暖な気候であったとされている。横浜市鶴見区の下末吉地域にちなみ命名された。
下末吉海進も縄文海進と同様に日本各地で確認されているが、神奈川県では東京湾側、相模湾側から海が入り込み、綾瀬市や海老名市、厚木市付近まで海が入り込んでいたと考えられている。下末吉海進のときにたまった地層は、下末吉層または下末吉層相当層といわれ、神奈川県東部によく保存されている。下末吉層は神奈川県以外でも確認ができる。(Wikipediaから転載)

 

何度も海面の上昇・低下を繰り返してきた関東平野だが、12万5000年前の下末吉海進は最大で、当時の海水面は現在より5~6メートル(10~20メートルとの記述もある)高かったと推定される。現在の関東平野の大部分が「古東京湾」と呼ばれる浅い海で覆われ、房総半島は島だった。その海の中で、周辺の関東山地などからの土砂の流入・堆積、箱根火山などからの火山噴出物、及び海成堆積物が積み重なった。水の中では地層面が平坦になる。高いところは削られ低いところは砂泥が埋める。
この間氷期の終了後ヴェルム氷期の始まりによる海退で、関東平野は再び陸となり、下末吉海進による堆積は平坦な台地状の地形を残す。これが「下末吉面」と呼ばれる台地で、横浜市鶴見区下末吉にこの地層の発達した露頭部が見られ、ここを模式地としたことで名づけられた地層。
下末吉海進は現在の関東平野の原型を作った出来事と言える。

関東平野の中央部では関東造盆地運動によって沈降し、その後の武蔵野礫層の堆積に埋もれている。しかし武蔵野台地でも何ヶ所かは下末吉面が顔を出している場所が有る。
上掲地形図で赤円或いは赤楕円の部分が、武蔵野台地上の下末吉層。

 

疑問

ここで実はドシロウトなりに疑問が一つある。
 武蔵野台地上で顔を出している下末吉面は、おそらく何らかの理由で高いところが有って武蔵野礫層の堆積を免れたのだろう。事実武蔵野礫層より下末吉面の部分が標高が高い。
しかし、だ。多摩丘陵や下総台地など周辺部は関東造盆地運動による隆起で盛り上がり、地表部に露呈していても不思議はないとして、武蔵野礫層堆積前の関東中央部では、海成地層である下末吉面は非常に平坦だった筈だ。結構な厚さを持つ武蔵野礫層の堆積を免れるほどの凸凹が有ったのだろうか? しかも或る方向に傾いているのでなく場所も飛び飛びだし。
東京低地に下末吉面は(多分)無いが、それは関東造盆地運動による沈降や古東京川による浸食、それを埋める沖積層の堆積で下末吉面が埋没している、と言う説明で理解できる。しかし、だったらどうして武蔵野台地で残っているのか?

知っている人にとっては分かり切ったことで「何を愚かな」と言われるかも知れない。そう言う人にお願い。誰か教えて!!

 

最終氷期と武蔵野台地の形成

武蔵野台地の形成についてはどうもイマイチハッキリしたイメージを持てない。その土台となっている上記下末吉面での「疑問」と関連するのかも知れないが………。
下末吉海進によって堆積された地層がその後の氷期の進行に伴う海面低下で陸地化し、それを多摩川などが浸食、削り残した部分が台地として残ったのか、或いは下末吉面に多摩川などが土砂を積み上げて台地になったのか? おそらく幾つかの要因・イベントが絡み合って同時進行したのだろう。

 

以下、管理人の脳内妄想も加味しながらの「武蔵野台地形成」シナリオ。

下末吉海進を引き起こした温暖気候が終わり、およそ7万年前頃から最終氷期が始まる。
それに伴い海面が徐々に低下し、下末吉海進で出来た平坦な地層が陸地として顔を出す。
今でも奥多摩の広い山に降った雨は多摩川に集中する訳だが、小河内ダムが造られる以前、かっての土石流の凄まじさを御嶽渓谷などの巨岩で偲ぶことが出来る。山を削りながら流れ下ってきた古多摩川が、今の青梅付近で急に開けた平坦な地層の上に大量の土砂を堆積、青梅を扇頂とする広大な扇状地を作る。この堆積が武蔵野礫層であり、武蔵野台地の基盤となっている。武蔵野台地は日本でも有数の洪積台地(※ 7)。武蔵野台地にはこの礫層の上に関東ローム層が概ね5~15mの厚みをもって堆積している。

扇状地礫層の堆積は古利根川、古荒川などでも起こったことで、当時今の武蔵野台地と下総台地、そして当然大宮台地もこれら河川の堆積で一つの面として繋がっていたらしい。関東平野一帯は周りの山地から流れ込む何本もの河川の氾濫原だった。
地形図を見ると、今の武蔵野台地東端の鶯谷付近と、下総台地の西端、市川市が乗る国府台地の間が、東京低地の谷幅が最も狭くなっている。この谷はこの後述べる河川の浸食によるものだろうが、かってこの2点を結ぶ線がおそらく、押し寄せた扇状地礫層(武蔵野礫層)の末端だったのだろう。

更に氷期は進行し海面低下が著しくなる。最終氷期の最寒冷期は約2.1万年前だそうだが、この時代海水面は今より120メートル以上低下したという。台地を流れる川は海に向かって急激な下り勾配となり河流の浸食力は増大する。
当時の利根川(ほぼ現在の荒川の河道)、渡良瀬川(ほぼ現在の江戸川の河道)、多摩川は河谷を成し、当時陸地であった現在の東京湾内湾部の中央やや西寄りで合流し、古東京川となって現在の外湾部へ注いでいた。今でも内湾部水深30 - 80mの海底に河谷の痕跡が残っているそうだ。
この圧倒的な河川の浸食作用に加え、関東造盆地運動による地殻の沈降も加わって、現在の東京湾の凹地及び東京低地の谷は形成されたのだろう。削り込み(下刻)の深さは東京低地の南部で70メートルを超えるという。

河流は下方浸食と共に蛇行による側方浸食も行うので谷幅を広げる。これによりかっては一続きだった武蔵野台地と下総台地が大きく切り離される。同じように大宮台地も東側を古利根川、西側を古荒川などによって切り離される。
おそらくこの時に今の武蔵野台地の北辺、黒目川や不老川がその底を流れている谷も多摩川によって刻まれた。
更に、北上して利根川や荒川と合流していた多摩川は、自ら積み上げた武蔵野台地に阻まれて流路を南東に変更したのであろう、台地の西側を流れて東京湾に注ぐコースを取る。今より幅広く水量豊かな急流は、台地を削って河岸段丘を形成、その時に出来た段丘が国分寺崖線であり、立川崖線(青柳断層、府中崖線など幾つかの河岸段丘の総称)となる。
国分寺崖線は台地上の武蔵野面と浸食された立川面を分かち、立川崖線は立川面と多摩川低地を分かつ。それぞれの面には火山噴出物由来のローム層が堆積する。

 

縄文海進と東京低地

約1万年前、最後の氷期が終わり地球気温は上昇に転じ、関東地方の広い部分がふたたび海になる。温暖化と海面上昇は6千年前の縄文時代がピークで「縄文海進」と呼ばれるが、海面は現在より2~3メートルほど高かった。
この海進は貝塚の分布調査によって着想され、その規模も貝塚の分布で裏付けられている。東京湾は渡良瀬川河道では板倉町付近まで、利根川河道では川越付近まで湾入したらしい。この頃の広がった東京湾を指して奥東京湾と呼ぶ。
この海進により、最終氷期時に各河川が削って形成された谷地形に砂や泥が堆積する。この地層が沖積層であり、沖積低地(※ 7)、特に武蔵野台地の東側から東京湾に面した広いエリアを「東京低地」と呼ぶ。

台地と低地が隣り合う東京の姿が、この頃基本的に形成されたと言えるだろう。
その後海面がゆっくり低下するとともに、河川の埋め立て作用が加わり海岸線が前進し陸化してゆく。霞ヶ浦もこの過程で海から切り離された。
山の手台地の東端、上野台と本郷台に挟まれた低地は古石神井川が海に注ぐ東京湾の入り江だったが、徐々に陸化する。入り江入口に当たる不忍池は、その南部に僅かに高い砂洲が有った為取り残されて陸地化を免れた。

 

※ 縄文海進時の海岸線の様子を、現在と比較して表示してみました。クリックすると地形図が表示、マウスオーバーで縄文海進時の海岸線と切り替わります。
縄文海進比較地形図

※ 7
洪積台地も沖積層も更新世(洪積世)、沖積世と言う生成年代から来る区別も有るのだろうが、必ずしも完全には一致していない。…と言うことで、
大雑把に言って洪積台地は、氷河期の海面低下時、山からの「水」によって堆積した土砂による地層。
沖積層は、間氷期の海進時、海の中で(からの濁りなどが)穏やかに堆積した砂泥層。と言う理解でいいかと。

海食崖

山の手台地と総称される武蔵野台地東端(南北崖線軸)、或いはそれに続く「日暮里崖線(京浜東北線、或いは東北・上越新幹線に乗って北上したとき、上野駅から王子、赤羽に掛けて左側に見える崖)」と呼ばれる台地の縁。ここは高低差15~30メートルの崖となっている。
南北崖線軸は武蔵野礫層が押し寄せた末端だろうし、日暮里崖線は古東京川が削った浸食崖であろう。それだけでなく縄文海進時、この台地の根元が海の波によって洗われ今に見る急峻な崖となったものであろう。こういう地形を海食崖と呼ぶ。

なお海食崖は水際で発達、水の中では波による浸食は起きにくい。地上部の海食と風化作用が陸側に向かって進むに従い、水の中では平坦面が削り残され波食台(波食棚)となる。海面低下などによってこの平坦面が露出したものを海岸段丘(面)と呼び、例えば房総半島東側の九十九里浜などで顕著に見られる。

 

徳川家康と江戸幕府

ここまでで武蔵野台地を中心とする東京、関東平野の骨格がほぼ完成したとみていいのだと思う。
その後は主に人の手による変化が大きい。特に徳川家康が江戸に幕府を開き一連の施策を施した。

 

 

河川の役割と変遷

http://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/31160617.html

 

 

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