群れから社会へ

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社会と人間-2

人間の本質が「社会的存在」であり、そのことが他の動物との決定的な違いだ、と言うことを、社会と人間-1 で述べました。
人間は霊長類の一種として他の動物との、生物学的な共通性・連続性を持っています。同時に人間は他の動物とハッキリ区別できる、いわば飛躍としての社会的な存在でも有ります。

連続性を否定したとき、人間は「神の創造物」に祭り上げられるし、飛躍を無視した時、「生存競争・弱肉強食」など、生物進化の法則が(故意に捻じ曲げられて)人間の社会に持ち込まれる危険が生じます。

この、「人間も動物の、或いは生物の一種だから」と言うことで 人間の行動や精神活動まで、生物一般の法則、特に「生物進化の法則」で説明しようとする考え方を「社会ダーウィニズム」と言います。

ここでは「社会ダーウィニズム」の内容と、それが何故間違っているかと言う点について、又また理屈いっぱいに考えて見ます。


■ 生物進化説、色々

■ 生物進化論とダーウィン

現在地球上に何百万、或いは何千万種の生物が存在しているのか承知していませんが、これら現存するる全ての生物は、例外なく遺伝情報としてDNA(一部ウイルスはRNA)を使っており、その情報の蓄積方法、伝達方法、機能などは全て共通です。
このことから、生物は全て、絶滅した種も含めみな、約40億年前に生まれた、たった1匹(1個)の祖先生物から進化、分岐してきたものだと言うことが明らかになっています。

ウイルス(ウイルスが生物かどうかについては、意見が分かれます)、バクテリアから、アメーバ、ナメクジ、魚やカエル、アンモナイトや恐竜、ライオン、シマウマ、クジラにクジャク、カビやキノコ、チューリップにラン、イチョウ、ブナ、そして人間も含め、全ての生物は、もともとはたった1個の生物から分かれて来たのです。

今では常識とされている この考え方も、最初から常識であった訳では有りません。
西洋では長く、キリスト教の影響で旧約聖書の記述通り、人間も他の生物も、いや、この地球を含む全ての世界も、神が7日で作り上げ、その後進化と言うことは一度もなかった、と考えられてきました。そしてこのキリスト教の教えに背く考え方や主張には、時として激しい弾圧が加えられました。

今でもアメリカの特に南部の州では、いわゆる「創造論者」によって、学校教育にも神による天地創造「理論」を取り入れるべきだとの働きかけがなされています。
アメリカだけでなく日本でも、旧約聖書の記述どおりに「創造論」を信じている人、団体は結構有ります。

又、古事記や日本書紀の内容を、国語授業での文学作品としてではなく、社会科の歴史で扱うべきだとする反動的な動きとともに、2007年にはとうとう歴史の教科書から縄文時代の記述の削除などと言う、「天皇の御世」以前の歴史は語るに値しない、或いは邪魔だとする策動が、日本でも現実に起こっています。

しかしそう言う中で、生物と言うものは永久不変のものではなく、時間とともに変わってきたのではないか、と言う考えが台頭してきたのは、おそらく化石を見ることからでしょう。
その時点で見たことのない姿をした生物が、化石として出現する。その説明が求められたのでしょう。

有る程度系統だって提唱された近代的進化論は、18世紀中ごろからです。

■ 用不用説

先ず第一に、J.B.ラマルクの「用不用説」があります。
大雑把に言えば、良く使う器官は発達し、使わない器官は退化し、その状態は代を重ねるごとに顕著になる、と言う説。獲得形質の遺伝と共通。
つまり、キリンの首が長いのは、幾世代にもわたって、高い木の葉っぱを食べようと、常に首を伸ばしていたから、と言う考えです。

■ 自然淘汰説

次が本命の、チャールズ・ダーウィンが唱えた「自然淘汰説」です。 大雑把に説明しておきます。

生物の多産性

自然淘汰説は、先ず次のことを前提とします。
一般に生物は、成長して親になる個体数より、多くの子供を生みます。海の魚などは、一度に何万個、或いは何百万個と言う数の卵を産みます。これが全て育てば、海は魚で溢れかえりますが、しかし実際はそうでは無く、成長して親になるのは、平均してそのうちの2匹位です。
当然子供同士の間で、食料や住む場所など、資源をめぐっての競争があると思われる。

そう言う状況の中で、どういうことが考えられるでしょうか。

  1. 変異
    生まれた子供どうしの間には、さまざまな点で個体差が有ります。
    身体の大きさなどの形状的なもの、視力や走る速さなどの能力等など。
    その差は、生存にとってなんら影響の無いものも有るし、或いは非常に有利なものも有るし、不利なものも有る。

  2. 競争
    生物が利用できる資源は有限です。
    この場合「資源」とは、食料であったり生息する場所であったり、或いは繁殖の相手であったりするでしょう(特に、繁殖相手を巡っての競争を性淘汰といいます)。
    この有限の資源を巡って、固体同士の競争が存在すると考えられます。

  3. 適応度
    進化生物学で「適応度」とは残した子供の数で表されます。
    つまり、変異の中には資源を巡っての競争に有利なものも不利なものも有るでしょう。
    有利な変異をもった個体は、それによって生き残る可能性が高く、従ってより多くの子供を残すと考えられます。

  4. 進化
    若しその有利な変異が遺伝的なものなら、その変異は子孫を通じて次世代に継承され、集団中に広がるでしょう。
    そして集団全体にその変異が広がったとき、いわゆる「進化」が起こった、と言える訳です。

つまり色々な変異をもった個体が、生存競争の過程で自然のふるい分け(淘汰圧)に掛かり、環境に適用する形質だけが残った、と言う訳です。
キリンの首が長いのは、たまたま首が長い個体がいて、高い木の上の葉も食べることが出来たので生き残り、同じように首が長く、生き延びたもの同士の子供を通じてその形質が順次次世代に伝わり、今のキリンを形づくった、と言うことになります。

実際に進化が起きるには、地理的隔離等によって繁殖集団の規模が小さく固定されることが必要になります(ボトルネック効果)。繁殖集団が大きいままでは、変異が生じたとしても交配を通して薄められ、集団内に固定化されないでしょう。

■ 突然変異説

ドイツの、H、ド=フリースの説
オオマツヨイグサの研究から、新種が、暫時的に、中間形を経ずに出現することが有ることを観察。
これが進化の重要因で有るとし、突然変異と呼んだ。

突然変異による遺伝子の変異が、自然淘汰によって選択される事により、種の変化つまりは進化が起こるとされている。

■ ネオ・ダーウィニズム

チャールズ・ダーウィンの学説内容のうち生存闘争の原理だけを強調し、変異とその遺伝に関するダーウィンの見解を根本的に改めた、A・ワイスマンの考え、すなわち、彼は生殖質の独立と連続の思想に基づき、獲得形質の遺伝、つまりいわゆるラマルキズム的要因を絶対的に否定した。
これがネオ・ダーウィニズムと呼ばれたが、現代の自然淘汰説もその観念の発展上に有ると見て同様の名で呼ばれ、現在では主にそれをさす。 (岩波 生物学辞典 第4版)

現代進化論の主流

■ その他の進化説

その他、例えば………、

  • ウイルス進化説

  • 分子の自己組織能による進化説

等、自然淘汰による進化を認めず、或いは部分的にしか認めず、進化の原因をウイルスの感染に求めたり、分子の自己組織化能力に求めたもの。

確かに、生物のあまりに見事な適応を見るとき、全てを自然淘汰に求めるのに無理を感じることも有ります。
管理人の個人的な感想では、 分子の自己組織能による進化説 は魅力的。
しかし、未だ進化に及ぼすそのメカニズムがハッキリしていないことなど、今後に注目しているところです。

■ 社会ダーウィニズム批判

岩波「生物学辞典」第4版によると、「社会ダーウィニズム」とは、

チャールズ・ダーウィンの進化論における生存競争(生存闘争)による淘汰の理念を人間社会に当てはめる社会進化論の一種。
その理論に基づく政策といったものまでこの名で呼ばれることが多い。

ーウィニズムの受容が一段落した1870年代から登場し、第一次大戦までが主な流行期である。イギリスやアメリカでも隆盛を見たが、特にドイツでは、E.H.ヘッケルの影響下に多数の社会ダーウィニズムが輩出した。彼らの思想を具体化した優生学は、今日に至るまで影響力を持ち続けている。(後略)

と有ります。広辞苑でも………、

ダーウィンの進化学説、特に生物界における生存競争・適者適存の原理を人間社会に適用し、社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配するとする思想。

と有ります。
この社会ダーウィニズムを、根本に立ち返って批判しておきたいと思います。

■ 人間は、社会的な存在

人間は一つの生物種であり、動物の一種です。
しかしそのことをもって、人間の行動や、例えば社会的地位の違いを「自然淘汰」や「生存競争」などの生物進化論で、全て説明しようとするのは間違いです。
人間は動物であると同時に「社会的な存在」です。 社会を理解、規定するには社会についての科学、つまり「社会科学」が必要なのです。

社会も又、一つの自然史的な流れの中での「連続」と、社会としての特有な「飛躍」があることを、物質の運動と言う側面から見てみましょう。

■物質と運動

■ 物質と運動は切り離せない

「哲学の根本問題」と言うのが有ります。
世界は、そもそも物質か、観念的なものか、と言う問題で、これに対し 「物質」と答える陣営が唯物論、「観念など精神的なもの」と答える陣営が観念論と呼ばれます。
物質と観念は、哲学のもっとも重要なカテゴリーですが、ここでその詳しい説明は省きます。兎も角、「唯物論」「観念論」以外の第三の道、或いは中間的な立場は有りません。
私は唯物論者です。

物質は必ず運動しています。物質と運動は切り離せません。
運動と言うと、空間のなかで物体がその位置を変えることだけを考える人たちがいると思いますが、このような位置の変化、つまり場所の移動は「力学的な運動」と言って、運動のひとつの種類では有るが、これだけが運動では有りません。
哲学で言う運動は、もっと広い意味であって、物質のあらゆる変化のことです。

例えば、物体の温度の変化、或いは酸素と水素が化合して水になる化学変化も運動です。静止と言うことは相対的な意味でだけ言えることです。
地上に「静止」している石も、地球の表面に対して「相対的に」位置を変えない、と言うだけのことで、地球は自転しているし、太陽に対し公転しているので、 その意味では石も位置を変えています。
又、別の面から言えば、石を構成している諸分子は常に振動しているし、放射性元素を放出し長い間には崩壊します。
そう言う訳で、絶対的に静止している物質と言うのは有り得ません。そのことは量子論の不確定性原理でも規定されています。

神の一撃

かっては、始めに絶対的に静止した物質があって、それがいつの日にか何かの原因で運動を始めた、と言う考えが有りました。大物理学者のニュートンもそう言う考えをした一人でした。
そこで彼は、この静止していた物質を動かした最初の原因は何だろうか、と考えました。

この最初の原因は、物質的な運動であることは出来ません。と言う訳は、若しその原因が物質的な運動で有れば、この運動を引き起こした原因がさらに別に有ることとなり、従ってそれは最初の原因では有り得ないことになるからです。
そこでニュートンは、この最初の原因になるものは神だと考えました。すなわち神が「最初の一撃」を加えた、これによって、それまで静止していた物質が運動するようになり、それ以来ずっと物質は運動し続けている、と言うのです。
「神の一撃」と言う荒唐無稽な考えが出てこざるを得なかったのも、そもそも物質と運動を切り離して、最初に絶対的に静止した物質があった、と考えたからです。

尤も、ニュートンが本当に「絶対的に静止した状態」を想定し、「神の一撃」に頼らざるを得なかったかどうか?、それは分かりません。
若しかしたらニュートンも、物質と運動を切り離せないものと想定し、永遠の過去から物質は運動していた、と考えていたのかも知れない。

ただそれだと「神が世界を創った」と言う、教会の教えに背反することとなるので、当時の事情からして教会の顔も立て、「世界の始まりは神にお任せします。しかしその後は物理学にお任せ下さい」としたのかも知れない。

■ 物質の運動形態と運動法則

哲学で運動と言った場合、 力学的な運動だけでなく、広い意味での変化を言う訳ですが、 その運動形態も、ただあれこれ並べ立てるので無く、低いレベルから高いレベルへの階層があり、高いレベルへの発展が有ることを認める必要が有ります。次にその概要を述べます。

  1. 力学的運動
    力学的運動 すなわち空間のなかでの物体の位置の変化は、もっとも低い運動形態です。
    位置の変化、と言うことは、たとえば地球の表面に対して人間が動く、と言うように、二つ以上の物体の相互関係としてのみ意味を持ちます。

  2. 物理的運動
    二つの離れた物体が位置を変えた結果、衝突する場合があります。又二つの物体が部分的に接触しながら位置を変えると、摩擦が起こります。
    衝突と摩擦は熱を生じ、又ある条件のもとでは、音、光、電気、磁気を生じます。つまり力学的運動形態から物理的運動形態への移行が起こります。
    力学的運動は力学の法則に従っています。 だが電磁気学的現象は、もはや力学の法則では説明できません。運動形態が変わると、物質は新しい法則によって運動するようになります。
    それ以前の運動形態(今の場合には、力学の法則)が相変わらず作用し続けますが、それだけでなく、その運動形態に固有の法則(今の場合には物理学の法則)が付け加わるのです。

  3. 化学的運動
    さて、炭素と酸素を高温にすると、化合して炭酸ガスになるように、 物理的運動形態にある物質は、一定の条件のもとで化学的運行形態に移行します。
    複雑な化合・分解の過程で、高分子の化合物が作られてゆき(化学進化)、原初的地球の海の中で淡白体が合成されました。
    淡白体は、物質代車という生物体に特有の機能を持った高分子化合物であって、こうして極めて初歩的なものでは有るが、最初の生物が生まれました。
    すなわち、化学的運動形態から生物学的運動形態への移行が行われたのです。

  4. 生物学的運動
    地球上にひとたび生物が生まれると、それから後は進化論で良く知られるよう に、下等の種から高等の種への進化が次々に起こり、ついにはある種の類人猿から人間への進化が行われました。
    これは同時に、サルの集団が人間の社会になったことを、すなわち生物的運動形態から社会的運動形態への移行が行われた事を意味します。

  5. 社会的運動
    社会的運動形態において、運動している物質とは、人間に他なりません。
    人間は生物であり、従って生物に特有の諸法則(物質代車の法則、細胞分裂の法則、生殖の法則、遺伝の法則など)に従っています。
    又人間の体内で行われている消化などの過程は、化学の法則に従っていますし、熱伝導や電気伝導の法則のような物理学の諸法則も人間の身体内で作用しています。
    さらに、歩いたり腕を使ったりする場合は、力学の法則も作用しています。
    つまり人間は社会的運動形態よりも低次のあらゆる運動形態で作用している法則に従います。
    だがそれだけでなく、社会的運動形態に特有の諸法則、つまり社会法則に従っているのです。

このように、高次の運動形態では、それよりも低次の運動形態には現れなかった新しい法則の作用が現れます。
このことを理解しないで、高次の運動形態における物質の運動を、それよりも低次の運動形態における運動法則だけで説明出来ると考えるのは誤りです。

■ 社会と人間

つまり人間の運動(行動)と言うのは、「ヒト」の、動物としての特有な運動形態と言うよりは、ましてや遺伝子DNAの指図を受けていると言うよりは、多くは社会の仕組み、社会のなかでその人がどう言う立場にあるか、と言うことが原因になっている場合が多いのです。
ライオンやトラが、他の動物を襲って食べるのは、ライオンやトラの動物としての共通の行動様式です。
生きてゆく為、どの個体でも例外なく同じことをやります。 しかしそれ以上に無駄な殺戮は行いません。
しかし人間の場合、ヒトラーがああいうことをやったからと言って、それが人間の本質だ、と言うことでは有りません。

戦争がこの世から消えないのは、戦争で儲けを上げる軍需産業があり、ブッシュがイラクを叩きたがっているのは、ブッシュと深い関係にある石油資本が、世界第二の産油国であるイラクの、石油利権を支配したがっているからです。
その証拠に、ある意味ではイラクより突出している北朝鮮に対しては、態度が全く違います。

若し、戦争や犯罪をなくしたいとすれば、「戦争は人間の心の中の闘争心が生み出す。だから倫理や宗教などで、その闘争心を抑えなければならない」などとする空説法だけでなく、それを生み出す社会の仕組みにも目を向けなければなりません。

■ 社会ダーウィニズム批判

社会的存在としての人間を、無知からにしても或いは知っていて故意にしても、下位の運動法則である生物学的運動法則の、それも自然淘汰の法則を一面的に当てはめ、推し量ろうとする態度が、社会ダーウィニズムです。

ダーウィン自身、自分の主張がこのように誤解され、捻じ曲げられて適用されることを警戒し、自署の中で繰り返し述べています。

そもそもダーウィンによる「適応」とは、残した子供の数で計られる概念です。 「社会ダーウィニズム」で言われる、「優勝劣敗」、「勝者適存」などとは本来関係ないことです。
貧乏人の子沢山などとかって言われたことが有りますが、人間の社会での成功や「勝ち負け」を、残した子供の数で計ることなどしません。ビル・ゲイツの資産はしょっちゅう話題になりますが子供の数が経済誌の中心テーマになったことは有りません。

※ 人間の生物的進化と社会の発展

最後に、「人間の進化」と社会について、全くの個人的見解を………、

人間も生物としての進化が有るのか?

人間もホモ・サピエンス・サピエンスとして動物の一種です。だから他の動物と同じように今後「進化」と言うことが有り得るのだろうか?進化した結果、新しい「種」が誕生するのだろうか?、と言う素朴な疑問が提起されることが有ります。
私は懐疑的、否定的です。つまり人間は多分今後(何らかの要因で人類が絶滅する迄)、基本的に生物としての「進化」は無いであろう、と思っています。

進化の手順

生物の進化、と言うことを考えるとき一般的には次の手順を踏むことが必要とされるでしょう。

  1. 変異
  2. 自然淘汰
  3. 隔離

変異

人間も動物の一種である以上、進化の素材としての突然変異は随時発生しているかも知れません。その大半は生存に中立、或いは不利な変異であるでしょうが。
この点では他の動物と共通だと言えるでしょう。

自然淘汰、淘汰圧

生物集団中に遺伝子型の異なった個体、つまりは変異が有り、その間で生存率や妊性(一般には適応度)に差が有るとき、淘汰が働くと言い、そのような差を引き起こす作用または操作を淘汰と言う訳です。そしてその作用の強さの度合いを、物理学の圧力になぞらえて淘汰圧と言います。

淘汰圧が強いとき、生存に不利な変異、或いは平均的な変異は排除され、生存に有利な変異だけが選択されることになり進化の方向性が顕著となる筈です。
自然のギリギリの環境に置かれている野生の動物では、常に厳しい淘汰圧にさらされていると言えるでしょう。

人間の場合はどうでしょうか。
人間も上記のように変異は有る訳ですが、そこに働く淘汰圧を考えたとき、他の野生の動物とは事情が全く異なります。
例えば、深刻な障害を持って生まれた個体は別として、多少の「生存に不利な変異」は医学の発達によって排除されることなく生存し、子孫を残します。そしてその度合いは医学の発達とそれを教授できる社会的・経済的な位置づけによって変わってきます。

個体の変異を無視は出来ないにしても、主要な側面は社会的なものです。
早い話、今、健康で有ってもワーキングプアやホームレスで健康保険証を持てず、医者にかかれない人よりも、多少不利な変異を持っていても充分な医療や栄養を享受できる人の方が、長生きし子孫を残す可能性が高いでしょう。

日本人の平均寿命が長く、アフリカの一部の国のそれが短いのは、何も日本民族が「有利な変異」を持っていて、アフリカの住民が押しなべて「不利な変異」を持っているからでは有りません。
日本は国民皆保険の制度があり、国民全てが曲がりなりにも一定の医療を享受できたからであり、半世紀以上に渡って戦争や内乱を経験せずに済んだ、などの要因が大きく、それに比べてアフリカの一部では栄養状態も医療を受ける体制も不備で、又、往々にして内乱などによって国民の多くが若くして命を落としている状況が有るからでしょう。

つまり、日本人とアフリカ人の生物としての差よりも、社会的・経済的な違いによるものです。(この、社会的・経済的な差異を「淘汰」として理解し、優勝劣敗・生存競争を合理化する態度が、社会ダーウィニズムです)。 

多少の変異は医療をはじめとする社会的な技術・文明によってカバーできるし、社会の仕組み全体の進歩によって全員がその恩恵を被ることが出来るようになるでしょう。
要するに生物学的な自然淘汰の篩(ふるい)に掛かることは、ますます少なくなることでしょう。

隔離

進化にとって「隔離」も重要です。上でも述べていますが、仮に有利な(或いは不利な)突然変異が生じたとしても、繁殖集団が大きく遺伝的交流が幅広くなされた場合、その変異は集団中に広がったり固定することは有りません。
進化には地理的隔離など、繁殖の隔離が必要です。

その対極が現在の人間でしょう。
地球規模での有りとあらゆる交流の中で、進化に繋がる変異が固定化される条件は殆ど無いと、私は考えます。

 

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