群れから社会へ

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社会と人間-1

自分の脳の延長とも言うべきコンピュータを作る迄になった人間。
500万年(700万年)前、元々はチンパンジーなどとの共通の祖先から出発したヒトが、ここまで他の類人猿から隔たってきたその要因として、「道具」と「言葉」から考えて来ました。

しかし、 人間 を考える上で、どうしても「社会」抜きで語ることは出来ない。
そもそも、道具も言葉も社会的なものです。 その辺を含めて考えて見ましょう。


■ 人間の本質

■ 道具、言葉、そして二足歩行までも…。

人間は、身体器官の延長では有るけれども、直接遺伝子に依存しない「道具」を作り、自然に働きかけると言う道を踏み出すことにより、他の動物のように、生物進化による身体機能の「改良」を待つまでもなく、急速に、限りない進歩・発展の可能性を開きました。

そして又、人間は「ことば」を持つことによって、仲間同士複雑な意思の疎通を可能としただけでなく、ことばを通じて、外界を単に「感覚」するだけでなく、一般的、抽象的に反映することを可能にし、抽象的思考・概念的思考を獲得して来ました。

■ 道具は遺伝子に依存しない

道具もことばも、直接人間の遺伝子に依存せず、つまり本能的なものではなく、人間の進化の過程で、後天的に獲得してきたものです。
このことは同時に、道具にしてもことばにしても、それを使いこなすには社会的な訓練が必要になる、と言うことを意味します。
昆虫などは相当複雑な振る舞い(例えば空を飛ぶ、と言うこと一つ取っても)をする種も有りますが、それらの行動は全て本能によるもので、 一切の教育・訓練を必要としません。

■ 道具も言葉も、社会的訓練が必須

しかし人間の道具やことばは、教育・訓練なしではどんな初歩的な使いまわしも出来ません。
道具やことばの使用だけでは有りません。人間は直立二足歩行を特徴とする生物ですが、この最も基本的な能力でさえ、生まれたばかりの赤ん坊が、本能的に直立二足歩行を始めたり、時間をかければほっておいても本能が働きだして、直立二足歩行が出来るようになる訳では有りません。
牛や馬が生まれて30分もすれば、よろけながらも一人で(一匹で)立ち上がって歩き始め、イルカの赤ん坊が生まれて直ぐに泳ぎだすことと比べたとき、人間の幼児はあまりにも無力です。
つまり、直立二足歩行という、人間として最も基本的な特徴でさえ、人間の進化の過程で後天的に獲得した能力であり、その実現には社会的な訓練が必要なのです。

立って歩く、と言うことさえそうなのですから、まして人間の「内面」についてはなおさらです。
人間の脳は、社会的に訓練されて始めて、人間として機能するので有って、社会から切り離されて育った場合には、決して人間らしい働きを示すことは有りません。

何が言いたいかというと、だから人間は、生まれながらにして「人間性」とか、まして神によって人間として作られた永遠不滅の人間的尊厳などというものを、最初から持っている訳ではない、と言うことです。
全て、社会の中で、社会的訓練を受けて初めて人間に「なる」と言うことです。

今「ネグレクト」による、幼児の人格障害が、深刻な問題として注目されています。
ネグレクト、つまり色々な事情で、親、主に母親から、抱かれたり、関与されず放置されたまま育てられた(養育放棄)幼児が示す症状です。
「笑わない」「無表情」「無関心」「生気が無い」などなど。

或いはTVだけを見せられて、つまりTVに子守をさせて親が殆ど子供に接しないなどの状況で、人間的な感情や情緒を獲得しないまま成長するケースが報じられます。


※ ハードとソフト、BIOS

いずれにしても、人間はそれぞれの発育段階に応じて、周りと、つまり社会と密接に、有機的に交流できないと、ハードとしての人間には何の障害も無く生まれてきたのに、人間としてのソフトウエア形成に取り返しのつかない結果を招くのです。
そして又、障害を受けたソフトウエアは、ハードに対して、つまり身体の発達にも反作用をもたらすことも有るのです。

「コンピュータはソフトが泣ければただの箱」とは良く言う言葉です。
人間の身体と脳も、発達に応じて社会的なさまざまな仕組み・ネットワーク等、「ソフトウエア」が正常にインストールされなければ、人間として機能しないのです。

勿論その社会的なソフトウエアを受け入れる基礎的な枠組み、コンピュータで言えば「BIOS」に当たるものは、生まれながらにして、遺伝子的な機能として備わっているでしょう。
人間の子供は、社会的な言語環境(主に両親、家族同士の会話、話しかけ)の中にいれば、おおむね三、四歳で急速に言葉を覚えます。しかし同じ環境にチンパンジーをおいてもそう言う訳にはいきません。これはいわばBIOSの違いと言っても良いかも知れません。

コンピュータの起動段階において、BIOSが如何に重要な役割を果たし、それなしにはそれ以降のオペレーティングシステム、つまりは基本的なソフトウエアの取り込みが不可能であったとしても、BIOS自体の、ソフトとしての制御機能は極めて限られた範囲です。
このBIOS的な、僅かな違いこそが若しかしたら1,6%の、ヒトとチンプの遺伝子的な差異なのかも知れません。しかしそれによってヒトは、初めて社会における広大なネットワーク、ソフトウエアと繋がることが出来るのです。

人間も又、生まれてからの社会的なプログラムによる制御と、それを受けての自主的、能動的な働きが決定的に大きいのです。

なお、安易に人間をコンピュータに例えて説明してみましたが、あくまでこれは便宜的な例です。人間の本質はコンピュータより遥かに広く深いものです。

BIOS についてはこちら参照

■ 社会的存在としての人間

■ 生まれながらの「人間性」など無い

ウシやウマ、或いはミツバチは生まれながらにして、ウシでありウマであり、そしてミツバチです。 しかし、人間は上記のように、生まれながらにして「人間性」と言うものをそなえている訳では有りません。
可能性としての人間であるに過ぎず、社会との関係の中で始めて現実の人間に「なって」行くのです。
つまり、人間は他の動物と違い、単に生物的・生理的な存在で有るのではなく、特に社会的な存在だ、と言うところにその本質を持っているのです。

上記のように社会は人間にとって、単にその中で暮らす、いわば外的なものではなく、人間そのものを作り、形成する、人間にとってまさに内的な存在です。

そもそもこうした人間の特質そのものが、道具を用いた共同作業によって生きる、と言う道に人間の祖先が踏み込む中で、次第に歴史的に形成されてきたものです(道具と人間参照) 。
道具は人間の身体器官そのものではなく、従って遺伝子によって親から子に伝えられた生理的な本能によって、作られたり使われたりすることの出来ないものです。
道具の製作・使用は社会的な学習によってのみ習得され、だからこそ又それは、社会的、歴史的にどこまでも進歩・発展させていくことが出来るのです。
このことが、つまり社会的な存在である、と言うことが、人間と他の動物を分ける決定的な要素なのです。

遺伝的な性質に殆どの違いが無いにも関わらず(「人間の本質?」参照)、人間と他の類人猿とのここまでの違いは、ひとえに人間が「社会的な存在」であることによります。

■ 社会は常に具体的

ところで、個々人が現実の人間として成長してゆく過程で、関ってくる社会とは常に「具体的=歴史的に特定な」社会です。
どんな 社会とどのようなかかわり方をしているか、によって、生理的素質としては同じ人間でも、その人間としての具体的なあり方、その「内面」は大きく違ってくるのです。

縄文時代の人間の脳、古代人の脳、中世人の脳、そして現代人の脳が、生理的な素質・構造の点で、殆ど変わらないのに、その脳の営みとしての意識内容は著しく違っています。

又、同じ社会でも、その中でどう言う位置にいるか、と言うことが又その人の意識を大きく規制します。
アメリカのブッシュが、何が何でもイラクを攻撃したい、と「思う」のは、ブッシュが、たまたまそう言う人間性を持っていた為では有りません。
ブッシュがアメリカのテキサス出身で、地元の石油資本の利益を代弁し、イラクの石油利権が欲しい、と言う「社会的存在」であること抜きには考えられないでしょう。
又、戦争をすれば儲かる人たち(ロッキードやグラマンその他の軍需産業)の利益を代弁する「社会的立場」に立っているから、必然的にそう「思う」のです。

今、日本では今まで考えられなかったような荒っぽい犯罪が多発しています。
勿論、外国からの犯罪者集団が入ってくる、と言うような特殊な事情も有るでしょう。
しかし、不景気、倒産、リストラ、ホームレスと言うような社会状況の中、追い詰められ、守るべき生活を失った人が、イチかバチかで強盗でもしようか、と考えても不思議は有りません。
どの道先行き真っ暗で、自殺でもしようか、と言う人が、仮に失敗しても失うものがないと言う状況で、犯罪に踏み出す垣根はまことに低いと言わざるを得ません。

人間性や、人間らしさということを論じる際に 、「人間性」や「宗教的心情」或いは「命」などと言うものを、単に抽象的に論じても何にもなりません。常に現実の具体的な社会とのかかわりの中で、その社会を変えて行く事とあわせて論じなかったら、それらのことばはは、何の意味を持たない浅薄でノッペラポウのものにならざるを得ません。

逆に人間の本質を「利己心」や「闘争本能」に求め、戦争や弱肉強食がが避けられないものとする「解釈」も間違いです。

こう言う二つの解釈から出てくるものは、人々に向かって自分に内在する善良な「人間性」に立ち戻ることを呼びかける、抽象的で空疎な立場か、反対にたちの悪い「人間性」の表れを、法律、その他の強制手段で抑えると言う発想しか出てきません。

 

 


 

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