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前頁で触れた「抽象的思考」は又「概念的思考」とも言われます。
概念はことばによって表されます、しかしことばと同義では有りません。
概念を考えることで、人間の思考についての、より深くい理解を目指します。
ことばを通して「具体的思考」と「抽象的思考」について、前項で若干触れました。
具体的思考とは、事物から成り立っている個別的かつ具体的な状況があって(例えば、オリの外にバナナが有るけれども、そのままでは手が届かず、一匹では台が重くて引き寄せることも出来ない、と言う状況があって)、その状況の中である目的を達成するにはどうすれば良いか(この例で言えば、バナナが載っている重い台を引き寄せるにはどうすれば良いか)を考える場合の思考です。
それに対し、抽象的思考とは「重いものを引き寄せるにはどうすればよいか」と言うように、一般的に問題が与えられている場合に、これに対する答えを見出そうとする思考です。
抽象的思考の場合には、問題そのものがことばによって与えられています。と言うのは事物は常に個別的・具体的事物ですが、ことばは一般的なものを表すことが出来るからです。
そして、このようにことばによって表された一般的な問題を解決する為には、思考も又ことばを用いて行われるので、抽象的思考は常にことばと結びついています。
抽象的思考は又概念的思考 とも呼ばれています。ことばを用いて思考すると言うことは、概念を用いて思考する、と言うことでもあるからです。
ことばと概念は非常に密接に結びついていて、ことばなしに概念を表すことは出来ません。しかし、ことばと概念は全く同じでは有りません。
最初に、"概念"を広辞苑で引いて見ました。
と有ります。
先ず 2 の「大まかな意味内容」と言う、概念についての説明は確かに間違ってはいません。しかしウルサイことを言いますと、「では意味とは何だ」と言う、現代言語学でも明確な定義のされていない問題にぶつかるのですが、マッ、ここでは置いておきましょう。
より問題なのは1 です。
1 の前段はともかく、後段については大いに誤解を生む恐れが有ります。次にこの辺を足がかりにして、少し具体的に「概念」の中身に立ち入ってみてゆきましょう。
そもそも「概念」とは何でしょうか。
最初に上記 1 の前段から考えて見ましょう。
我々を取り巻いている世界のさまざまな事物・現象は幾つかの性質・特徴を持っています。これらの性質を、哲学で「徴表(ちょうひょう)」と言います。
例えば、水とアルコールは両方とも無色透明で、目で見ただけでは区別がつきません。
しかしアルコールは火を付ければ燃えるし、特有の匂いを持っています。水は火を付けても燃えないし、何の匂いも有りません。
この場合、「無色透明な液体」と言う徴表は、水とアルコールに共通の徴表であり、「燃える」「特有の匂い」と言う二つの徴表は、水とアルコールを区別し、アルコールだけに属する徴表です。
次に徴表には本質的徴表と、非本質的徴表とがあります。
例えば酒は「アルコールを含む飲み物」であって、アルコールを含まない飲み物(ジュース、コーラなど)は酒ではないし、又アルコールを含んでいても飲めないものは、酒では有りません。
このように、ある事物に必ず属しており、それが欠けれていれば、もはやその事物ではないような徴表を、その事物の「本質的徴表」と言います。
それに対し、酒にはその種類によって色や匂いの違いが有り、又アルコールの含有量も違います。
特定の色や匂いを持つと言う徴表や、アルコール含有量が、例えば15パーセントであるとか、25パーセントであると言う徴表は、それがそのとおりで有っても多少の変動があっても、酒であることに変わりは有りません。
このように、ある事物に属していてもいなくても、その事物がそれであることに 変わりが無い徴表を、その事物の「非本質的徴表」と言います。
さて、そこで、概念とは、それぞれの事物・現象に属する全ての本質的徴表を一まとめにして反映したもののこと、です。
そしてこの場合「アルコールを含む、飲み物」が、「酒」と言う概念の内包となり、その内包によって説明されるすべてのものが、「酒」概念の外延となります。
概念はことばによって表されます。又、ことばなしに表すことは出来ません。
例えば「未成年者は酒を飲んではいけない」と言う場合、それは「アルコールを含む」「飲み物」と言う本質的徴表を持つ全てを飲んではいけない、と言うことであって、この場合の「サケ」と言う語は、日本酒でもビールでもウイスキーでも全ての酒(酒一般−外延)を表しています。
つまりこの場合には「サケ」と言う語は概念を表しているのです。
そしてこのような概念を表すには「サケ」と言う語を(或いは何か、その言い方に当たる語を)用いない訳には行きません。
入れ物(徳利、コップなど)に入れた酒を指差したとしても、それはその入れ物に入っている特定の(個別的な)酒を表すだけで、酒の概念(つまり、酒とは、と言うこと)を表すことは出来ません。
しかし又、ことばは常に概念を表している訳では有りません。
「昨日、二人で一緒に飲んだ酒は、うまかった」と言う場合には、昨日飲んだ個別・特定の酒のことを思い浮かべているのであって、酒一般のことを言っているのでは有りません。
前項で述べたように 、ことばは共同作業の必要から、意識内容を伝達する手段として生まれました。
そして、ことばを使い始めた原始人は、おそらくはじめのうちはことばを、個別・具体的なものを表す手段として使ったのでしょう。だから、ことばと概念の成立とは同時では有りません。
今でこそ、大多数の語は概念と結びついていて、前の例のようにただ「サケ」と言えばそれは概念を表し、個別・具体的なものを表す為には「昨日、二人で飲んだ酒」と言うように長い表現が必要になります。
しかし、概念が成立する以前の原始人のことばは、逆に短い表現が感覚内容を表したのでしょう。
ところが、これも前項で述べたように、ことばが直接感覚内容と1対1で結びつく必要が無い、と言う多義性の可能性から、ことばが一般的なものを表すようになり、このことが同時に、一般的なもの・抽象的なものを思考する能力を持つように人間の意識を発展させたのです。
概念がどのように形成されるか、これは非常に難しい問題です。
先ずはじめに、概念の形成についての間違った説明を紹介しておきます。
これは上記広辞苑の記述1 の後段での説明と同じです。
これは、例えば、ウマ、ヒツジ、サル、トラなどの動物を比較し、その持っている性質(徴表)を分析すると、 それらの一つ、又は幾つかだけに有る性質(例えば「ヒヅメが有る」と言う性質はウマとヒツジには属するが、他の二つには属しない)と、それら全てに属する性質(例えば、温血、胎生、メスに乳腺が有るなど)を区別することが出来る。
この前の性質を全て捨てて、後の性質だけを全て数え上げ、それらを一まとめにして捉えると「哺乳類」と言う概念が得られる、と言うのです。
これは簡単につづめて言えば、比較・分析・捨象(抽象したものを一まとめにすること)によって概念が形成される、と言う主張です。
前節で述べたように、本質的徴表を探し出せばよい訳ですが、哺乳類にとって何が本質的兆票であるかはいきなり分ることではないので、このような手続きを経て、最後に取り出された性質を本質的徴表とみなして概括すれば、概念が形成されると言う訳なのです。
だが、この説明は逆立ちしています。
このように説明する人たち(例えば、ジョン・ロック(1632−1704)と言うイギリスの哲学者)は、既に「哺乳類」と言う概念を知っていて、したがって又哺乳類の本質的徴表が何であるかも知っているのです。
だからはじめに比較される動物として、ウマ、ヒツジ、サル、トラと並べることが出来たのです。何故ここにカエルとかカタツムリを並べなかったのか、それはカエルやカタツムリは、哺乳類の本質的徴表を持っていないことをあらかじめ知っているからです。
このように「哺乳類」と言う概念をあらかじめ前提としていおいて、この概念の形成を説明するのでは説明になりません。この概念が形成される前には、カエルやカタツムリをのけて、ウマやヒツジ、サル、トラだけを比較すると言うことは思いつかない筈なのです。
では、どんな説明が可能なのでしょうか。 頭の中で考えただけでうまい説明が見つかる訳は無いのです。
言語の歴史は、概念の形成過程を知る上で最も参考になると思われますが、ことばは化石に残りません。
そこで現在地球上に存在している未開人の言語に手がかりを求めるか(しかしこれも急速に難しくなっていますね。偵察衛星で地球上をくまなく走査し、新たな未開人の集落などが見つかれば、とっくに日本のマスコミが、視聴率至上主義で入り込み、あっという間に「文明」を持ち込んでしまう)、又は子ども、特に幼児のことばに手がかりを求める他有りません。
ここでは児童心理学者たちの研究に材料を求め、概念の形成の問題に光を当てて見ましょう。
ピアジェ(スイスの心理学者)は、自分の長女が1歳1ヶ月の時に、部屋の窓の外を通過する列車を指差して「チェチェ」と言い、列車が通るごとにそれを繰り返したが、しかしその数日後で、別の窓から見えた自動車、馬車、歩いている人に向かって「チェチェ」と言い、又、父親であるピアジェが、「居ない居ない-バア」をした時にも「チェチェ」と言ったと述べています。
又別の観察者の報告によれば、有る1歳8ヶ月の幼児は、ビロードのおもちゃの犬を「ヴアー」と読んでいたが、その後で、生きた猫と母親の毛皮の外套を、同じように「ヴアー」と呼んだと言うことです。
このような観察事実は、有る特定のものを指示する為に使われていた幼児語が、それと同じ特徴を持つ他のものを指示する為にも使われるようになってゆく過程を示しています。
すなわち、ピアジェの長女の場合には、窓の外を通過する列車と言う特定のものを指示する「チェチェ」と言う語が、彼女の視野に現れたり消えたりすると言う同一の特徴を持つ、他のものをも指示するようになったのであり、二番目の幼児の場合には、おもちゃの犬という特定のものを指示する「ヴァー」と言う語が、手触りの良い長い毛を持つと言う、同一の特徴を持つ他のものを指示するようになったのです。
これらの場合に幼児は、一つの特徴にもとづいて、「窓の外を通過する列車、自動車、馬車、歩いている人、居ない居ない-バアをする父親」を、又「おもちゃの犬、生きた猫、毛皮の外套」を一つのグループにまとめて、それを他の者から区別しているのです。
このような幼児の思考によって形成された事物のグループは、たまたまその幼児にとって強い印象であった或る特徴にもとづいて形成されたもので、主観的であり、崩れやすいものです。
それらのグループに入れられた諸持物相互のあいだには、客観的な共通性は無く、その幼児の印象にとってだけある共通性を持っているのです。だからそのようなグループは、ハッキリした方向付けなしに広がって行きます。
ヴィゴッキー(ロシアの心理学者)は、このような思考を「複合的思考(コンプレックス思考)」とよんでいます。それは子供の成長過程で色々な違った形態をとって現れます。
色々な色や形や大きさの物体を多数与えておいて、その中から一つの見本を取り出してこどもに与え、それの仲間になる物体を選び出させる、と言う実験をすると、あるこどもは同じ色のものを、あるこどもは同じ形のものを、あるこどもは同じ大きさのものを選び出してグループを作ります。
だが又、それぞれ違った形や色をしたものばかりを選び出して1グループを作り上げる場合もあるのです。
前の場合には、与えられた見本に、こどもが認めたある特徴が核になって、同じ特徴を持つものが同一のグループに入れられるのに対し、後の場合には見本として与えられたものに備わっているさまざまの特徴を補うような特徴を持つ物が選び出されて、一つのコレクションが作られるのです。
前の場合には類似にもとづく連合が働いているのに対し、後の場合には対照にもとづく連合が働いていて、父親、母親、兄、弟、姉、妹から一家族が形成され、コップ、受け皿、さじから一組の食器が形成されるように、違った特徴を持つ事物の一組が作り上げられるのです。
さらにヴィゴッキーが「連鎖的複合」と呼んでいる場合があります。
前と同じ実験で、こどもは与えられた見本が三角形の物体だとすると、先ず三角形のものを選んで行くが、途中で、たまたま青い三角形の物体を選んだとすると、今度はそれに(はじめに与えられた見本は青色でないにもかかわらず)青い物体を(形の相違に構わず)付け加えて行き、又途中で、青い半円形の物体を選んだとすると、今度は(色の相違に構わず)円形や半円形の物体を付け加えて行く、と言うのです。
連鎖的複合の特徴は、最初に与えられた見本が一貫してグループの核をなす必要がなく、途中で次々に基準になる特徴が移ってゆき、この連鎖の個々の環を通じて意味が移動する、と言うことに有ります。
ヴィゴッキーは、「連鎖的複合を複合的思考の最も純粋な形態と見ることが出来る」と述べています。
さて、子どもの思考と原始人の思考とを全く同じと考えることは出来ません。子どもが思考する場面は主として遊びですが、原始人は生命の危険に常に脅かされているような実生活の場面で思考することを強いられているのです。
又、子どもは既に完成されたことばを持つ大人の世界に取巻かれて常にその影響の下にあるのに、原始人は極めて未完成なことばを用いて思考したに違いないからです。
だが、前述のような児童心理学の提供してくれる資料は、人類の歴史上で概念が形成されるに至る過程に多くの示唆を与えてくれます。
幼児は自己中心的であり、自分に対して強い印象を与える特徴にだけ注意を向けているようです。何が強い印象を与えるかと言うことは、原始人の場合は幼児の場合と非常に違っていたに違い有りません。
しかし原始人の場合にもその生活維持に深いかかわりを持つような事物の特徴(それは必ずしもその事物の本質的徴表とは限らないが)が強い印象を与えたに違いなく、そのような強い印象を与える特徴にもとづく事物のグループ分けが行われ、このようなグループが同じ語で呼ばれたことでしょう。
その限りでは原始人のことばも自己中心的(又は、人間中心的)であり、主観的であることを免れなかったと思われます。
だが、主観的印象によって同一のグループに組み分けされた諸事物は、必ずしも客観的に同じ性質を持っている訳では有りません。
したがって 実生活でこれを同一に扱おうとすれば、その試みは事物の客観的性質に抵抗されて、失敗せざるを得ません。
おそらく原始人は、さまざまの経験の中で、実践上で事物の客観的性質による抵抗に出会い、多くの失敗を通して、主観的印象に基づく事物のグループ分けを改め、次第次第に、客観的性質にもとづく事物のグループ分けに近づいて行ったものと思われます。
そして、客観的性質にもとづく(或いは少なくともそれに近い)事物のグループが同じ語で呼ばれる場合には、それだけ思考が、より客観性を持つわけであり、客観性を持つ思考によって実践が導かれる場合には、それだけ実践上の失敗が少ない訳ですから、連鎖的複合の中から、比較的客観性の程度の高い、すなわち事物の本質的徴表にもとづくグループをある語が指示するような場合が、淘汰の結果残されてゆく、と言う結果になったのではないでしょうか。
既に概念が形成されており、その概念を表す大人のことばに囲まれている子どもの場合にはわずか数年の成長過程で、複合的思考から概念的思考への歩みが実現されるのですが、原始人がこの過程を歩むには、おそらく何百、何千世代と言う長い年月が掛かったことでしょう。
未開人の思考にはそのような過去の複合的思考の痕跡が残されています。
いずれにせよ、人類は複合的思考の段階を通って、初歩的な概念を形成するにいたり、概念的思考を行う中で、より高度の概念を形成して今日に至ったものと考えられます。
概念の形成過程は極めて複雑な過程で有ったに違い有りません。