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"言葉"を広辞苑で引くと「意味を表すために口で言ったり字に書いたりするもの。言語」と有ります(その他にも関連して、色々書いて有りますが)。
通常、「意思や情報を伝達する手段」 として、言葉・言語は理解されていると思います。
しかそれだけに留まらず、言葉は、人間の思考そのものであると共に、人間そのものを形成した、と言えるのです。
道具と人間 で述べた「道具の製作、及びそれを使っての自然への働きかけ、つまり労働」と並び、言葉は、人間が人間となる為の二本柱です。
ヒトが言葉を獲得したのは何時ごろか?、を明らかにすることは非常に難しい問題のようです。
言葉は道具と違って後に残りません。発せられた瞬間に消えてしまいます。又、声帯など発声器官や言語を司っている脳の特定の領域も、化石として殆ど残りにくい部分です。
僅かに喉の骨格や、頭蓋骨から推定される脳領域の発達程度などが、判断の材料になる程度でしょう。
その為も有って、専門家の間でも大幅な意見の違いが有るようです。
現代人の脳で言語に係わっている領域として、ブローカ野とウェルニッケ野を挙げることが出来る訳ですが、一部の専門家は残された頭骨の内型化石から、200万年前(ホモ・エルガスターの時代)には既に、脳の言語領域が増大していた、と言うし、有る専門家はネアンデルタール人でさえ言語を持たなかった、と結論しています。
なにしろ1865年、パリで開かれた言語学会で、言語の起源に関する論文は受け付けないと言うことを会則で決めた、と言うことを以てしても、如何に終止のつかない難しい問題であるか想像がつくと言うものです。そして今後も結論の出ない問題であるのかも知れません。
私のドシロート的個人的期待感からすると、コトバが果たした「人間化」への役割の大きさから言って、ネアンデルタールでさえ言語を持っていなかった、との見解には同意しかねるところです。死者へ花を手向ける等、相当高度な精神性を発揮していることが分かっているネアンデルタール人の、その抽象的精神性を裏打ちするものとして、ある程度組織だったコトバを駆使していたで有ろうし、いて欲しかったと思う次第です。
ネアンデルタールが言語を持っていなかったとする一つの根拠として、化石による喉の形状からして、今の我々が使いこなしている母音を発することが出来なかった筈だ、と言うことが挙げられています。
しかしこれはおかしな話です。
確かに母音を使いこなしている今の我々からすれば、母音を封じられた不自由さは大きいと想像できます。母音無しではウィスパリングボイスにしかなりませんしね。
しかし元々そんなものが最初から無かった立場からすれば、それを不自由だと思える理由は全く有りません。
若し幾つかの子音が使えたとしたら、或いはプラス1個の母音が使えたら、その組み合わせの範囲で言語活動をしていたと推論することに無理なことは有りません。
ネアンデルタールの言語能力については次のような状況証拠もあります。
イスラエルのケバラ遺跡でネアンデルタールの舌骨が、まことに幸運にも発見されています。形状は現代人のそれと殆ど変わらず、従ってその機能も現代人に近いと推論されます。
勿論言語は他の器官や脳と深く関連するので、舌骨だけで判断は出来ないが、ネアンデルタールの言語能力が相当高度な段階に達していた可能性は充分に有ります。
この後で述べますが、チンパンジーやニホンザル、或いはクジラやイルカ等でも、音声(鳴き声)によるコミュニケーションが知られています。幾つかの母音も使っています。「キーキー」「キャーキャー」、全て母音を含んでいます。
ヒトもチンプ等との共通祖先から分岐した時点で、同じく何種類かの鳴き声の使い分けによる情報伝達を取っていたことでしょう。ただそれが、高度に発達した今の「人間の言葉」から見てどうなのか?、と言うだけのことです。
いずれにしても結論は出ない話ですが、今の高みからだけで歴史を見てはいけない、と言うことだけは教訓としておきたいものです。
ことばと社会
ここで重要なことは、ことばの起源を考えるとき、そもそもことばとは、ある事柄を他の人に伝えると言う働きが基本だと言うことです。その必要が無いとき、或いはそう言う伝達と言う行為が有り得ないような環境に置かれたとき、ことばを使いたいと言う衝動も又、有り得なかっただろうということです。
ヒトがことばを必要とし、ことばを獲得し発達させて来たその基礎は、お互いに協力して行く(行かざるを得なかった)人間の集団、つまり「社会」です。
逆に社会を維持し発達させる為には、事柄を伝達し意思疎通の手段としてのことばが不可欠だったでしょう。
私がヒトの歴史の早い段階で、既にことばを使っていただろうと考える根拠は、人間と社会とは切り離せないものだと言うこと、人間とは社会的な存在だと言うことです。
そもそも言葉は、どう云った事情をキッカケとして生まれたのでしょうか。
冒頭 に書いたように、言葉は意思や情報の伝達手段です。つまりはお互いの意識内容(感情や意志など)を伝え合う必要に迫られて、その必要から言葉は生まれたのです。
原始人類にとって、意思を伝え合う必要に迫られる状況、それは「群れにおける共同作業、つまりは社会的な労働」です。
チーターの足も、ライオンの牙も、ワシや鷹の羽根も持っていない人間の祖先が、しかもそれまでの樹上生活から地上の生活に移行したばかりの(サバンナ・モザイク説)、ヨチヨチ歩きのヒトが、他の動物を餌として捕らえる為には、一対一ではなく集団行動で一匹の獲物をしとめる以外に考えられなかったでしょう。
逆に強力な捕食者から身を守る為にも、一匹でなく集団で対処する以外になかったでしょう。
先祖たちの住居跡と思われる遺跡から、マンモスなど、大型獣の骨の化石が出土されることが有ります。
マンモスを一人で倒せる訳が有りません。おそらく大勢の人間で取り囲み、沼や崖に追い込み、追い落として動けない状態にして仕留めたのだと思われます。
フランスの ソリェートル地方などの崖下にそう言った痕跡を見ることが出来ます。
集団行動には何らかの合図が必要です。ましてや命がけの狩の場合など、統一され組織だった行動が必要となり、その為の合図や号令が欠かせなかったでしょう。
最初は単純な「それっ」と言う様な掛け声から始まって、次第に複雑な行動を伝え合うことが出来るような”ことば”へと発展して行ったものと思われます。
配偶相手を口説く為、求愛行動の円滑化のために言葉が発達した、との説を熱心に主張している向きも有るようです。しかしどうなんでしょうね。 そう言うことを全否定する積りは有りませんが、言葉を持たない動物でも充分に配偶相手を獲得し、子孫を残している訳で、この説を主要な原因と考えるには無理が有る、と私は思います。
何事もそうであるように、「ことば」も何も無いところから湧き出た訳では有りません。
その前提段階としての、身振り言語と、人間以外の動物でも使われている「コトバ」について検証し、ことばについての、人間と他の動物との「共通性」或いは「連続性」と、人間だけに見られる「飛躍」について考えて見ましょう。
伝達の手段として「身振り言語」と言うものが有ります。
これは耳の不自由な人とか、外国人同士、或いは声の届かない遠い距離などの時に使われます。
或いは、飼い犬や馬など、種を超えた他の動物との間でさえも、有る程度の意志を伝えることが出来ます。
音声による言葉が誕生する以前、祖先たちもこの身振り言語で、有る程度の情報交換をしていたことは間違いないことでしょう。
同時に又、チンパンジーやボノボ、ニホンザルやゴリラ、或いはクジラやイルカも、音声によるある種の「コトバ」を持っていることが知られています。
ある研究によれば、ニホンザルやゴリラの発する音声に、二十種、或いは三十種類以上の違いが有り、それぞれの状況で使い分けていることが明らかになっています。
これらの鳴き声も、音声による情報伝達の手段である以上、それをその動物の「ことば」と呼んでも間違いでは無いでしょう。
しかし同時に同じ研究によると、これら、動物のある特定の音声が、それぞれの状況で使い分けられるのは、生命の安全を守る為とか、餌を探す為とかという、彼らの本能的行動と結びついている場合に限られると言うことです。
一匹の猿が、その経験によって得た、必ずしも本能的とは言えない知識、例えば有名な、幸島の猿のイモ洗い行動などの知識は、鳴き声でなく、身振りによって他の猿達に伝えられる、と言うのです。
この点で、本能と結びついた猿の「コトバ」と、原始人が労働の必要から使うようになり、共同作業の複雑化に伴ってどんどん発展していった人間の言葉とは区別する必要が有ると言えます。
では人間の言葉と他の動物のコトバとでは、具体的にどのような差異が有るのだろうか、と言うことです。
「世界一の言語学者」と、衆目の認めるフェルディナン・ド・ソシュール(スイス、1857〜1913)は、「ことばは記号の一種だ」と言っています。
記号は全て、記号そのものとそれによって表される対象とが有ります。
道路標識の「赤」は「止まれ」を表し、消防自動車の「ウーウー」と言うサイレン音は「どけどけ!」を表す訳です。
この場合、「赤」や「ウーウー」をシニフィアン(日本語訳=能記)、「止まれ」や「どけどけ!」をシニフィエ(所記)と、ソシュールは名づけました。
ことばも又、シニフィアンとシニフィエを持っています。
「木」と言う言語記号を構成する要素は、「き」と言う音(シニフィアン)と<木>と言う対象・意味(シニフィエ)を持っている訳です。
しかしこのシニフィアンとシニフィエの間に必然的な結びつきが無いのが、人間の言語記号の特徴です。だから同じ<木>と言うシニフィエに対し、イギリスでは
トゥリー、フランスでは アルブル.と言うシニフィアンが対応すると言うことが有り得る訳です。これを「言語の恣意性」と言って他の動物のことば(鳴き声による意思伝達)と区別する重要な要素となるのですが、これはこの後すぐに述べます。
言語学からのアプローチから、先ず第一に人間の言葉と他のサル、或いはイルカ等の「コトバ」を比べたとき、人間以外の動物の「コトバ」には「分節」が無い、と言うことが挙げられます。このことは重要です。
ところで分節と文節は似たような意味内容を含みますが、違います。
要するに人間の言葉は、それを構成するさらに基礎的な要素である「単語」に分けられると言うことです。
又、単語はさらに「音」に分けることが出来ます。
これを人間の言語の「二重分節」と言います。
単語の数は膨大ですがしかし有限です。そもそも記憶力には限界が有って、日常的に使いこなせる単語の数には制限があります。
また人間が発することが出来る音は、その言語によっても違いますが、まあ数十程度です。日本語では「五十音」などと言われています。いずれにしても100を超える音素バリエーションを持っている言語は珍しいでしょう。
それに対し、言語で表される事柄のバリエーションは無限だと言っていいでしょう。 又将来、次から次に伝えるべき新たな事柄が発生します。
人間はこの無限と言える事柄を、有限個の単語の「組み合わせ」で表現します。 その単語もまた、より限られた(僅か100足らずの)音の組み合わせで表現します。
これが人間の言葉の特徴です。
つまり、分節を持つことにより人間は、限られた要素の組み合わせで、無限の意味内容を表現できるのです。
それに対し人間以外の動物の「コトバ」は分節を持ちません。
確かに二十種、或いは三十種類の、異なる鳴き声を使い分けることが出来ます。しかしその鳴き声は、それに対応したそれぞれの特定な一つの意味内容しか表すことしか出来ません。
つまり、30種類の鳴き声のバリエーションが有ったとしたら、伝える意味内容も又30種類に制約される、と言うことです。
人間以外の動物は鳴き声を組み合わせて、伝える意味内容を作り上げることは出来ないのです。
特別の研究対象として、人間によって言語訓練されたチンプやボノボ(京都大学霊長類研究所のアイやアユム、或いはスー博士の研究で有名なカンジやパンバニーシャ等)が、幾つかの単語の組み合わせで、自分の意識内容を表現できることが知られています。つまり初歩的な分節を使いこなしている訳です。
ここにも「連続と飛躍」の実例を見ることが出来ます。
勿論この場合、チンプやボノボが鳴き声をコントロールして、音声言語として分節を表現している訳では有りません。特別に設計されたキーボードを介してのことです。
もう一つ重要な違いが有ります。それは人間の音声言語特有な「恣意性」です。「任意性」と言っても良いでしょう。
つまり「単語」と「音」には、それをあらわす事柄との間に何の必然的な結びつきが無いと言うことです。
この、人間の音声言語の恣意性については、下に書いておきました。この恣意性によって、人間の言語の抽象的発展の可能性が、ひいては抽象的思考の発展が開けるのです。
それに対し、上で述べたように動物の鳴き声(コトバ)が、ある程度本能と直結したものである以上、その鳴き声は、それによって表そうとする感情や、情報内容と本来的に結びついています。
危険を知らせる鳴き声は、甲高いものになるでしょうし、地位の高いものに恭順の意を示すときの鳴き声は低く軟らかいものになるでしょう。
それは、具体的な状況に具体的に対応していると言う点で、つまり情報内容を忠実に伝達する手段としては優れていると言えるかも知れません。
事実サルの「コトバ」を知らないわれわれがそれを聞いても、どう言うことを言いたいのかある程度は分かります。
イヌなどのペットを飼っている人は、日常的にペットとの意思疎通を感じていることでしょう。
つまり人間以外の動物の「コトバ」は、その表す情報内容と直結しているのです。 その点で「恣意性」「任意性」が有りません。
しかしやはりこの「恣意性」の欠如は、それを使うサル達に抽象的思考を与えることを妨げます。
オーストラロピテクスが一種のサルであった限り、彼らもまた、ニホンザルやゴリラと同様に、彼らの本能と結びついた何十種類かの鳴き声を持っていたことでしょう。
それにもかかわらず、彼らの新しい経験、元来樹上生活をしていた彼らの本能だけによっては解決出来ない事柄についての新しい経験を、どうしてニホンザルの場合に言われているように、身振りではなく音声によって、或いはその組み合わせによって、相互に伝え合うようになり、それが人間の言葉にまで発展するようになったのか。
これらのことは化石として残ることは無いので、確かめることは出来ないのですが、次のハンターの実験などはその一つのヒントとなるものでしょう。
※ ハンターの実験
ことば(音声言語)が、労働における共同作業の必要から生まれたものである、と言うことを、チンパンジーを使って実験的に確かめようとした人があります。アメリカの心理学者、W・H・ハンターと言う人です。
ハンターは、腹の減った二匹のチンパンジーを同じおりの中に入れ、おりの外に重い台を置いて、その上にバナナなど、チンパンジーの好物を置きました。
台には二本の綱が付けてあり、その綱のもう一端はおりの中に入れて有ります。
台は、手を伸ばしても届かない距離と、一匹のチンパンジーが綱を引いたのでは動かないが、二匹が力を合わせて引けば動く程度の重さにしてあります。
ハンターは、こう言う特殊な状況を作り、餌をとるには二匹のチンパンジーが共同作業をせざるを得ないよう強制し、その経過を観察したのです。
チンパンジーは腹が減っているので、餌を取ろうとして手を伸ばしたり、綱をひっぱて見たり、しかしダメなので諦めたり、ますます腹が減ってくるので又引っ張ったりして、無駄に時間を経過させるのです。
だが、一匹が綱を引いているとき、他の一匹は寝そべっていたりして、なかなか共同作業は行われず、無駄な努力が続くのですが、やがて一匹のチンパンジーが一本の綱を持ち、他の一匹に身振りで、お前も引っ張れと指図したのです。
そこで二匹が綱を引くのですが、それでもタイミングが合わなくてなかなか台は動きません。
その結果、ハンターの報告によれば、一匹が鋭い叫び声を上げ、その叫び声を合図にして二匹が力を合わせて綱を引き、台を動かしたと言うのです。
このばあいの鋭い叫び声、と言うのは「引け」とか「よいしょ」とか言う意味だと理解してよいでしょう。
共同作業の必要がチンパンジーに”ことば”を発させたのです。
この実験はあまりにも人為的な条件で、人間がトゥーマイからオーストラロピテクス、そしてホモ・サピエンスへ進化する過程で、ことばを獲得した状況をそのまま再現しているとは言えませんが、しかし、両手で綱を引っ張っている、と言うような、身振りで相手に意思を伝える余裕が無いときに、しかも相手にある意思をどうしても伝える必要が有るとき、その伝達が音声で行われた、と言うことは注目に値します。
原始人へと進化する過程で、身振り言語が音声言語へと変わる契機も同じようなことだったのでしょう。
言葉はもともと、集団での共同作業の必要から、情報伝達の手段として生まれました。
しかし、その発達に伴い、単に情報伝達の手段と言うだけに留まらず、思考の手段に、いや思考そのもの、意識そのものとも言える程の意味を持つようになって来ました。
言葉もまた人間を作ってきたのです。
言葉は何よりも先ず、ある人が他の人に自分の意識内容(認識、感情、意思など)を伝達する為の手段です。
この意識内容のうち、伝達するに当たって、もっとも単純な手段で間に合うのは「感情」です。 言葉を知らない赤ん坊でも、泣き声である程度の感情を伝えることが出来ますし、言葉の通じない外国人同士でも、顔の表情、身振り、声の抑揚などである程度の感情は伝えることが出来ます。
上で述べたように、種の違うサルやウマ、ウシでさえ、その泣き声から有る程度の感情を汲み取ることが出来ます。
しかし、認識、意識となると言葉以外での伝達は難しく、この場合話す人と聞く人が同じ言葉(民族語)を理解出来ていることが必要になります。
人間は全て”ことば ”を使用する動物であるのに、世界の人類が現在使用していることばの種類が極めて多い、と言うことはことばが人類と言う動物の種に、本能的に属しているものでなく、歴史的社会的に形成されたものであること、又、ことばが生まれ発展してきた人類の過去において、人類の過去において、人類の共同生活が地域的にかなり限られた範囲内でしか行われておらず、今日のようにグローバルな経済的・文化的な交流が行われるようになったのは、比較的新しい出来事だと言うことを示しています。
上記で人間の言葉の特徴として「恣意性」を挙げました。そのことに関連して。
このページ上の方で、伝達の手段としての「身振り言語」について少し触れました。
身振り言語の場合には、身振りとその表す対象の間に類似性があることが必要です。 例えば「酒を呑みたい」という意思を伝えようとしたら、徳利や盃を持って、お酒を呑む身振りをする必要が有ります。
しかし音声言語の場合、表されるものと、これを表す言語との間に何らかの必然的な結びつけが無いのが特徴です。上で述べた「言語の恣意性」です。
だから同じもの、例えば毛髪を、日本人は「カミ」という音声で、イギリス人は「ヘアー」という音声で、フランス人は「シュヴー」という音声で表す、ということが有りうるのです。
この、表す音声とその対象との間に、必然的な結びつきを必要としない性質が、音声言語に特有な発達の可能性を開きました。それはどの言語にも見られる「語義」の転化の可能性です。
ある音声がその音声によって表されるものと、必然的に結びついていないからこそ、同一の音声からなる語が表すものが、時代によって変化して行き、その語の意味(語義)が多様化し、本来の語義(語源的な語義)の他に、幾つかの派生的な語義を持つようになるのです。そしてついには、どれが本来の語義で有ったのか、特別な研究をしなければ分らないという場合さえ生まれます。
例えば「カミ」という音声は、日本語では、頭に生える毛(髪)を表し、同時に、上下という場合の上の方向を、川の上流の方向を、高い所を、位の高い人(例えば、天皇や官庁の長官)を、そして超自然的な力を持つ霊(神)を表します。
このような、表されるものの転化の可能性は、身振り言語については考えられないことです。
頭の毛を指差せば、髪を現すことは出来るでしょう。しかしその同じ身振りで、位の高い人や、神を表すことは出来ません。
「カミ」に限らず日本語では、音が同じで有りながら漢字表記が違うことで、意味内容を微妙に使い分けているケースが極めて多く有ります。
「有る」「在る」、「取る」「採る」「捕る」「摂る」「獲る」、「会う」「逢う」「遭う」「遇う」、等など挙げてゆけば切が有りません。
そういえば「上げる」「挙げる」「揚げる」なんてのも有りますね。
これも「言語の恣意性」がなせる技でしょう。そして漢字の持つ造語力・融通性と………。
今述べた音声言語の特徴は、本来は伝達の手段として生まれたことばが、同時に思考の手段に、いや手段というような外的なものではなく、むしろ思考そのものと言って良いほど思考と密着したものになっていった、ということを抜きにしては考えられないことです。
事実人間は、ことば抜きで考えることは出来ません。思わず「コンチクショウ」と思った時でも「この」と「ちくしょう」と言う言葉抜きには出来ないことです。
現在、チンパンジーやボノボなどについて、その言語能力を調べる研究が進んでいます。
アメリカの スー・サベージ-ランバウ博士による、天才ボノボ「カンジ」への訓練、研究は特に有名です。
或いは日本でも、京都大学霊長類研究所の、松沢哲郎氏を中心としたチンパンジー、アイの研究が有名です。
その内容について、詳しいことを私は承知していませんが、訓練次第で相当な言語能力を身に付けることが出来るようです。又そのことばを使ってある程度の抽象的思考も出来るようです。
もっとも、ことばといっても、チンパンジーやボノボは、声帯構造の制約から音声言語は使えません。どちらもキーボードなどを使っての研究です。
この、言語能力の取得による抽象的思考獲得の例として、私が興味を持ったことがあります。
野生のチンパンジーなども道具の使用、或いは簡単な製作をしていることは 「道具……」でも述べていますが、「道具を使って道具を作る」ことは無いそうです。
しかし言語能力の観察用に飼育されている、先出のボノボやチンパンジーの中には、この「道具を使って道具を作る」ことが見られるとのことです。
やはり常に人間の行動を見る機会が有ると言うことと共に、上記言語能力の取得に伴う抽象的思考が訓練された、その結果ではないか、と思っているところです。
山で 突然クマに出会ったとき、当然クマを「感覚」します。この感覚は、その対象(この場合、目の前のクマ)と直接結びついています。つまり感覚とその対象は「1対1」で有り、常に「個別的」です。
それに対し言葉で「クマ」と言った場合、直接感覚しているクマを指すことも有りますが、「クマ」と言う言葉で色々なクマを表すことが出来ます。
つまり、ことばとそれが表す対照との関係は「1対多」の関係だ、と言うことです。
ことばを持つことによって、人間の意識は、対象を(感覚のように個別的ではなく) 一般化して反映することが出来るようになった、と言うことなのです。
ことばを使い始めた原始人は、 おそらくはじめのうちは、ことばを具体的・個別的なものを表す手段として使ったのでしょうが、ことばを使うことが度重なる間に、何世代も何十世代も掛かって、だんだんと一般的なものにかかわることに、抽象的に思考することに習熟して言ったのでしょう。
この、具体的・個別的なものについての思考から、一般的・抽象的な思考への発達と言うこの方向は、未開的種族のことばを研究することで、その痕跡を見ることが出来ます。
ある未開種族のことばには「足」と言う単一の語が無くて、その代わり「人間の足」、「犬の足」、「カラスの足」などを表す、それぞれ別の語があるということです。
例えばの話ですが、人間の足を「アポ」、犬の足を「メトカ」、カラスの足を「クン」と呼ぶ、と言うようなことです。
確かに人間と犬とカラスでは、足の形は随分違っています。感覚内容に応じて、それを表す言葉を使い分けると言うことは、感覚対象に忠実であるという点で、未開種族のことばの方が優れていると言えます。
だが、このようなことばの具体性は、逆に抽象的思考の未発達に照応するものです。
形にとらわれず(つまり感覚内容に密着せず)、それが動物の身体の中でどのような部分であるか、と言うことの共通性に注目することが出来れば「足」と言う単一の語が生まれる筈であり、今日の文化的諸民族のことばは全てこのような、具体的・個別性から一般的共通性へという発達の道をたどって形成されて来たものと考えられます。
つまり、「足」ような単純な語の中にも、過去の人類が行ってきた思考の発達の成果が内臓されているのです。
我々が、ムカデのあの爪のような形のものを「足」と言う「ことば」を媒介としてとらえている限り、そこには既に過去の人類が行った抽象的思考の成果が入り込んできているのであって、ただの感性的認識ではないのです。
ことばはこのように、語と語、そしてその対象との間の複雑な連関として、過去の人類の認識活動の成果をその中に内臓していることを意味します。
ことばは又、多くの語を持っています。そしてこれらの語は互いに無関係では有りません。
例えば、「サクラ」、「植物」、「生物」と言うことばの関係とか、又「サクラ」、「馬肉」、まわし者」と言う三つの語の関係など。
前者は、単に語の関係であるだけでなく、それらの語によって表される対象の関係と照応しています。したがってこれらの語を、英語やフランス語、スペイン語に翻訳した場合にも見出される関係です。
後者は「サクラ」と言う語が、同時に「馬肉」をも、「売り手とグルになって買い手のふりをするまわし者」をも表す、と言う日本語特有の関係です。
後者のことばを知ることは、単にことばを知ることに過ぎませんが、前者の関係を学ぶことは、ことばの学習を通して実在対象の関係をも学ぶことです。
現実の諸対象の相違、類似、包含(例えば「サクラ」という語で表される対象は、「植物」と言う語で表される対象に包含される)、内蔵(例えば、「きれい」と言う語で表される性質は「サクラ」と言う語で表される対象に内蔵している)などの関係を知らなければ、それらの対象を表す語を正しく使うことは出来ないし、それらの語を正しく使える、と言うことはそれらの語によって表されている対象についての、正しい認識をある程度持っている、と言うことを示しています。
瓶に「工業用アルコール」と書いてあるラベルを貼ると言う事は、その中身がメチルアルコールであり、飲んではいけない と言うことを、読む人が知るだろうと期待しているわけです。
現代人の認識がことばを用いての認識だ、と言うことはこのように、過去の人類の認識活動の成果によって媒介された認識だ、と言うことです。
上記のように、言葉とその対照の関係を理解している者にとって、あるものの名称が何であるかを知ることによって、そのものについての知識を一度に得ることが出来ます。
※ 言語によって失ったもの
2006年15日、NHKで「天才チンパンジー親子、アイとアユム」と言う番組を見ました。上記でも若干触れた京都大学霊長類研究所で研究用に飼育されているチンプたちの、訓練風景を撮影したものです。
このなかで特に印象深かったのが、コンピュータ画面に表示される数字を、小さい順に押さえてゆくシーンです。
単に順番に押さえてゆけば良いのでなく、最初の、1 を押さえた瞬間、他の数字は白い四角で覆われ、位置情報だけになってしまいます。つまり、1 を押さえた時点で他の数字を全て記憶していなければなりません。
アユムは最終的に9個の数字を、僅か1秒弱で覚えて、間違いなく押さえてゆきました。
この芸当は人間には(少なくとも私には)絶対出来ません。私の場合、せいぜい3個か4個が限界でした。
実はここで、私にとっては非常に貴重な思い付きを得ました。
我々人間がこの数字を覚える時、必ず、イチ、ニ、サン………、と頭の中で言葉と一緒に覚えて行くと言うことです。どうしてもそうならざるを得ません。
このやり方では1秒弱の時間内に追いかけられる数字の数は、せいぜい3つか4つと言う訳です。
人間の言葉を持たぬアユムは、おそらく写真を撮るように、直接感覚内に反映しているのではないか?
ヒトはコトバを持った為に、純粋な感性的認識を失ったと言われます。
おそらくヒトもチンプとの共通祖先と枝分かれした当座は、アユムと同じような「感性的能力」を持っていたのでしょう。
それが言語の獲得、それに伴う理性的能力の獲得に伴って、次第にその能力を失っていったものと思います。
このことは番組の中で、松沢博士も触れていました。
知的障害を伴う自閉症患者の中に、驚異的な記憶力や表現力を発揮するケースがあるようです。サヴァン症候群と呼ばれていますが、何らかの関係があるのでしょうかね