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道具は経済学的に言えば、労働手段です。
土地や原料、材料などの労働対象と、人間の労働のあいだに有って、双方を仲介し、生産を挙げます。つまりモノを作り環境を変えてゆきます。
しかし、道具はそれに留まらず、人間そのものを作って来たのです。道具の作製、使用抜きに、「人間への移行」は絶対に有り得ませんでした。
そして重要なこととして「道具」は、遺伝子DNAに依存するものではなく、つまり生物学的な要因によるものではなく、人間の社会的な成熟・発展に依拠するものだと言うことです。
「人間にとっての道具」を考えるとき、二つの大きな意味が考えられます。
※ 道具を使う動物は人間だけに限りません。種や個体によっては道具を「作る」ケースさえ観察されています。
ヒトの祖先が始めて道具を使い始めた契機を考えるとき、こう言う観察ケースは参考になるでしょう。
しかしやはり人間の道具と、他の動物の「道具」と同列に論じることは出来ません。この辺の事情は後述します。
トゥーマイなど最近の相次ぐ人骨化石発見以前、化石として知られている最も古い「人類の祖先」は、長らく「アウストラロピテクス」がその名誉を担っていました。
このアウストラロピテクスが既に道具を使っていたらしいことが知られています。
彼らの餌になったと思われる動物の骨が一緒に出土されるのですが、その中に、尖った石か何かで殴られたと思われる痕跡や、骨から肉を剥ぎ取ったと見られる痕跡が有るからです。
ただ この場合、最初彼らは石器を「作って」使ったのでなく、近くに有った、尖って手ごろな石を見つけて道具としたのでしょう。
しかしそう言う都合のいい形と硬さをもった石は、そうそう沢山見つかる訳では無いので、やがては、石を割ったり欠かしたりして都合の良い形に変える必要が出てきます。
つまりは、必要に迫られて道具を作ることとなったのでしょう。
道具を作る、とはどう言うことでしょうか。
例え幼稚な石器であっても、道具を作るということは、それを使うときのことを予想して、その目的に適うように目の前の材料を加工する、と言うことを意味します。
目先に餌が飛び出してきたのを、反射的に捕まえると言った、目先の具体的な現象を「感覚」するだけでなく、将来使うであろう時のことが予想出来なくてはなりません。つまりは抽象的な「認識活動」が不可欠です。
この予想は、過去に他の道具を使ったときの経験が記憶されていて、これが将来の目的へと投射されることで生まれるものです。 言い換えれば、過去が未来へと媒介されることによってはじめて、道具を作るという現在の行動(作業)が可能になるのです。これは相当高度な認識活動と言えます。
勿論このようなことができるようになるには、何世代もの長い時間が必要だったに違いありません。しかしそのような必要が脳の発達をうながしたのであり、目の前にあるこのものを直接感覚するという能力を超えて、将来おこり得るであろうさまざまな場合を一つにまとめて予想すると言う、意識の重要な特徴の一つが漸次的に形成されていったのです。
石器にも当然幼稚な段階から、それなりに洗練された段階への歴史的な移行が有ります。
ルロワ=グーランという人は、先史時代のことは石器の刃先を調べると良く分かる、と言っています。つまり、同じ石器の破片1kgで比較した場合、刃先部分の長さが、初期の礫石器(300万年前)では10cmであったのに対し、5万年前(ネアンデルタール人)では2m、2万年前(クロマニヨン人)では20mと言う比率で、鋭利化しています。
このように鋭利な刃先を得る為に、例えば「ルヴァロワ技法」と呼ばれる加工法では、10回程順序正しく正確に石に打撃を加えて行く必要が有るそうです。
つまり後先考えずに行う、出まかせ作業ではなく、周到な計画を伴う、抽象的な思考能力抜きには出来ない行為です。人間は道具を作り、発展させることを通してこの抽象的思考を発展させてきたのです。
石を割って石器を作る、と言うことは、目の前に有る材料としての石が、石器にとって必要な、「硬い」と言う、既に存在している性質を認識する能力が、当然必要です。
同時にそれだけでなく、「尖った形」と言う、未だそこに存在していない性質までも認識する能力が必要です。
目の前の、今現在、直接的に感覚出来ることを脳に反映するだけでなく、将来の予想される出来事、目の前に未だ存在していない要素までも反映する能力。道具を作り、使うことを通じて、幾世代もの時を経て次第に人間の意識が、つまりは脳が鍛えられて来たのでしょう。
頭が良かったから道具を作ることが出来たのではなく、道具を作る・使う過程で頭が良くなったのです。
それはアウストラロピテクスの脳容量が、他の猿と殆ど変わらない、と言うことからも証明できます。最初から頭が良かった訳では無いのです。
同時に、道具を作り使うと言うことは、手先の器用を促します。 それは又、おそらくその働きを司っている中枢神経・脳の発達を促すことになったでしょうね。
道具は人間が作るものですが、同時に道具が人間をつくったのです。
※ 道具使用キッカケの、一つの説として「死肉あさり」が有ると言われる。
二足歩行を始めたばかりの、いわばヨチヨチ歩きの猿人にとって、生きた獣を狩ることは難しかったので、他の肉食獣が食い残した残骸をあさることが多かったと思われる。
その際、肉は既に食い尽くされているだろうから、主に骨髄を引っ張り出して食べていたのではないかと言うことである。
骨髄は栄養も抱負で美味ではあるが、硬い骨の中に有る。その骨を砕く為に、石や棒を道具として使い始めたのではないか。
肉食は又、脳の増大に大きく貢献した。
脳は非常にエネルギー消費が激しい。植物食だけでは脳の増大をまかなえないと考えられる。
つまり道具の使用は脳の増大の原因となり、脳の増大は逆により複雑な道具の製作を可能にしたのだろう。
人間は道具を使う動物です。そしてその道具を作る動物です。
しかし、道具を使う動物、或いは作る動物は必ずしも人間だけとは限りません。
例えば、石を使って貝を割るラッコ。小枝を使って木の穴の虫を吊り上げるキツツキの仲間。 或いは様々な道具を使うことが目撃されているカラス、 硬いダチョウの卵の殻を、石を使って割り、中身を食べてしまうエジプトハゲワシ。アブラヤシの実を、石で割るチンパンジー。
道具を「使う」だけでなく、道具を「作る」ケースも有ります。葉をむしりとった小枝でシロアリを吊り上げるチンパンジーが観察されていますが、この場合「葉をむしりとる」と言う行為はある種、道具の加工、或いは作製と言えなくも有りません。
しかし道具を作ることと使うことが、行動様式の中心に据えられているのは勿論人間だけです。そして、「道具を使って道具を作る」動物も人間だけです。
人間は「道具によって、自然に働きかける道」に踏み出した唯一の動物です。 このことの意味を考えて見ます。
道具は身体器官の延長・代用です。例えば、石斧は拳骨の延長、着物は毛皮の代用、自転車や飛行機は云わば足や鳥の羽根の延長。そしてコンピュータは人間の脳の延長と言うことです。
※ 道具をさらに二つに分けて、狭い意味での、手の延長としての「道具」(例えば、金づち、斧、ヤットコなど)と、手の代用としての「機械」に分けて考える場合も有ります。
イギリスで始まった産業革命は、それまでのマニュファクチャに於ける「道具」による生産から、蒸気を利用した「機械」による生産への発展が契機となったものです。
機械は人間の手の代用であり、人間の代わりに自動的に生産を上げてくれます。 いわば人間の手と道具の、1対1の対応・束縛から開放され、1対多の生産に移行出来ました。
そのことにより逆に人間は、生産の中心的な担い手から機械の保守・管理、操作が中心になりました。
人間が、道具を作り・使う、と言う道を歩み出したことは、その後、人間社会が飛躍的に発達する上で、決定的なことでした。
身体器官と比較しての、道具の特質は何でしょうか。
それは、その進化・発達が遺伝子に直接依存していないと言うことです。知識や技術の発達に伴い、無限にしかも急速に発達させることが出来るし、簡単に取り替えることが出来ることです。
恐竜の前足が羽根に変化し始祖鳥になるまでに、何万年或いは何千万年掛かったか、正確なところは承知していませんが、羽根の代用としての航空機は、ライト兄弟の初飛行から未だ100年位しかたっていないにもかかわらず、今や月に人間を送り、太陽系の最外部を覗うまでになっています。
動物の行動様式は、その身体のつくりと密接に係わっています。
ヒバリを海岸で見ることはないし、カモメを麦畑で見ることは出来ません。
身体のつくりは遺伝子DNAに直接依存し、進化には地質学的時間を必要とします。又一旦確立された身体のつくりと行動様式は、環境が変わったからと言って簡単に変えることは出来ません。
白熊の毛皮は極地の酷寒の環境では威力を発揮しますが、温暖の地に住む為に簡単に脱ぐと言う訳に行きません。
道具は、身体器官の延長・代用ですが、遺伝子の進化に伴う身体器官の変化を必要としません。
同じホモ・サピエンスとして、20万年前から身体のつくりは基本的に変わっていませんが、行動様式や意識活動はまるで違います。
遺伝子DNAに依存しない、道具による生活の道に踏み出したと言うことは、本能から学習・訓練の道に切り替えたと言うことでも有ります。
その為人間は、自立するまでに長いながい学習期間を必要とすることになりました。
高校を卒業するまで18年、大学は22年。卒業後も「生涯学習」が必要ですね(縁の無い人も居ますが)。
同時に学習の道に踏み込んだことにより、人間は脳の容量がドンドン大きくなって来ました。前回も言いましたが、アウストラロピテクスの脳の大きさは、350〜500ccで、他のサルと同じでしたが、現生人類は約1400ccです。わずか500万年位の間に3倍或いはそれ以上になった訳です。こんな動物は他に有りません。
※現在「本能」と言う言葉は、専門家の間ではあまり使われなくなったようですね。
「本能」とは一般的に言って、「遺伝子DNAの情報に基づき、生後の学習(模倣・練習など)を必要としない、生得的な行動様式」とでも定義できるかと思います。
「本能的(instinctive)」の 語は、生得的とほぼ同じ意味で使われている。と、岩波「生物学辞典」にも記述されています。
取り合えずここでもそのような意味合いで使っておきます。
しかし色々な観察の結果、従来「本能的」とされていた行動パターンが、実は生後の環境と深く係わっていたり、"素材"としては「生得的」なのだが、その発現には生後の環境や学習が必要だと言う行動パターンが各種見出され、一筋縄ではいかないことが分かって来ました。
現在では、本能は記述の為の概念としてのみ用い、説明概念としては用いられていない(岩波生物学辞典)、そうです。
昆虫はは殆ど、親による子供の世話が有りません。つまり子供からすれば、親からの学習の機会が有りません。
モンシロチョウは、緑の葉っぱに卵を産み付けるだけで、後は全くのホッタラカシです。子供が卵から孵化したとき、殆ど、親は既に死んでいます。
それに昆虫の寿命は、ワンシーズンと言うのが殆どです。 蝉やトンボなど、幼虫で土や水の中に何年か過ごす場合がありますが、成虫になってからは数日の寿命です。学習してもそれが蓄積されると言うことは有りません。
そこで昆虫は、学習や模倣を必要としない本能を、極端に発達させることで生き残る戦略を選びました。
その、あまりにも見事な例を一つ紹介しておきます。
ヒメバチの産卵
メスのヒメバチは長い産卵管で、地中のイモムシの体内に卵を産み付ける。
イモムシの体内で孵化したヒメバチの幼虫は、イモムシをその体内から食べ始める。
ここでヒメバチは驚くような行動を取る。 最初はイモムシの貯蔵脂肪や結合組織などだけを食べ、イモムシにとって致命的な器官は残しておくのだ。
そして、イモムシの幼虫がさなぎになると、はじめてヒメバチの幼虫はイモムシのさなぎを全て食べつくし、最後にヒメバチの幼虫はイモムシのさなぎから出て、さなぎになる。
成虫になったヒメバチのメスは、同じように又、イモムシに産卵する。
この一連のヒメバチの行動の、どの段階をとっても、ヒメバチは親の行動を見ていません。
特に、母親が自分をイモムシに生みつけてくれたこと、そして自分も同じくイモムシに卵を産み付ける必要が有ることを、どうして理解しているのか。
これは自然に見られる適応の、あまりに見事な例として有名です。
※ 他の昆虫の幼虫(イモムシ)に寄生産卵するハチはヒメバチに限りません。広く見られます。
こう言った産卵行動を取るハチを、一般的に「寄生バチ」と呼びます。寄生バチとその犠牲になる宿主、及び宿主であるイモムシの食害を受ける植物との、複雑に絡み合った三つ巴の生き残り戦略が見られます。
この寄生バチによる余りに見事な適応、或いはミツバチの「8の字ダンス」等を見るにつけ、ダーウィンが言うように「突然変異」と「自然選択」だけで、本当にこの複雑な行動様式が可能だったのだろうか、素朴な疑問を抱かざるを得ないところです。
獲得形質の遺伝、ウィルス進化論、分子の自己組織化など、その中身は別として、何らかの方向性の関与を想定したくなりますね。
これに対し、例えば鳥は、学習によって適応能力を高める方向に、ある程度進化した動物だと言えるでしょう。
卵から孵化したばかりの幼鳥は、殆ど飛ぶことが出来ず、勿論餌を摂ることも出来ません。
生きる為、基本的に必要なこれらの機能は親からの訓練によって学習します。
これは、親からしてもなかなか大変な事業で、その為鳥類の多くの種は、 父・母共同で力を合わせ、子育てをする必要に迫られます。多くの鳥類がペアで巣作り、子育てするのはその為です。
しかし、「学習によって適応能力を高める」と言う、この行動様式そのものが、鳥類の本能だ、と言われれば、或いはそうかも知れません。
脳の増大は、人間のメスに難産と生理的な早産を宿命づけました。
人間の難産はご承知の通りです。産院中に響き渡るような大声をあげて子供を生む哺乳類は人間以外に有りません。
これは決してイブが禁断のリンゴを食べたための、神からの仕置きのせいでは有りません。ひとえに脳の増大に伴う胎児の頭の大きさによるものです。
早産も同じ理由からです。
人間の新生児と、他の哺乳類のそれとを比べて目に付くのは、あまりにも無力な人間の新生児です。
他の哺乳類の赤ん坊は、出産後30分もすれば立ち上がって歩き出します。イルカや鯨は出産直後に泳ぎ始めます。それと比べて人間の赤ん坊の「ひ弱さ」は異常です。
人間の一番の特徴である、二足歩行でさえ、生後10ヶ月を経ないと出来ません。
人間は本来の出産時期と比較し、およそ10ヶ月から1年位早く生み出されるそうです。
本来は、もっと母体で育ってから出産される筈だったのが、それでは頭が育ちすぎて、産道と骨盤が持たないのです。
ギリギリ のところで、早産すると言う事情らしいですね。
※ 難産になった理由として、母体側の事情も有ります。人間の直立歩行です。
直立により内臓を骨盤で支える形になったのですが(その辺の事情はこちら)、実はその内臓を支えることと産道の広さとは矛盾します。
内臓を支えるためにはなるべく開口部が狭いことが望まれます。あまり広くなると、重力によって内臓がそこから飛び出してしまう(ヘルニア)ことになります。
しかしそのことによって産道が狭まると、今度は胎児の頭が通り抜けることを困難にし、ヒトのメスに難産を強いることとなります。
人間のメスの難産は、ヒトの進化の過程を背負ったいわば宿命的で有る訳です。決してアダムが禁断のリンゴを食べたせいでは有りません。
ひ弱で生まれ、その後の長い学習、これはヒトを取り巻く「社会」との、切っても切り離せない有機的な繋がりを意味します。
ヒトは「直立二足歩行」を基本的な特徴とする動物であるにも係わらず、その直立二足歩行が実際に可能になるのに、生後約10ヶ月を要します。しかも他の哺乳類の新生児が自分一人で歩き出すのと違い、ヒトの赤ん坊は両親や家族との深い係わり無しでは、直立二足歩行さえも身に付かないのです。それは「コトバ」でも同じことが言えます。
社会から切り離されて育った場合、同じ「ヒト」で有りながら人間としての特性を身に付けずに育つ場合が有り得ます。
このことは、周りを取り巻く社会がどうであるか、と言うことが人間の成長と内面に決定的な影響を及ぼすことを意味します。
社会は人間の本質そのものです。(その辺の事情は、こちら)
「鳥は自由でいいなあ」、とか「鳥のように自由に飛びたい」等といいます。鳥は本当に自由でしょうか。
確かに鳥は空を自由に飛べるような気がします。しかし、カモメを麦畑で見ることは無いし、同時にヒバリを海辺で見ることも有りません。
鳥に限らず動物は、種類によって餌の種類、その捕り方など厳密に決まっていて、体の作りもそれに合わせたものになっています。
それによって、居場所も又厳密に限定されるのです。
体のつくりは、遺伝子DNAによって決まっていて、簡単には変えることが出来ません。
何万年、或いは何億年の進化の果てに、出来上がった今の身体と生態は、環境が変わったからと言って簡単には変えることが出来ないのです。
クマゲラは、豊かな広葉樹の森が無ければ生きられず、ムツゴロウは豊かな干潟が無ければ生き残れないのですね。
人間はどうでしょうか
人間には鋭い爪も牙も有りません。空を飛ぶ羽根も有りません。チーターの様に速く走る足も有りません。海で生きる為のエラももっていません。
普通ならとっくの昔に、猛獣に食い殺されて絶滅していても不思議では有りません。 事実、密林から追い出され直立二足歩行を余儀なくされたヨチヨチ歩きの我われの先祖は、おそらく他の獣や爬虫類の格好の獲物だったかも知れません。
それが絶滅もせず、逆にここまでのはびこりようを見せているのはどうしてか?と言うことです。
人間は道具を作り、使って自然に働きかける、と言う生き方に踏み出しました。
道具は人間の、或いは他の動物の身体器官の代行・延長です。直接遺伝子に依存している身体器官と違い、知識や技術の発達に伴い、無限にしかも急速に発達させることが出来ます。
又身体器官と違い、簡単に交換することが出来ます。
白熊の毛皮は極地の酷寒の環境では威力を発揮しますが、地球が温暖化したからと言ってそれに合わせて簡単に脱ぐと言う訳に行きません。
人間の衣服は極地や高地にも適応できるよう改良が重ねられて来たし、暑いところでは脱ぐことも自由です。
コンピュータは人間の脳の代行・延長です。人間の脳は世界でもっとも発達した物質です。
コンピュータが脳の機能の全てを代行出来ている訳では有りません。人間の脳の機能は、計り知れないほど奥深く、広範です。そもそもコンピュータを作りソフトで動かしているのは人間の脳の力です。
しかし同時に、コンピュータは分野によっては脳の機能を遥かに追い越しています。
決まったパターンの計算や、記憶では、どんな天才と言えどもコンピュータの敵ではないでしょう。
最近のトピックとしては、チェスの世界チャンピオンを負かしたコンピュータがでましたね。
しかし今の所、曖昧でファジーな問題の処理に付いては、コンピュータは人間の脳に遥かに及びません。
こんなことは有りませんか?
美人と、一瞬顔を合わせたとします。その人とは初対面で、それまで何の情報も持っていなかったとします。
しかしその後もしばらくは、その人の顔を頭の中で思い浮かべることが出来ます。そればかりでなく、その人の笑い顔、怒った表情など,実際には経験していないことまで、思い浮かべることが出来る場合すら有ります。
これはおそらく、それまでに経験した膨大な経験の中から、共通な要素が抽象されていて、逆に個々の具体的事例の際に適用されるんでしょうね。
こういう点で、コンピュータと言えど、やはり人間の脳には歯が立ちません。コンピュータも人間が作っているのですから。
自分の持ち物で有りながら、自分でも充分理解できていない、ってのも不思議なものですが、それだけ脳は奥が深いですね。
ところで、コンピュータは脳の代行・延長として人間が作ったものですが、そのコンピュータの働きを見ることで、逆に脳の働きが理解できた、と言うことも有るそうです。
どちらにしても、これから道具は限りなく発達するでしょう。それにより、自然に対する働きかけの規模も、かってとは比較にならないことになっています。
今や人間は地球の環境に直接影響を与えるまでに、道具を発達させてしまいました。
道具そのものに罪は無いのですが………。